第10話 宇治にて③ 宇治上神社(神社建築雑感)
宇治神社を出て、右手に進むと、立派な朱の鳥居と『世界文化遺産 宇治上神社』と書かれた巨大な石碑が見えてきました。
宇治上神社です。
雰囲気は、先ほどの宇治神社が明るい感じの里宮だとすると、こちらの宇治上神社は山奥に鎮座する奥宮といった感じです。このような近隣にあるのに対照的な二社というのも、興味深いものです。
朱の鳥居に紅葉が良く映える参道、その奥には、拝殿が見えています。
こちらの拝殿、鎌倉時代の造営で、国宝に指定されているのですが、歴史的な価値は置くとしても、深い山を背負ったその姿は、心に響くものがあります。
なにはともあれ、まずはお参りです。道中の無事と家族の安寧を願って頭を垂れました。
拝殿の脇には、『←本殿→』の表示がありました。どうやらどちらから回っても良いようです。
さしあたって、右側から拝殿の裏手に進むと、穴を屋根で覆ったような苔むした小屋が現れました。どうやら下から水が流れ出ているようです。
これが、現代に残る唯一の宇治七名水、桐原水でした。
拝殿には詣でてしまいましたので、順番が狂ってしまいましたが、まだ本殿にお参りする前だということで、名水でお清めをしておきます(※残念ですが、桐原水は、そのままの状態では飲用不可です)。
手と口をゆすいで清めた後、本殿に向かいます。写真などで目にする、特徴的なあの本殿です。
今回の旅の大きな目的地であった、この宇治上神社本殿。正直なことを言いますと、そんなに期待していたわけではありませんでした。
なぜなら、写真で見て、のっぺりとした、ずいぶん地味な本殿だと思っていたからです。
その本殿。拝殿よりも高い、十段ほどの石段の上に建てられていました。
参拝のため石段を登ると、
「あれ? 壁じゃない!?」
そうなんです。写真で壁のように見えていた、しめ縄の飾られた本殿の正面。この部分は、実は木で作った格子だったのです。
そして、近づいてよくよく見れば、その格子の奥に、本殿の本来の装飾が見えました。
装飾は、「派手か?」と聞かれれば「違う」としか答えられません。しかし、現存する日本最古の神社建築の妙は、格子の奥に確かに存在していました。
今日2件目の『現場に行ってみなければわからない発見』です。
なお、この国宝の本殿。造営は平安時代後期、1,050年ごろのようです。
ちなみに『現存する最古の神社建築』ということですが、法隆寺を始め、寺院はもっと古いものが幾つもあるのに、なんで神社は宇治上神社が最古の建築物か、おわかりになりますか?
※見当も付かないという方。ヒントは伊勢神宮です。
伊勢神宮の恒例行事のひとつに、20年に一度の式年遷宮があります。神様の住まいであるお社を、建て替えるんです。
壊れる前に隣に新しい建物を建てますので、モデルを見ながら作ることができ、技術の継承も容易であるという利点があります。
こう書くと、良いことが多いように見えるのですが、当然ながら問題が幾つかあります。
例えば、古い建物はそのままで先に新しい建物を作りますので、敷地が倍以上必要になること。
そして何よりも、べらぼうにコストがかかることです。
実際、伊勢神宮は現在でも式年遷宮をおこなっていますが、同様に神郡(※神社領としての郡)を持っていた、香取神宮や鹿島神宮の式年遷宮は、行われなくなって久しいです。
これは、中世の混乱期に、武士に神郡を横領されるなどして、経済基盤を失ってしまったためです。
このように、中世になると、多くの神社が、式年遷宮を辞めて、永続的な本殿の造営に舵を切っていくことになりました。
社格が高く、有名な神社でも、建物自体はさほど古くないのは、そんな理由があります。
それから、寺社も中古から中世には、普通に武力(神人)を保持していましたから、戦に巻き込まれることも多かったはずです。
例えば、洛中で最古の寺院建築はどこだかご存知ですか?
答えは1227年に創建された大報恩寺(千本釈迦堂)です。
それより古い建物は、みんな戦乱で焼けてしまったんです。
宇治という要衝の地にありながら、戦災で焼けなかった。これも、宇治上神社の価値でしょう。
さて、参拝が済みましたので、お待ちかねの御朱印の時間です。
先に授与所に人がいることは横目で確認しております。また、ネットで書き置きだけではないこともリサーチ済みです。
期待に胸を膨らませて、授与所に行くと……。
『現在神主が不在にしております。御朱印は書き置き対応となります』
意気消沈して足を引きずるように、神社を後にしたのでした。
 




