ベルガンダの夜
血に濡らされたように赤く輝いた月。
禍々しささえ感じてしまう暗闇に包まれた空の下には――――
この世の終わりを告げる地獄のような光景が広がっていた。
これは悪い夢だ。
誰もがその光景を見たらそう思ってしまうだろう。
凄まじい唸りを立てて燃え盛る劫火。
生い茂った木々や綺麗に咲いていたであろう花々は、今や灰と化して空中を彷徨っていた。
原型をとどめないほどに街が全壊していく中、恐怖による何かが裂けるような叫びが絶え間なく鼓膜を震わせる。
わからない。
目の前に存在する確かなものを何一つ理解することができなかった。
瞼を閉じて開けてみても、
その双眸が見せる映像に一切の変化はない。
むしろ事態は刻一刻と酷くなっていくばかりだ。
悪い夢なんかではない。
これは紛れもなく現実だ。否定することのできない現実。
理解なんてできない。できるわけがない。
なんの前触れもなく起こった事態を、一体誰が理解できただろうか。
そしてそんな現実をまだ幼く小さな少年が受け止めるには、可哀想なんて言葉で言い表せるわけがないくらい酷く大きすぎる話であった。
逃げ遅れてしまった少年は無造作に積みあがった瓦礫の陰に隠れることが精いっぱいだった。
身を小さくして蹲り、終わるかもわからない事態の収拾を待つ。
少年の瞳孔は激しく揺れ、今にも正気を失いそうな精神状態だった。
すぐそばでは崩れた建物の下敷きとなり惨い死を遂げてしまった者の姿が見える。
死体の履いた靴にどこか覚えがありよく見知ったものを感じた。
親しくしていた友達のものだ。
その先を考えることを躊躇った。
考えたくなかったのだ。
しかしそんな自分の意志とは反して思考は動き続け、無慈悲にも答えを出してしまう。
点と点が繋がってしまった瞬間、猛烈な吐き気が少年を襲った。
そんな状況が不安定すぎる精神状態に更なる追い打ちをかけるのだった。
しばらくして少年のもとへ、焦りの色を顔一面に出した女性が緊迫した様子でやっと見つけたと言わんばかりに駆け寄った。
「……しっかりしなさい!!」
朦朧としている少年の意識を呼び戻そうと抱き寄せたまま背中を叩く。
「おかあ、さん?」
かすれた音のような声。
薄っすらとだけ開かれた少年の視界に映ったのは見慣れた女性の姿――――
ではなく、ぼんやりとした人影だった。
「おかあさん」と精一杯声を発したのも、聞こえた声が間違えるはずもない自分の母親のものであたからだ。
強張った少年の体から少しだけ力が抜ける。
「ごめんなさい。お母さんのせいで、こんなことに……」
震えた声音が届いたと思えば今度は大粒の涙が少年の頬に落ちた。
泣いてる?
頬に落ちた雫は母親と思われる人物から落ちてきたものだとなんとなくわかった。
だがなぜ母親は泣いているのだろうか。
「どういう、こと……?」
どうにか保った意識の中で問う。
「これは全部お母さんのせいなの。お父さんもアイもいなくなっちゃって……ごめんなさい、本当にごめんなさい」
わからない。
「でもあなたが生きていてくれたことが救いよ……」
女性が優しく少年を抱きしめたその時だった。
耳をつんざくような咆哮が大地を轟かせ空気を激しく震わせた。
衝撃波とともに襲い掛かった荒風が女性の長い黒髪を乱す。
人の声ではない生き物の叫び声。
女性が向けた視線の先に――――
まさにこの生き地獄のような状況を生み出した『諸悪の根源』がそこにはいた。
闇に紛れる色をした全身の鱗。
一度動かせば暴風が巻き起こる大きな翼と長く伸びた尾。
その手足を地に置けば地響きが起こる。
開かれた大口から吐かれた青いブレスは未だ人々を恐怖へと陥れるには十分すぎた。
そして、見るだに恐ろしい赤く光った『そいつ』の瞳は、女性を捉えた。
まるで威嚇するかように放たれた轟咆。
それが自分に対してのものであると感じ取った女性は、
「――――相変わらず忌々しい存在ね。あんたの狙いは私でしょう」
威嚇に答えるように冷たく返した。
と同時に左手を『そいつ』に向け、意識を少しばかり集中させる。
すると青白い光の粒子のようなものがどこからともなく現れそれは集まり、弾丸のような形へとその姿を変えた。
形を変えた弾丸のようなものは、まるでこの状況を楽しみ女性を嘲笑うかのように向けられていた『そいつ』の眼球目掛けて飛び出し、直撃した。
悲鳴じみた咆哮が大気に響き渡る。
いつ来るかわからないタイムリミットに急かされながらも女性は改めて少年へと視線を移し、嫌な汗を振り払った。
「いい、聞いて? お母さんからの最後のお願い」
ぼーっとした虚ろな少年。
消えかかった意識ではもう反応できない。
「あなたはお母さんたちの最後の希望――――お願い、生きて」
そう言い伝えると女性は少年の額に触れた。
光の粒子が今度はふわっと浮き上がった少年の体を徐々に覆っていき、最後には跡形もなくその姿を消してしまった。
もうこれで心配事は何一つない。
そう思ったかのような様子で女性は振り返った。
人が変わったかのように眉に怒りを滲ませ拳を力強く握りしめた。
「私が全部終らせる。あんたもその裏に隠れた奴も全部、ね!!」
どこからともなく顕現させた長剣を右手に握る。
空高く飛ぶ『そいつ』目掛けて、女性は行く手を阻むものすべてを切り裂き駆け抜けた。