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大きな洗い桶を抱えたシャノンが三階まで上がってくると、向かいの建物の窓が開いた。身を乗り出したのはグウェンドリンで、彼女は良く通る声を張り上げる。
「シャナ!」
うん? と首を傾げ、洗い桶を適当に置いた。全面飾り格子で覆われた硝子張りの、上手く隠された掃き出し窓を開け、小さなベランダに出ると手摺に手をかける。長屋の裏手にある小広場には、今日は珍しく子供たちもいない。
「どうした?」
「あのね、例の郵便配達夫さん! 今日からお仕事復帰だって!」
先程、薬を取りに来た細君が、嬉しそうに話してくれたらしい。最後に往診へ出掛けたときも、膿む様子もなく奇麗に瘡蓋になりかけていたそうで、動かしても苦痛でなければ復帰するといいと伝えていたのだそうだ。
「バルド師の御蔭で、思ったより早く回復したんだ。御礼を言付けてもいいかな?」
「直接言いなよ。抱えてた仕事が終わったらしいから、そろそろラスの酒場に顔出すだろ」
「本当? 紹介してもらっても?」
「バルドも、グウェンと会いたがってた。缶詰になってなきゃ、会っていろいろ語りたかったってさ」
何でこんなときに! と自動人形が携えてきた手紙を見て嘆いたらしい。そうして、仕事詰まってるから点検も予定の日にもう一度来てくれ、とグウェンドリンに宛て綴った分厚い封書を彼女に持たせ、そのまま帰したという。
何故その顛末を知っているかといえば、深夜に戻ってきた自動人形が、つらつらと筆談で語ってくれたのだ。彼女自身は声を発することは出来ないが、とても有能なのである。
「バルド師って、どんな方? アマリアの製作者でもあるんだよね?」
「シュティルフォルクだよ」
あっさり告げるとグウェンドリンは目を丸くして、「……なるほど」と納得した風情で頷いた。
「シャナは、本当に凄いね」
「いやぁ、グウェンの方が凄いと思うけどね?」
典型的なヒト族であるというのに、全く偏見を持たない姿勢は、驚嘆に値する。シャフツベリでは当たり前に様々な種族が混在して暮らしているけれど、これはとても珍しいことなのである。きっと彼女へ魔女の術を伝えた師が、余程出来た人物だったのだろう。
何かを言いかけたグウェンドリンは、ふと背後を振り向いた。そうして、済まなそうに手を振る。
「ごめん、お客様だ。またね」
手を振り返す間にぱたんと窓が閉じて、代わりに裏口の扉が開く。姿を見せたのは、老いてもぴしりと背筋を伸ばした美しい白髪の大家婦人で、彼女はシャノンを見上げると大きく手招いた。
なんだろう、と小首を傾げて踵を返すと、温室風談話室を突っ切って螺旋階段を駆け下りる。そのまま台所を抜けて、裏手の小広場へ出た。
「どうしたの? エッカート女史」
「グウェンのお客様、例の患者さんを放り出した医院の、お偉いさんなの」
ひそひそと囁きかけた老婦人は、心配だからいて頂戴、と屋内を指す。事情を察し、眉をひそめて三階の窓を見上げると、曖昧に頷いた。
「それは構わないけど、大丈夫じゃないかなぁ?」
「もう、シャナったら! あれでもグウェンは女の子なのよ?!」
「でも、あれで結構、強かだよ?」
流石、魔界と揶揄される学会で、鎬を削ってきただけのことはある。か弱い女性扱いをすると、却って失礼なんじゃないかと思うシャノンだ。おまけに平素は学者らしく冷静沈着、物言いが少々冷たく感じる素っ気なさなので、誤解され易いのが玉に瑕だ。慣れてくると、可愛らしい面も見えてくるのだけど。そんなところも、勿体無いと思った所以である。
閑話休題。
そんなこと言ってもう! と憤る大家婦人は、シャノンの腕を引いて建物の中へ連れ込んでしまう。そうして、ほら、と廊下の壁際の細い階段へ押し出した。
「あら、御主人様。本当にシャノンさんを呼んじゃったんですね」
廊下には蜂蜜色の髪をした幼い使用人がおり、ちらりと階上を見遣る。
「なぁんか、ねちっこい喋り方のお人でしたよぉ? ふんぞり返りながら、がに股で歩いてましたけど、よくひっくり返らないでいられますよねぇ」
「まぁ、ボニー。そういうことは、思っていても口にしてはなりませんよ。特に、殿方に対しては」
「いやだ、御主人様。流石にあたしだって弁えてますよう。シャノンさんみたく美意識の高い人なら、共感されるんじゃないかと思って」
どこまでも人を喰ったような主従のやり取りに苦笑して、シャノンは階上を見上げた。
「ていうか、そもそも何処で様子を見ろと?」
階段は一人が上るには不自由しない程度の細さで、各階同じ方向に伸びている。三階まで上がってしまえば、廊下より少し広いだけのホールに面して、浴室と居間への扉があった。そこらにいれば鉢合わせするし、浴室では様子が全くわからない。
シャノンの思考を察したのか、大家婦人は事も無げに告げた。
「グウェンの入居が決まった時に、ちょっと改装したのよ。蒸留しても大丈夫かっていうから」
まぁ古風なことをするのね、と鷹揚に笑って、大家婦人は便利が良いようにと、浴室と隣室の間に扉をつけたそうなのだ。現在、その小部屋は調合室となっているらしい。そして、現調合室は元々三階の応接間兼居間と続き部屋である。
「……そこに潜めと?」
一店子に対して、なんと過保護なことか。思わず半眼を向けた時、「かろん」と何処かで鐘が鳴った。
「あ、お呼びですね」
くるりと使用人が踵を返し、軽やかに階段を上っていく。間もなく、どすどすと品のない足音が響いて、確かによくもひっくり返らないものだと、ある意味感心してしまう有り様の紳士が、使用人の先導で姿を見せた。彼は待ち構える大家婦人の、凛と背筋を伸ばした堂々たる姿にたじろいで、虚勢を張るように更に胸を反らした。
「お騒がせしましたな、エッカート夫人」
「あら、嫌ですわ。わたくし、夫人と呼ばれる覚えはございません」
にこやかに、おっとりと告げられて、刹那言葉に詰まる。態とらしい咳払いを一つした紳士は、さっさと帰れとばかりに大きく玄関扉を開けて待ち構えている使用人を一瞥し、鼻先で笑った。
「それはそうと、下宿人は良く選ぶことですな。あんな品性の欠片もない……」
「お客様」
きっぱりと使用人が遮って、にっこりとあどけない笑みを浮かべた。
「当家では、下品な輩は問答無用に追い出してもいいと、主人から申しつかっております」
それ以上言ったら蹴り出すからな、と言外に威圧する使用人へ、剣呑な視線が向けられたのを見て取り、シャノンは聞こえよがしにため息を落とした。
「ここで狼藉を働いたら、品性を落としますよ」
かつん、と床を蹴りつけるように歩き出した紳士は、玄関を潜りざま、小馬鹿にした風情で吐き捨てる。
「薄汚い魔女風情を住まわせて、そちらこそ評判を落としませんようにな!」
途端に、その場の空気が冷えた。御主人様、と抑揚のない声が許可を求め、大家婦人が頷くのを待たず、紳士は逃げ出すように雑踏へ紛れ込む。
その姿がすっかり見えなくなるのを見送って、使用人はぷうっと頬を脹らませながら扉を閉めた。
「シャノンさん! あたし、あんなのに遅れはとりませんよう!」
「いやいや、アッカー嬢。君が強いのは良く知ってるけどね? 一応あれ、医者だから。しかも、そこそこ地位のある小悪党だから」
問題を起こしたら、それこそ大家婦人とグウェンドリンの評判に関わる。無用な騒動は極力避けた方が賢いといえるだろう。元より、魔女に対する彼らの風当たりは強いのだ。
シャノンの言葉に大いに頷いた大家婦人は、厳かに口を開く。
「そうよ、ボニー。あんな小物を蹴り倒したら、あなたの華麗な爪先が穢れてしまうわ」
「ちょっと待って、エッカート女史」
それはどうかと思う、と苦言を口にするが、彼女は上品に微笑んで階上を見上げた。
「そんなことより、シャナ。薄汚いですって。わたくしの聞き間違いかしら? あの美しい子を掴まえて、可笑しなことを仰る殿方ねぇ」
冷え冷えとしたその声を聞いた途端、背筋が冷える。
こんな所で、ひっそりと下宿屋を営んでいる彼女だが、実はこれで由緒ある家の令嬢らしい。女主人としての立ち居は完璧であり、彼女が育てた使用人は、高貴な家々で争奪戦になると評判なのだ。そんな人だけに、怒ると普段は形を潜めている何かが、殆ど暴力のように撒き散らされる。はっきり言うまでもなく、とてつもなく怖い。
お金に糸目は付けないわ、とシャノンを振り向いて、大家婦人は上を指差す。
「わたくしが許可します。存分に、おやりなさい」
その一言に、シャノンの表情が変わった。低い声が、ぽつりと確認する。
「……存分に?」
「えぇ。一着だけ、わたくし好みの散歩着を仕立ててくれるなら。後はお好きになさい」
ボニー、と使用人を振り返ると、彼女は心得たとばかりに目を輝かせて可愛らしく会釈した。そうして、期待に充ち満ちた表情でシャノンを見つめる。
大きな仕事は、もう済んでいる。暫くはのんびり出来そうだと思っていたが、ここにきての大仕事だ。勿論、断るだなんて選択肢なぞ存在しない。否、たとえ仕事が詰まっていても確実に受ける。
今朝整理したばかりの倉庫の中、在庫の布たちが頭の中に広げられた。エッカート女史の好みというと、少々クラシカルだが上品なバッスルスタイルだ。グウェンドリンは細身で背丈もあるし、なかなか美しい着姿になるだろう。二人で出かけるとなると、大家婦人はお気に入りの散歩着に袖を通すことが予想される。あの上品で美しい散歩着と並んだとき、どの布なら二人を美しく映えさせるだろう? そういえば、型紙を引いているとき着せてみたいと思っていたあれも作りたい。それからそれから。
刹那のうちに頭の中を大量に何かが行き過ぎて、シャノンは無言のまま、ウエストコートのポケットに突っ込んでいた巻き尺を引っ張りだした。
「……アッカー嬢、グウェンのワードローブがどうなってるか知りたい」
「了解しましたぁ!」
軽やかに踵を返した使用人が、嬉々として階段を駆け上がる。今日ばかりは大家婦人もそれを咎めることなく、何処か楽し気に台所へと姿を消した。それを見送って、苦笑を浮かべたシャノンは踵を返す。
あれは相当、頭にきたんだなぁ。
シャノン自身も苛ついたけれど、その御蔭で常々どうにかしたいと思っていた友人の、何処か野暮ったいあれらを何とか出来るのだから、深く考えないことにする。
大体、素材はいいのだ、素材は。夜闇を映したような黒髪は艶やかで、癖一つない。灰緑の目は、よく見ると虹彩に銀が散っているのだ。それが星のようで美しい。もったりと衣服に隠されているが、細身のわりに身体付きも良さそうだ。これら他人が望んでもどうにもならない、生まれながらの美徳を蔑ろにし続けている、あの精神が理解できない。
細い階段を上る先で、狼狽えたグウェンドリンと使用人の攻防が既に始まっているさまが聞こえる。三階に到着して居間を覗くと、続く書斎の奥、寝室へ行こうとする使用人を必死に引き止めている最中だった。
「だから、わたしはこれでいいって……」
「グウェン」
「シャナ! ねぇ、助けて!」
そのダサイ格好をどうにかしろって酷くない?! と訴える彼女だが、そこはシャノンとしても全面的に同意なので、頷いてあげるわけにはいかないのだ。少々、どころか存分に、使用人の本音がだだ漏れしたようだけど。
「残念だったなぁ。今回は俺、アッカー嬢側なんだよね」
大人しく採寸させろ、と巻き尺を突き付けるシャノンを前に、さぁっと青褪める。
「え、無理。駄目、無理」
「アッカー嬢ー」
「あ、先にこっちにします?」
しがみつくグウェンドリンを振り解こうとしていた手が、あっさり彼女を捕まえた。悲鳴をあげて逃げようともがくさまを他所に、開け放たれていた居間の扉を閉じる。そうして、がっちり押さえ込まれた彼女の前までやってくると、にこやかに見下ろした。
「俺たちに剥かれるのと、自分で脱ぐの、どっちがいい?」
「あの……ほんとうに……? だって、わたし」
「どっちがいい?」
「お、おかね……ない、し……その」
「エッカート女史が持つって。どっちがいい?」
「そ、そんな、だって、シャナのふくでしょう? そんなのぜったいにあわな……」
よしわかった、と平坦な声が遮って、据わった目が使用人へ向けられる。
「剥くぞアッカー嬢」
了解しました! といい返事をした使用人に、グウェンドリンが悲鳴をあげた。
「待って、脱ぐから! 自分で脱ぐ!」
慌てて叫ぶと、がっくりと項垂れて蚊の鳴くような声で訴える。
「そ、それからあの……できれば採寸はボニーにお願いしたいです……」
素人に任せるのはちょっと、と渋い顔をしてみせると、彼女は更に懇願した。
「じゃぁ、シャナの工房行くから! アマリアにお願いしてくださいお願い!」
「……コルセットしてねぇなってことくらい、気付いてるけど?」
察して告げれば「びくり」と肩が揺れて、今度はぶわわっと派手に赤面する。
「な、なんで?!」
「だってグウェン、椅子の上に膝抱えて丸まる癖あるだろ。コルセット嵌めててあんなの出来るか。あと、胸の位置低いしもったりし」
「わかった! お願い言わないで!」
「てるさまが、まるで田舎のおばさんみたいだなぁって、聞いてる? グウェン若いんだからさ、もうちょっと」
「若くないよ! シャナの方が若いくせに!」
喚くグウェンドリンに、使用人がけらけら笑う。
「シャノンさん、若いって。良かったですね?」
「良くねぇよ、諦めたけど」
ため息混じりに応じると、グウェンドリンはきょとんと目を瞬かせた。
「え? 年下じゃないの? だって、二十歳そこそこにしか見えない……」
「取り敢えずな、ここに流れ着く前は某国でドレスメーカーしてたんだけど」
うん聞いた、と頷く彼女の前でため息を落とし、シャノンはふと明後日の方向を見る。
「その前は別の国でパタンナーしてて」
え、と目を丸くするグウェンドリンの後ろで、使用人が愉快そうに笑う。
「その前は、隣国でお針子さんしてたんですよ。あたしのうちのとなりで。因みに、十年前です。その頃から、全然見た目変わらないですよねぇ」
「君は、足癖悪く育ったよな?」
半眼を向けるシャノンに誤魔化し笑いをする使用人を唖然と見上げて、グウェンドリンは小首を傾げた。
「……シャナ、幾つなの?」
「さぁな。忘れた」
「忘れたって」
訝しく眉をひそめられるが、シャノンは飄々とした風情で応える。
「実年齢言っても信じてもらえないし? だったらもういいや、て」
諦めて、もうどのくらい経ったのだろう。若くていいと羨むのは女性ばかり、男の場合は漏れなく若造扱いと酷い侮りがついてくる。だから、裏方に徹する職を選んだのだけど。
そうか……、と何故か項垂れて、グウェンドリンはさめざめと両手で顔を覆う。
「それで、グウェンは幾つ?」
「二十五です……」
「充分若い。君が普段着てる衣服、その年頃の娘が着るようなものじゃないって、わかってるよな?」
例えるなら流行に疎いど田舎の、地味過ぎるオールドミスを経て漸く嫁に行ったのに、女主人として着飾る前に、すぐさま未亡人にでもなってしまったような。何とも言い難い、野暮ったさと陰気さとくすんだ色合いをしているのだ。取り敢えず、仕立て屋を天職だったと自認するシャノンとしては、許してはならない類いの代物である。
だって、と柳眉を下げたグウェンドリンは、ぼそぼそと聞き取り難い声で主張を始める。
「髪真っ黒だし目も灰色だし背も高いし、女の子の服なんて似合わないんだもの。あといろいろ窮屈だし邪魔」
「本音が出たな」
「窮屈だし邪魔」
そこが最重要か、とため息を落として、渋い顔でこめかみを擦る。
「だけど依頼人の要望で、その窮屈な散歩着作るのは決定してるからな?」
「そんなの無理! おまけにシャナの服でしょう? あの、奇麗で、華やかで、凄く可愛いの! 絶対、似合うわけない!」
「職人として、その評価は有難く戴くけど、後半はいただけないな。お客様の持てる魅力を最大限引き出して、飾り立てるのが俺の仕事だ。そこは見くびらないでくれる?」
「そもそも、どうしてこんなことになったの? 今までは放っておいてくれたのに」
今更だが、尤もな疑問を口にした彼女に、シャノンと使用人は視線を交わらせた。そうして、彼は軽く肩を竦めてみせる。
「君が、今帰った客に侮辱されたのが、相当気に喰わなかったらしいね」
「そんなの、いつものことなのに」
「俺も気に喰わなかったけどね?」
自慢の友達が貶されて、と視線を合わせると、彼女はほわりと頬に朱を差して視線を彷徨わせた。
「ええと、あの。……ありがとう」
「だからさ、無駄にいい素材を疎かにしてるグウェンにも、いい加減に腹が立ってきたんだよね」
怪しくなってきた雲行きに、グウェンドリンの顔が強張る。対して、シャノンはにこりと奇麗に微笑んだ。
「幸い、エッカート女史に任せていただけたし? 徹底的にやるから」
徹底的、と平坦な声が反芻するのに頷いて、丸ごと全部、と付け加える。
シャノンとしては、それこそ夜着や靴下、下着類も含めて全部そっくり改めるつもりでいる。普段のもったりとした姿を見るまでもなく、下着の寸法すら、きちんと合っているかも怪しいのだ。
それにどうせなら、隅々まで洗練させたいではないか。仕立て屋としては、着飾ることは力になると信じているのだ。孤立無援で奮闘する彼女に、友人として世間と戦う為に有効な鎧を用意してやりたい。
「……友達だったら見逃してよ」
「嫌だ。大丈夫だよ、俺も本職だから。グウェンが着るからこそ美しく引き立つような、そういうワードローブにしてあげる」
「ですので、あのダッサイ諸々、処分しますからね」
容赦なく使用人が付け加えて、グウェンドリンはがっくりと頽れたのだった。