2
壁の向こうを慌ただしく過ぎていく足音を他人事のように聞き流して、オズワルドは床に腰を下ろし書架に背を預けた。
世界から、魔素が消えたのだという。
ヒトビトが漸く事態に気付き、泡を喰ってあちこちとやり取りを始めたのだと、昨夜フィデルから聞かされた。その殆どは人間の国間で行われているそうで、竜族がそれらを把握しているのは、その機動力故のようだ。
彼が留め置かれているのは、祖国から海を隔てた対岸の大陸の端。切り立った岬にあった砦なのだろうと、ぼんやり考えていた。小さな島国でしかなかった祖国と国交のあった所は限られており、竜族が各地へ置いている砦の一つも、その数少ない交流のあった先だったから。
世界は混乱の最中にあって、竜族の若殿も対応に追われている。何故か、先程から昼寝台に横になっているけれど。
「……オズ」
疲れ切った声が呟いて、訝しくこちらへ顔を向ける。
「オズワルド」
「……おまえに呼び捨てられる筋合いはない」
「おまえを拾ったのは誰だと思ってる」
「だから感謝して媚び諂えとでも言うつもりか」
冷めた声を投げ付けられて、フィデルは何かを言いかけて、諦めた風情で吐息した。そうして、ひらひらと軽く手を振る。
「喧嘩したいわけじゃないんだ、大人しく聞いてくれ。もう少し落ち着いたら、出ていっても構わない。拾った者の務めだ、旅装と路銀くらいは餞別にやろう」
ふと視線を向けると、フィデルは寝転んだまま、片腕で目許を覆っている。
どうもこの若様には、何かを考慮する時、誰かへ話して聞かせる癖があるようだ。単純に情報の整理の為だろうし、序でに何か有益な意見が聞ければ有難いということらしい。
だからといって、あれだけ喧々諤々とやりあったオズワルドを、その相手に選ぶ理由がよく解らないが。
……拾われた恩もあることだし、たまには付き合ってやるべきだろうか。
「どうやら、エルフは森の奥深くへ引き籠もるつもりらしい。カルリークも遺跡の地下帝国へ移動を開始した」
「……それじゃぁ、そろそろだな」
何が、と訝しく促されて、オズワルドは書籍へ視線を戻す。
フィデルはどう思っているか知らないが、この書庫は宝の山だ。遊ばせていないで活用すればいいのに、と呆れ半分で考える。尤も、竜族は見た目通りの年齢ではないというから、既に読み尽くしてしまっているのかもしれないが。
「抑圧されていた奴らが動き出す。落ち着いたら? とんでもない、これからが本番だ。差し当たって、エルフたちに蛮族扱いされていた種族に注意を払うんだな。要は、逃げ出すんだろ、あいつらは」
がばりと起き上がったフィデルが、昼寝台から身を乗り出した。
「トロールか」
「ゴブリン辺りもくるだろう。リザードマンや鬼……、人間の一部。魔術研究で遅れを取っていた軍事国家が幾つかある」
大打撃を被っているのは、魔術という強大な力に頼りきりだった国々だ。それも、大々的に宣伝して歩くという愚行まで犯している。この好機を、今まで辛酸を舐め続けてきた輩が大人しく見逃すはずがない。
「カルリークが撤退するのも、そこを見越してだろう。これからの時代、物を言うのは技術力だ。おそらく、真っ先に搾取対象になる」
「カルリークだぞ? あの、屈強な。逃げ出すより戦う方が」
現実的じゃない、と遮って、淡々と吐き捨てる。
「人間が世界中にどれだけいると思ってるんだ。おまけに世界で唯一、魔素に一切左右されない種族でもある。おまえたちに比べれば短命だが、繁殖力は頗る高い。おまけに戦慣れしてる。数で押されて、勝ち越せるとでも?」
騎馬や攻城器だってあるんだぞ、と冷めた声を淡々と投げ付けていると、フィデルが立ち上がった。そのまま大股でこちらにやってきて、傍らに膝を着く。
「……詳しいのか」
生真面目な声音に、ちらりと視線をあげた。
そういえば、これまでに素性を尋ねられたことはなかったと思い出す。こんな得体の知れない人間に対して、彼は一体何を期待しているのだろう。
「最新情報は知らない」
「必要なら、幾らでも探らせる」
ぱたん、と書籍を閉じた。面倒臭そうに髪を掻き回して、一つため息をつく。
これまで彼を見ていて、どう動くべきか頭を悩ませているらしいことが窺えた。祖国である山岳地へ引っ込むべきだと主張している者もいるのだと、彼の従者から聞いた気がする。竜族のことだけを考えるのなら、そうすべきだとも。
しかし彼は、瀕死だったはずのオズワルドを見捨てず、砦へ連れ帰るようなお人好しだ。手厚く保護こそすれ、あの一瞬にして荒廃せしめた国で何があったのか、聞こうとするそぶりも見られない。とはいえ彼自身も、何が起こったのか把握していないため、聞かれても困るのだが。
そんなフィデルだから、考えているのはこの近隣に住まう、生き残った魔素生物たちのこと。竜族が去れば、彼らは間違いなく路頭に迷う。
「密偵は?」
「いる」
「その報告書、見られる? 全部」
持ってこさせよう、と即座に返して立ち上がろうとしたフィデルの手首を、オズワルドは咄嗟に掴んだ。
「待てよ、若様。何言いなりになってるんだ。普通、疑うだろう」
「仕える国を亡くした者が、独りで何が出来る」
尤もなことを平然と投げ付けられて、思わず口を噤む。その様子に、ふと口元を緩ませたフィデルは、そのままオズワルドの手首を掴み返して引き上げた。
「気にすることはない。手酷くやられたとして、それは私の責任だ」
「上に立つ者の言うことじゃない。おまえの後ろには民がいるんだぞ」
「そうだな、そう言われ続けて私はここまで生きてきた。そうしておまえは、誰かに仕えることを叩き込まれたくちだろう」
にんまりと見透かしたように笑い、ふと眼差しに真摯さを垣間見せる。
「私に仕えろとは言わないが、暫く手を貸してくれないか。ほら、適材適所と言うだろう」
「信用できるのか、得体の知れない人間を」
「信用? いいや、純粋に利害だ。おまえが何をするにしろ、このままでは身動きが取れないだろう。おまえの見立て通りに荒れると言うのなら、尚更」
落ち着いたら餞別と一緒に送り出してやるさ、と笑うフィデルをじっと見遣って、オズワルドはうんざりとため息を落とした。
確かに、このまま出ていっても、何処かで落ち着けるとは思えない。戦火は世界規模に広がるだろうし、何処かで誰かが介入せねば、おそらくこのまま滅びの道を辿るだろう。介入者として適切なのは、名実共に世界最強の竜族か。
なにより、この若様は暗愚ではない。
わかった、と唸るように零して、オズワルドは掴まれたままの手を振り解いた。そうして一歩退いて、祖国風に敬礼する。
「リファール国将官アドルファス・クロウリーが末子、オズワルド・シャノン・クロウリーと申します。私自身に仕官経験はありませんが、それでも宜しければ」
「クロウリー? あの右軍将軍殿の御子息だったのか」
驚いたように目を瞬かせて、フィデルは軽く眉根を寄せてオズワルドの顔を覗き込む。
「……私も一度お会いしたことがあるが、似てないな?」
「そうですね。私は母方に似たようなので」
半眼で応じるオズワルドに笑って、フィデルは右手を差し出した。
「仕えろと言っているわけじゃない、畏まる必要はないさ。宜しく、オズ」
結局そう呼ぶのか、と内心嘆息しつつ、握手を交わす。今まで、オズワルドを愛称で呼ぶ者はいなかったから、なんとなく座りが悪い。
「書斎へ移ろう。意見を聞かせてくれ。ところで、仕官経験がないと言うが、成人してるのか?」
「してるよ、今年で二十二。どうせ予備にもなれないし、国立の研究所にいたから」
研究所、と反芻されて、ふと喋り過ぎたと口を噤む。しかし、すぐに自嘲気味にほんのり口元を歪めた。もうない国の機密を、律儀に守ってどうするというのだ。
「俺がいたのは魔術開発。国策だからね、所員は兵役も免除されてた。他にも細々あったはずだけど、基本的に機密だから内部の人間でも他部署については詳しくない」
ふと、フィデルの表情が変わった。言葉を選んでいるのか、僅かに逡巡して口を開く。
「……魔術士、なのか」
「一応ね。使えなくても理論は組み立てられるけど、臨床出来た方が有利だから」
「……人体実験も行われた?」
は? と訝しく眉をひそめ、オズワルドは肩を竦めてみせた。
「それはあるだろう。魔女の術の研究開発部もあったから、臨床試験を人体実験と言ってしまえば」
そうじゃなくて、と遮ったフィデルは、苦い表情でため息を落とす。
「おまえを拾って以来、疑っていたことがある。後で検証させてくれ。それから、銀髪の女に覚えはあるか?」
「銀髪? ……ラナかな」
彼女の場合、女の子と言った方が相応しい気もするが。彼女が何だというのだろう。もしや彼女も拾われて、何処かにいるのだろうか。
「知り合いなのか」
「挨拶する程度だけど。そういえば、あの子は何処の所属だったんだろうな? あの歳であすこにいたんだから、かなり優秀な……」
「我々がおまえを見つけたのは、唯一の生存者と思われる銀髪の女を見つけたからだ」
ふと、オズワルドが口を噤んだ。目線で先を促すと、フィデルは淡々と報告書を読み上げるように状況を語っていく。
実際、彼自身は銀髪の女を見ていないらしい。異変に気付いて飛んだ斥候が、慌てて駆け去る後ろ姿を確認しただけなのだという。すぐに後を追ったが見失い、その行方はわからないそうだ。
島国といっても、けして小さくなかったその国は、見事に跡形もなかった。
後にフィデルが出向いた時には、まるで何かが爆発したようだと思ったらしい。これが孤島でなければ、もっと広範囲に被害が広がっていただろうとも。
美しく整えられていた首都は無惨な瓦礫の山と化し、あちこちで火災が起こっていたという。これが、日が沈んだ後のことならば、きっと辺り一面火の海だったろうと、斥候は語ったようだ。
火の気のない所を選んで進めば、辺りには瓦礫に押し潰された死体が、累々と転がっていたという。路上に転がる死体は、まるで熱線にやられたように爛れていたそうだ。
そうして銀髪の女が目撃されたのは、爆心地から程近い場所。
「魔素が消えたと話したな。おまえは勘違いをしているかもしれないが、我々がそれを把握したのは、人間たちよりも早い。魔素の消失と原因不明の圧が観測されて、リファールへ人を寄越した」
それはどういう、と訝しく口を挟んだオズワルドを一瞥して、フィデルは淡々とした口調を崩さず言葉を紡いでいく。
「あの国が、何かをやっていることは掴んでいた。あの島にはエルフの集落もあったはずだろう? そこにいたはずの輩も、奇麗さっぱり消えている。巻き込まれて云々じゃないな。おそらく、自ら消えたんだろう」
「それじゃぁ、あれは何らかの実験の事故?」
だとしても、それが魔素の消失と、どう結びつくというのか。それに、なんだか嫌な感触がする。
「斥候からの報告で、もう一人の生存者が確認された。しかし、彼らは運べぬという。だから、私が出向いた」
訝しく視線を向けると、フィデルは表情の窺えぬ眼差しを、真直ぐこちらに向けていた。
「魔素が濃過ぎて近付けないと。私も流石に酔ったな、あれは」
おびただしい出血の跡が見られるが、それが生存者のものならば一刻を争うだろうとの報告通り、瓦礫に押し潰されるようにして一人倒れていたのだ。
「それがおまえだ。確かに、壮絶な有り様だったな。しかし、瓦礫を退けてみても傷一つなかった」
「まさか! 俺は」
言い差したのを、フィデルに片手で制されて口を噤む。
「その場での判断が難しかったから、連れ帰った。おまえは被験者ではないんだな?」
「違う。そもそも、俺は研究所の資料室で被災した。このまま死ぬだろうと思ったんだ、あの時は!」
それが、次に目覚めた時には、この砦にいた。だから悪運が強かったのかと、単純に考えていたのだ。負っていたはずの傷が跡形もなかったのは、治癒術の所為だと思っていた。しかし、被災した時には既に魔素は消失していたのだという。おまけに、発見時には無傷だったというのは、どういうことだ。そもそも。
「……魔素が濃過ぎてって、なんのことだ?」
その時には、既に消えていたモノではないのか。矛盾を突くと、果たして彼は軽く肩を竦めてみせた。
「そのままだよ。発見された時、おまえは血塗れだった。だから思ったんだ、これは人工的に造り出された魔素生物なのではないか、と」
凡そ、魔素生物には二通りある。まずは純粋に存在そのもの、或いは糧の全てを魔素に頼るモノ。これらは妖精に分類される殆どであり、今回死滅が確認されているモノたちだ。
もう一つは、体内に魔素を内包するモノ。彼らは細胞単位、体液に多くの魔素を抱えている。それにより長大な寿命を始めとした、数々の恩恵を受けているのだ。
だから、体内に魔素を持たない人間たちが不老長寿に関心を示すのは道理と言える。現に太古より、数々の実験を繰り返してきた歴史があるのだ。
「リファールがその研究をしてたと? それについては、充分有り得ることだし否定はしない。しかし、残念だが俺は違う。ただの一研究員に過ぎない」
「当人に自覚がないのと、その出自を考えると、その言い分も信じてもいいだろう。だとしたら、もっと厄介なことになるな」
残されたのは、あの見失った銀髪の女が被験者だった可能性。その結果に、魔素消失が招かれたのだとしたら。
「この場合、どう考えていいのかわからないが。一個体の中に、世界を構成する魔素の全てが飲み込まれたとも考えたくない」
「前置きはいい、はっきり言え」
苛々と先を促すと、果たしてフィデルは天を仰いで嘆息した。
「おまえが、逸れ者である可能性がある。……いや、あれを人工発生の真祖とするのなら、氏族の長、あるいは血族の血親に相当するだろうな。おまえは作り替えに耐えて、生き残ったんだ」
途端に、オズワルドは踵を返した。書架の間を抜けて続き部屋の書斎へ戻ると、手にしていた書籍を書斎机に置く。慌てて追ってきたフィデルが扉を潜った時には、抽斗から探し当てたナイフを手に、袖を捲りあげた腕の内側へ刃を滑らせていた。
「オズ!」
ナイフを取り上げられるのを他所に、その目はちらりと時計を確認する。ざっくりと深く切り付け、ばたばたと鮮血が零れるままにしていた腕は、間もなく修復を開始した。始まってしまえば、それは瞬く間に傷跡を消していく。
「……気が済んだか?」
「再生力が高いほど、魔素が濃い?」
真顔で尋ねると、フィデルは軽く眉を持ち上げる。
「そうとも言える。純粋に力の差も出るな」
腕に残る血糊を人差し指で拭い取り、確かめるように指先を擦りあわせたオズワルドは、そのまま腕を前へ伸ばした。その指先に、思いの外大きな炎が上がる。
「うわ、と。なるほど。こういう……」
「ちょっと待て、オズ。何をしてるんだ、おまえは」
「いや、検証を」
しれっと答えると、フィデルはなんとも形容し難い表情を浮かべて、額に手を当てた。
「……人間というのは、そういうものだったか? こう、もっといろいろと」
「一通り打ち拉がれたから、もうそれはいい」
目覚めてすぐは、呆然とするしかなかった。現状把握に努めて、何があったのか断片でも情報を仕入れて、兎に角咀嚼して。
生き残ってしまったのだな、と受け入れるしかなかったのだ。
「嘆けば何かが変わるのか? 時間の無駄だ、それより教えてくれ。俺たち人間は、大気中の魔素を編んで魔術を操っていた。もしかして、おまえたちは違うのか?」
体内に魔素を抱えているということは、単一で魔術が使えるということだ。そうなると、勢力図が少し違ってくる。
果たして、フィデルはかぶりを振った。
「いいや。おまえの言うように運用することは可能だが、誰もやらないだろう」
「どうして」
「体内魔素の涸渇は、老いと死に直結しているからさ」
それは確かに、進んで使いたくはないだろう。なるほど、と頷いて、オズワルドは思案げに口元へ手を当てる。
とはいえ、魔術が使えることはわかった。しかし、そのためにいちいち自傷するのも効率が悪い。体内魔素の運用法を探る必要がありそうだ。教えてくれと言ったところで、流石にお人好しな若様も頷いてはくれないだろう。……一応、頼んでみるとして。
オズワルドが目紛しく思考を組み立てている間に、フィデルは渋い顔でため息をついた。
「オズ、一つ言っておく。安易に血を流すな」
「……どうして」
「先程も言っただろう。おまえの血は魔素が濃すぎる。我ら魔素生物でも忌避するんだ、人間にとっては毒にしかならない」
死ぬぞ、と冷淡に告げられて、唇を引き結ぶ。そうして、胡乱にフィデルを見遣る。
「正直に言えよ。魔素生物に狙われる公算が高い、だろう?」
「それも有り得る。だが、現実に飼える者はどれだけいるか。うちの若いのが近付けなかったと言っただろう。夢見がちな輩も出てくるだろうが、過ぎた宝だな」
「おまえなら可能?」
「御免被る。過剰摂取は身を滅ぼすからな。何事も程々で丁度いい」
ここまで運んでくるだけで相当きつかったからな、と憂鬱そうにぼやく。その様子に、ふと口元が弛んだ。
「へぇ? それは悪かった。だけど、どうやって運んだんだ? 飛竜は使えないだろう」
「竜化したに決まっているだろう」
「それって、体内魔素で補えるの? 質量変わるじゃん」
ふとフィデルが視線を逸らした。その様子に、無理なんだろうな、と何となく了解する。序でに、辺りに濃厚な魔素が零れていたのだから、普通に活用するだろう。その経験から、御免だと言っているのだ。
なるほどね、と呟いて。このお人好しならまぁ大丈夫か、と朧に思ったのだ。




