八
血を見ると昂る、とは聞いたことがあるが、まさか自分がそうなるとは思っていなかった。
恐怖よりも高揚、しかしそれは狂気じみたものではない。
命の危機に直面して、身体の全身全霊が、守るための効力を発揮している。
遮二無二、冬野は主税に体当たりをして、地上に転がした。
主税の手から零れた刀を蹴り飛ばす。
それで油断したのがいけなかった。
馬乗りになって身柄を拘束しようとした冬野を、主税は殴りかかった。
「……っぐ!」
眩暈がするような衝撃が襲う。
だがどうしても、怯むわけにはいかなかった。
殴られて冷静になった冬野の頭は、守るべき人を思い出す。
今ここで主税を止めなければ、痛みを堪えなければ、立ち向かわなければ、千夜を救うことはできない。
千夜に、手を差し伸べたのだから……
「冬野が喧嘩が強いとは、知らなかったな。
これじゃあおちおち軽口もできない」
と言いつつ、やはり揶揄い調子な新之介は、甲斐甲斐しく冬野の腕に手拭いを巻き付けていた。
「無我夢中だっただけだ。人間、死にたくないと思えば、火事場の馬鹿力というやつだ。
それに、この様で強いとは威張れないな」
殴り合いに発展したかに思えた冬野と主税の激戦は、間もなく登場した音十郎によって、主税はあっけなく捕まった。
音十郎は逃れた千夜と出会して、すぐに冬野の元に駆けつけることができたのである。
身を挺して守ってくれた冬野を放って、自分だけ逃げることはできないという千夜は、音十郎の小者に宥めすかされて、番屋に送りこまれていた。
事実を言えば、冬野が主税に負わせた怪我は大したことはなく、冬野の方は腕を斬られたうえに、左頬の殴られた痕が痛々しい有様だった。
今は寺の石段で、駆けつけてきた新之介に手当てを受けていた。
「それより……」
冬野の頭を占めていることを、新之介がわからないはずがなかった。
「お千夜さんは番屋にいる。行こう」
番屋に着くと、真っ先に千夜の無事な姿が確認できた。
ぱっと見た限りでは、千夜が怪我をしている様子はなかった。
けれど以前会ったときよりも痩せぎすになっていて、疲労が滲む顔色は病人のようである。
しかし可哀そうだとか、心配だとかよりも、どんな姿でも千夜が無事なことがうれしくて、愛しい。
「冬野様……!」
冬野が抱き着くよりも、千夜の方が早かった。
お互いが背中に回す手は自然の動作だった。
「もう、大丈夫だから……」
やっと、千夜の悪夢が終わった。
千夜は冬野の安心させる声に、冬野の胸の中で泣いている。
千夜はこの温もりは知っている。
離れていても、冬野は何度もこうして温めてくれていた。
「ごめん、なさい……私の所為で、冬野様が怪我を……」
「お千夜さんは何も悪くない。貴女が無事なら、私はどうなってもいい……」
「冬野様に酷いことを言ってしまったのに……
本当は、こうして縋りたかった……でも……」
辱められた姿を見られたことが嫌だった。
一番見せたくなかったのは、冬野だったのだから。
「あのときは何も言えなくて、お千夜さんを傷つけてしまった。
謝るのは私の方だ。不甲斐なくて、すまない」
千夜の気持ちに寄り添うこともせず、一方的に嫌われたのだと、冬野は思い込んでいた。
千夜を助けたいという気持ちばかりで、己の力など微々たるものだったとも。
音十郎が来てくれなければ、果たして主税を止めることができたのだろうか。
そもそも千夜を助けることができたのか。
旗本が、武士という身分が、何だ。
情けなくて、かっこ悪い。
それでも抑えられない気持ちが、千夜を抱きしめて離さない。
大丈夫だと、再び呟いた冬野に、千夜はその気持ちを言葉にできなくなっていた。
ただ泣くことでしか、表現できない。
どれほどまでに冬野が、心の支えになっているのかを。
番屋にいた新之介や番太たちは、いつの間にか奥の部屋に姿を消していた。