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雪月梅花  作者: 夏野
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昨夜から北町奉行所は慌ただしかった。


贋金(にせがね)作りという大罪は、こともあろうに幕府の直臣である旗本が主導していたのである。

この事実が世間に露呈しては江戸幕府という根幹が揺らぎかねないので、慎重かつ速やかに、事件の後始末をしなければならない。


武家が大罪を起こした場合、内々に処理をされるのが常法だった。

悪くて隠蔽という結果があるが、そうならないために奔走していたのが音十郎である。


最終的な裁きを下すのは音十郎ではないが、山ノ井家の当主は切腹、山ノ井は武家の身分を剥奪されるという結論が、上層部では固まっているそうだ。

そうなれば、主税は妾を囲う余裕がなくなるどころか、山ノ井家の者は路頭に迷うことが決まったようなもので、音十郎はやっと一息ついたのだった。


「旦那……!大変です」


安堵(あんど)の溜息をついた側から小者の声が聞こえて、同心の感が、千夜の身に何かが起こったと予想した。


「山ノ井家の嫡男が、家を抜け出したようで……」


山ノ井家の当主は身柄を拘束されて、北町奉行所に預けられている。

主税やその他の家族は、外出を禁じて家に閉じ込めていた。


「ちっ……」


間に合うだろうか……音十郎は忌々し気に舌打ちした後で、上野を目指した。






町役人が千夜の家に訪れたのは、今朝方である。

わけはあとで荒木音十郎という町廻り同心が教えてくれるから、一時長屋に身を寄せろと言われ、千夜は着の身着のまま町役人に従ったのは、千夜が音十郎を知っていたからである。


最近になって、何度か顔を見せるようになった同心で、何かと気にかけてくれていた。


長屋に着いて約半(とき)もしない(うち)に、息を切らした主税が千夜の前に現れた。


もしかしたら音十郎が主税から(かくま)ってくれようとして長屋に移動させるも、主税に見つかってしまい、連れ戻されようとしている、というのが千夜の推量だった。


補足すれば、自分を匿おうとしてくれているのは、音十郎だけではなく、冬野も動いてくれたのではないかと、期待してしまった。

音十郎が家に顔を見せるようになったのは、冬野と出会ってからである。


冬野が知らない中に、手を差し伸べようとしてくれていたとすれば、胸が痛んだ。

拒絶してしまった男に対しての罪悪感である。


様子がおかしいと気づいたのは、主税に手を引かれる先が、千夜の家ではなく寺が混在している場所へ導かれていたからだ。

主税も(あせ)っているように見えた。


主税が立ち止まったのは、無住職なのか、人の気配がないひっそりとした寺の境内だった。


「父上が捕まった」


「え……」


千夜には事態が呑み込めなかった。


何故自身が同心の手引きで長屋に移されたのか、それが主税の父が捕まったことと結びつける余力が、精神的に追い込まれていた千夜にはなかったからである。


「もう、終わったんだ。俺と一緒に死んでくれ」


ただならぬ主税の気迫に、千夜は後退(あとずさ)る。


主税が千夜の首元をめがけて手を伸ばす。

主税は、首を絞められて苦しむ千夜の顔を見るのが好きだった。

痛がる顔も、恐怖で泣く姿も、好物だった。


だけど、この手は快楽を求めるものではないと、千夜は本能的に察した。


「いやっ……!」


絶望に満ちていたはずの千夜の瞳に、光が宿った。

主税の手を思いっきり()ね退けて抵抗する。


今まで弱々しい抵抗しかしなかった千夜が、本気の抵抗を示したことに、主税は狼狽(うろた)えた。


充分に服従できていると思っていた。

千夜が枯れた花を飾っているのも、心を(くじ)けさせた証明だと思っていた。


「私は、死にたくない……!」


ーー生きていなければ、冬野に会えない。


冬野と出会う前なら、何もかもを放り出して、死を選んでいたはずだ。

千夜の生きたいという活力の根源には、あの忘れられない温もりがあった。






千夜は主税に何処(どこ)かへと連れて行かれた。

山ノ井家に、ということはまずないであろう。


妾として囲っていた女を、今さら家に招くことはしないはずだ。

しかも、こんなときにである。


主税はわざわざ家を抜け出して、千夜を連れ去った。

問題は、その理由だった。


裁きがどう下ろうとしているのかは、冬野にはまったく読めないところであるが、もしも山ノ井家にとって、ひいては主税にとって、よくない結果だったとすれば……


(やけを起こしたのか……?)


嫌な予想は、予想のままであってほしいと願いながらも、千夜が連れ去られたという事実がある。


予想通りだとして、主税は人目につかない場所にいるはずであった。


冬野には上野の土地勘がないので空き家にでもいれば、見つけることはできない。

心当たりがあるとすれば、無住職か廃寺といったところだった。

何処にそれらがあるとまでは知らないまでも、上野は寺の密集地である。

だからといって広大な寺社領なのだが、迷っている暇はなかった。


参詣客の多い寺はまずないだろうと、無人の寺を探して駆けまわる。

耳を()ませて、千夜の手がかりを探っていると、物陰からいきなり人が飛び出してきて、冬野にぶつかった。


冬野がその人物を、見逃すわけがなかった。


「お千夜さん!」


「助けて……!」


今度は千夜の声が、本当の願いが聞こえた。


余韻(よいん)に浸る間もなく、今度は抜刀した人物が千夜の後から迫ってきた。

冬野は咄嗟(とっさ)に千夜を背後に(かば)って、身構える。


「どけ!その女を殺して、俺も死ぬんだ!」


主税の言動も、千夜を見据える目も、常軌を逸していた。


「これ以上お千夜さんを巻き込むな!今まで散々(もてあそ)んだ挙句に殺すなど、畜生のすることだ」


「そいつは俺の女だ。全部、俺が決める」


あまりにも身勝手が過ぎると、そして話し合いができる相手ではないと(さと)って、冬野は刀を抜いた。


「お千夜さん、逃げてください」


千夜は声には出さずに首を振った。

背後に隠れている千夜を冬野は見えずとも、意思は通じていた。


主税の振り上げた一刀が、冬野を襲う。

刃を横にして防ぐも、真剣での斬り合いなどしたことのない冬野は、ただでさえ剣が苦手で(ひる)んでしまう。


再び斬りつけてきた主税の刃は切っ先だけが(かわ)しきれずに、右腕の手首から肘までを赤い線が駆け抜けた。

斬られた本人よりも、千夜の方が動揺していた。


「早く……!」


冬野が刀を構え直したときに、地面に血飛沫(しぶき)が落ちた。

千夜は声に押されるようにして、駆けだした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 腕っぷしが弱くても意中の女性のために刀を握る冬野がかっこいいですね。また、旗本の身分でありながらそれをひけらかさないところも好感が持てます。
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