ちとせ余話
何度か訪れたことのあるここには、母の本当の両親が眠っているという。
千歳がときどき混乱するのは、自分にはたくさんのおじいたまとおばあたまがいるからだ。
高村家と伊東家、それに坂本村にも祖父母が存在した。
どうしてそんなに祖父母がいるのかと母に聞けば、「母上はとても恵まれているからよ」と答えたのだった。
墓参りを済ませれば、待たせてある駕籠にそそくさと向かう。
母は誰かに見つかってしまうのを恐れていたのだが、千歳はそんな母の事情をまだ知らなかった。
境内を出たところで、親子は知っている顔を見つけ、母の方は愛想よくお辞儀をした。
ここ数年でさらにめきめきと頭角を現し、冴え渡った捕り物をしているという定町廻り同心の荒木音十郎が小者を従えて親子の前まで歩み寄った。
「墓参りか?」
「本当は来てはいけないのですけど」
「可愛い孫と幸せそうなあんたの姿を見れば、よろこぶだろうよ」
大身旗本の奥方に気安く話しかける定町廻り同心という図は、通常ありえないものだった。
しかし誼を通じていて、無礼と言われてもおかしくはない音十郎の態度にも、奥方は何とも思っていなかった。
むしろよそよそしくなってしまう方が嫌だったのである。
千歳はじっと、音十郎が携えている十手を見つめていた。
「ほら、少しだけだからな」
音十郎に十手を手渡された千歳は、輝く瞳でそれを受け取った。
「御用だ!御用だ!」
「へえ、参りやした」
十手をぶんぶん振り回して音十郎の小者に迫り、小者もしおらしくする流れは、いつもの光景である。
「千歳」
充分にご満悦になったところで、母に声をかけられた千歳は、音十郎に十手を返した。
「これから千歳と春日屋に行くんです」
「お君おねえちゃんと遊ぶの」
「あいつらもお武家様をお得意にもって、商売繁盛してらぁ」
相変わらずの皮肉たっぷりの男は、今日も町廻りに勤しむのであった。
千歳がもっとも楽しみな日といえば、坂本村に行く日である。
駕籠に揺られて母の膝の上で眠ってしまえば、いつの間にか坂本村まで着いていた。
まず目指すのは、お玉稲荷神社である。
正確には神田にあるお玉稲荷神社の分社で、小さい祠があるのだった。
この分社は、千歳の母が十両で坂本村にいる父母のために建立したものである。
母の父母、太一とかやは神田で一膳飯屋を商っていたのだが、母が高村家に輿入れすることが決まったときに、高村家の支援を受けて坂本村に隠棲している。
それで信仰していたお玉稲荷神社に通えなくなってしまうので、坂本村に分社を作ってあげたいと母が願ったのであった。
ちなみに太一たちは店を明け渡す際、知り合いの夫婦に店を譲っていて、今は弥勒屋という名の一膳飯屋があるのだった。
「おじいたま、おうどん作りましょ」
千歳が楽しみにしているのが、祖父とのうどん作りである。
まだ幼子で力がないので、ほとんどは祖父が作ってしまうのだが、千歳は生地を足踏みする作業が何よりも好きなのである。
弟が大きくなったらうどんを一緒に食べて、もっと大きくなったら一緒にうどんを作るのだと千歳はその日を待ちわびているのであった。
*
思いがけず伊東家の養女になり冬野と結ばれた千夜だったが、千歳が産まれるまでの二年間には辛苦もあった。
高村家の跡取りを産まなければという重圧があって、そのことで義父母に詰られるということは一度もなかったとはいえ、もし子どもが出来なかったらと、思い悩む気持ちが膨れ上がったときに千歳を授かることができたのである。
武家は跡取りたる男子の出生を望まれるので、女の子を産んだことで責められたらと、そんな考えも過ったのだが、誰からも責められるどころかよくやったと褒められたときには、高村家に嫁ぐことができたのを心底感謝したものだった。
こと義母の蓮からは、娘が欲しかったのでうれしいとよろこばれたのである。
「正直、千歳が産まれなければ離縁されるのではないかと案じておりました」
「私が千夜を離縁するはずはない」
「富美叔母さまが仰いましたの。子どもができないくらいで離縁状をたたきつける男なら、私の方から別れてしまいなさいと、励ましてくれていたんです」
「あのお方らしい」
千夜は富美の元で、武家の作法を叩き込まれていたのだが、発端は、左馬之介と主計が富美に頭を下げたことから始まる。
「お前が頼む娘からして、いかにものほほんとした娘じゃありませんか。
ひなだっていつまでも赤さん言葉みたいで……」
「だから姉上に頼んでいるのだ。主計もこうして頭まで下げたのだぞ」
断固として反対していた主計は、いかに冬野が本気であるかを目の当たりにして、悩みに悩んでみたものの、やはり反対姿勢は変わらなかった。
そこで左馬之介が千夜を自分の養女にしてもよいと考えている、だがすぐにというわけではなく、二人に試練を与えてはどうかと提案した。
どんなに苦労してでも一緒になりたいと思っているのならば、千夜には武家の作法を教え込んで高村家の嫁に相応しくなるために、厳しい富美に預けることにしたのだ。
富美に武家の嫁には相応しくないと判断されれば、もちろんこの話はなかったことになる。
千夜が臆して途中で逃げ出したときも同じである。
「どうなっても知りませんよ」
富美の性格上、このとき見込みがなければ断っていたはずだった。
冬野の出仕が決まったとき、その年が明けてから左馬之介が満月屋に千夜を迎えに行って、千夜の修業が始まったのである。
千夜は、はじめ冬野の両親と顔を合わせている。
主計と蓮は千夜の身の上をすべて知ったうえで承知し、富美に預けたのであった。
そして冬野も、愛する人を守るに足らないと主計に判断されれば、即座に千夜の努力が水泡に帰すことになる。
およそ二年の歳月を経て、二人は許しを受けた。
冬野にだけ何も知らされなかったのは、事情を知らないうえで、本当の想いを確かめるためであった。
伊東家に招かれたとき、冬野は気持ちが揺らいでいなかったのを証明して、邂逅が叶ったのだ。
今では千歳の他に男児も儲けて、この上ない幸せの只中にいた。
千夜が嫁いで間もなくまだ心細いときも、子どもが授からずに不安に駆られていたときも、冬野は冬野なりに励ましてきたつもりだった。
いくら冬野が励ましていたからといって、すべての不安を消してあげることはできなかったのだが、それでも「旦那さまの変わらない優しさに今も救われています」と千夜に言われたときには、胸が熱くなったのを覚えている。
冬野はそのときのことを思い出していた。
「ご機嫌がよろしゅうございますね」
「明日は梅見だからな」
千夜は部屋の明かりをふっと消した。
刹那に後ろから抱きしめられて、冬野の胸に寄り添い、二人きりのときだけの呼び名を口にした。
「今年も、ずっとその先も、冬野さまと梅見がしたい」
「約束する。毎年すてきな琴の音を奏でておくれ」
儚く零れる春の魁も、くり返し、琴の音に乗せて香るのだ。