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雪月梅花  作者: 夏野
59/61

五十九

宴は和やかに終わった。

だが余韻(よいん)はぷっつりと切れて、あとには切なさが押し寄せる。


出仕が決まったということは、もう気軽に満月屋の暖簾(のれん)(くぐ)る暇がなくなるということである。

誰も彼もが冬野と新之介のことを心の底から祝ったが、その切なさの理由を知る者は言葉にしないものの、特に惹かれ合ってしまった二人の行く末を案じていた。


「覚悟が決まってるって顔だな」


音十郎からすれば頼りなくて仕方ない冬野は、まだ迷いを抱えているのではないかと思っていたが、今日会ってみれば、彼は迷いのない引き締まった顔をしていた。


「もうお千夜さんに曖昧な態度は取りません。きっぱりと……」


「きっぱりと、どうするつもりだ?

……まあいい。俺が口出しすることじゃねぇな。お前も胸を張って頑張れよ」


冬野の答えを音十郎は聞かなかった。

たとえ冬野が最終的にどんな決断を下していようと、それは本人の意思で決めることである。


個人的な感情で二人のことを秘かに応援していたとしても、これ以上に音十郎は何もできないのだ。


「音十郎さんにはお世話になりました」


不浄役人に頭を下げる姿に、やはり大身旗本らしくはないと、音十郎は改めて感じた。



「本当にそれでいいの?」


宴が終わって、こそと千夜を招いたつゆは、千夜から覚悟を聞かされて、思わず聞き返してしまった。


「今度こそ決心しました。あの人のために我儘(わがまま)は言いません」


千夜は散々に迷い迷っていた。

どうにもならないことだと自分を戒め、けれど抑えられない衝動を、冬野の将来が定まったのを契機に振り払ったのだ。


苦しみも、喜びも、同じ身分違いの(こい)をしていたつゆには理解できる。

だからこそずっと二人のことを応援していた。


(あきら)めろとも、諦めるなとも言えないまま……


「何もできなくてごめんね……」


「おつゆさんのお蔭で、冬野さまとたくさん想い出を作れましたから」


胸を打つほどに、千夜の顔もまた迷いを捨てていた。






各々は帰路に就き、満月屋にはいつの間にか冬野と千夜の姿だけが残っている。

きっと、これが最後になるかもしれないと言えるほど、ここに至るに残酷にはなれなかった。


「お千夜さん」

「冬野さま」


重なった声に気まずくなって、少しの静寂(せいじゃく)の後、先に冬野が口を開いた。


「私には父に、貴女を諦めるのかと問われました」


千夜が(わず)かに顔を強張らせたのを、冬野は見逃さなかった。

内では懸命に(こら)えようとしている姿が、なお健気で心が締め付けられる。


決して結ばれない相手であり、そして大切な人を不幸に(おとしい)れてでも望むのかと、父の最終通告だったのかもしれない。

己の決断がどれほど千夜を苦しめることになるのか、月下の誓いが(はかな)くも壊れてしまいそうで、今にも胸は押しつぶされそうだった。


「たとえ結ばれなくても、お千夜さんに対する想いを諦めることはできない」


これが冬野の答えだった。


捨てられないものがある。だけど、想いまでは断ち切れない。


「父上が許してくれるまでは、この気持ちを捨てたくはない。

だから、さよならとは言いません。お千夜さんには幸せになってほしい。

もしも私以外に好いた人ができたら……」


迷わずにその人を選んでほしいと言いかけて、冬野は最後まで言えなかった。

本心ではない。

千夜が他の誰かを好きになるなんて、身が裂かれるほどに辛いのだ。

だが、許してくれるまで想いを捨てないと言いながら、決して結ばれない人よりは、誰かとの未来の方が千夜にとって幸せなのではないか。


千夜の心までは縛り付けることはしたくなかった。

目の前から消えてしまう男を待ち続けてほしいとは言わない。

でも自分は千夜だけを想う。千夜だけしか想えない。


「そこまで私のことを考えてくださって、女冥利(みょうり)に尽きます。

どうか信じてください。私の想いも、冬野さまと同じくらいです」


冬野が離れて行った後の気持ちに断言はできない。

それは冬野もである。

高村家の跡取りである冬野が、また意に添わぬ縁談を持ち掛けられてしまうかもしれない。


そんな二人が出した答えは、大切な人たちのために別れる。

いつか消えゆく想いだろうと、今は想い続けるという泡沫(うたかた)の覚悟だった。


「次に会うときは、貴女を妻に迎え入れるときです」


そう言うと、いつも愛らしいと感じている笑窪(えくぼ)を見せて、千夜はきれい微笑んだ。


来世か、果てしない別れとなるのか、約束のできない未来へ向かって……


戸口を開けて、容赦のない冷気の中へと冬野は進み出た。

振り返れば決心が揺らいでしまうから、一度も振り向くまいと、脳裏には先ほどの千夜の笑顔を刻みつける。


千夜もまた、冬野を追いかけまいと必死に地面に足を縫いつけていた。

雪の降る日に出会い、月下で確かめた愛は、彼が差し出してくれた梅花のように気高く、心にあり続けると疑わずに……






年が明け、江戸の町には何日か降り続けた雪は、その後に続いた晴天にあっという間に溶けてしまった。

それでも冬の寒さは続いていて、満月屋には背中を丸めて暖簾(のれん)(くぐ)る客が多い。


温かい真心のこもった飯と看板娘の笑顔が体に染み渡ると、誰もが口をそろえたものだった。


「美味かったよ。ごちそうさん」


「ありがとうございました」


また一人、二人と客が出て行って、すぐにまた新しい客が姿を現す。


「お千夜さん」


送るも迎えるも暖簾口を見る千夜は、今にも冬野が来てくれるのではと、幻影の声と姿を見てしまうのだった。


「お千夜ちゃん、おかわりをくれ」


「はい、ただいま」


何度虚しくなろうとも、冬野と結ばれるその日まで、胸を張って生きていくだけだ。






(早いな……もう(こぼ)れてしまったか)


梅花の香りがするたびに、千夜と出会って一年が経ったのだと思い出す。

すでに零れた梅花を見ても、残り香を探してしまう。


冬野にとってはあまりにも短い月日だった。

急速に縮めた想いとともに、過ぎ去った時間は一瞬だったように感じる。


「どうかされましたか?」


「いや、今年も梅見をしそこなったと思ってな」


花の中、琴の演奏をしている千夜の姿がすぐ目の前にいるようで。


「冬野さま」


今にもその声が聞こえてきそうな日である。

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