五十九
宴は和やかに終わった。
だが余韻はぷっつりと切れて、あとには切なさが押し寄せる。
出仕が決まったということは、もう気軽に満月屋の暖簾を潜る暇がなくなるということである。
誰も彼もが冬野と新之介のことを心の底から祝ったが、その切なさの理由を知る者は言葉にしないものの、特に惹かれ合ってしまった二人の行く末を案じていた。
「覚悟が決まってるって顔だな」
音十郎からすれば頼りなくて仕方ない冬野は、まだ迷いを抱えているのではないかと思っていたが、今日会ってみれば、彼は迷いのない引き締まった顔をしていた。
「もうお千夜さんに曖昧な態度は取りません。きっぱりと……」
「きっぱりと、どうするつもりだ?
……まあいい。俺が口出しすることじゃねぇな。お前も胸を張って頑張れよ」
冬野の答えを音十郎は聞かなかった。
たとえ冬野が最終的にどんな決断を下していようと、それは本人の意思で決めることである。
個人的な感情で二人のことを秘かに応援していたとしても、これ以上に音十郎は何もできないのだ。
「音十郎さんにはお世話になりました」
不浄役人に頭を下げる姿に、やはり大身旗本らしくはないと、音十郎は改めて感じた。
「本当にそれでいいの?」
宴が終わって、こそと千夜を招いたつゆは、千夜から覚悟を聞かされて、思わず聞き返してしまった。
「今度こそ決心しました。あの人のために我儘は言いません」
千夜は散々に迷い迷っていた。
どうにもならないことだと自分を戒め、けれど抑えられない衝動を、冬野の将来が定まったのを契機に振り払ったのだ。
苦しみも、喜びも、同じ身分違いの戀をしていたつゆには理解できる。
だからこそずっと二人のことを応援していた。
諦めろとも、諦めるなとも言えないまま……
「何もできなくてごめんね……」
「おつゆさんのお蔭で、冬野さまとたくさん想い出を作れましたから」
胸を打つほどに、千夜の顔もまた迷いを捨てていた。
各々は帰路に就き、満月屋にはいつの間にか冬野と千夜の姿だけが残っている。
きっと、これが最後になるかもしれないと言えるほど、ここに至るに残酷にはなれなかった。
「お千夜さん」
「冬野さま」
重なった声に気まずくなって、少しの静寂の後、先に冬野が口を開いた。
「私には父に、貴女を諦めるのかと問われました」
千夜が僅かに顔を強張らせたのを、冬野は見逃さなかった。
内では懸命に堪えようとしている姿が、なお健気で心が締め付けられる。
決して結ばれない相手であり、そして大切な人を不幸に陥れてでも望むのかと、父の最終通告だったのかもしれない。
己の決断がどれほど千夜を苦しめることになるのか、月下の誓いが儚くも壊れてしまいそうで、今にも胸は押しつぶされそうだった。
「たとえ結ばれなくても、お千夜さんに対する想いを諦めることはできない」
これが冬野の答えだった。
捨てられないものがある。だけど、想いまでは断ち切れない。
「父上が許してくれるまでは、この気持ちを捨てたくはない。
だから、さよならとは言いません。お千夜さんには幸せになってほしい。
もしも私以外に好いた人ができたら……」
迷わずにその人を選んでほしいと言いかけて、冬野は最後まで言えなかった。
本心ではない。
千夜が他の誰かを好きになるなんて、身が裂かれるほどに辛いのだ。
だが、許してくれるまで想いを捨てないと言いながら、決して結ばれない人よりは、誰かとの未来の方が千夜にとって幸せなのではないか。
千夜の心までは縛り付けることはしたくなかった。
目の前から消えてしまう男を待ち続けてほしいとは言わない。
でも自分は千夜だけを想う。千夜だけしか想えない。
「そこまで私のことを考えてくださって、女冥利に尽きます。
どうか信じてください。私の想いも、冬野さまと同じくらいです」
冬野が離れて行った後の気持ちに断言はできない。
それは冬野もである。
高村家の跡取りである冬野が、また意に添わぬ縁談を持ち掛けられてしまうかもしれない。
そんな二人が出した答えは、大切な人たちのために別れる。
いつか消えゆく想いだろうと、今は想い続けるという泡沫の覚悟だった。
「次に会うときは、貴女を妻に迎え入れるときです」
そう言うと、いつも愛らしいと感じている笑窪を見せて、千夜はきれい微笑んだ。
来世か、果てしない別れとなるのか、約束のできない未来へ向かって……
戸口を開けて、容赦のない冷気の中へと冬野は進み出た。
振り返れば決心が揺らいでしまうから、一度も振り向くまいと、脳裏には先ほどの千夜の笑顔を刻みつける。
千夜もまた、冬野を追いかけまいと必死に地面に足を縫いつけていた。
雪の降る日に出会い、月下で確かめた愛は、彼が差し出してくれた梅花のように気高く、心にあり続けると疑わずに……
年が明け、江戸の町には何日か降り続けた雪は、その後に続いた晴天にあっという間に溶けてしまった。
それでも冬の寒さは続いていて、満月屋には背中を丸めて暖簾を潜る客が多い。
温かい真心のこもった飯と看板娘の笑顔が体に染み渡ると、誰もが口をそろえたものだった。
「美味かったよ。ごちそうさん」
「ありがとうございました」
また一人、二人と客が出て行って、すぐにまた新しい客が姿を現す。
「お千夜さん」
送るも迎えるも暖簾口を見る千夜は、今にも冬野が来てくれるのではと、幻影の声と姿を見てしまうのだった。
「お千夜ちゃん、おかわりをくれ」
「はい、ただいま」
何度虚しくなろうとも、冬野と結ばれるその日まで、胸を張って生きていくだけだ。
(早いな……もう零れてしまったか)
梅花の香りがするたびに、千夜と出会って一年が経ったのだと思い出す。
すでに零れた梅花を見ても、残り香を探してしまう。
冬野にとってはあまりにも短い月日だった。
急速に縮めた想いとともに、過ぎ去った時間は一瞬だったように感じる。
「どうかされましたか?」
「いや、今年も梅見をしそこなったと思ってな」
花の中、琴の演奏をしている千夜の姿がすぐ目の前にいるようで。
「冬野さま」
今にもその声が聞こえてきそうな日である。