五十
満月屋の商いが始まる刻限、千夜は暖簾を持って表へと出た。
暖簾を掲げてすぐに、後ろから声が聞こえた。
「本当にここにいたんだ」
その声に振り向けば、先日同じ場所で会った昔の琴の稽古仲間がいる。
他にも過去に見知った仲間たちが、ぞろぞろと三人ほど集まって、千夜のことを眺めていた。
まるで貴族が都落ちでもしたかのように、哀れみ、蔑んでいるような目である。
人数では圧倒されるものの、千夜はにっこりと彼女たちに愛らしい笑みを向けた。
「この店は稲荷寿司が名物で……」
予想外の言葉に、訝しがるような視線を受けて、千夜は続けた。
「子どもにも大人気なんです。
たくさんの人が美味しかったと言ってくださるのを聞けて、毎日楽しいですよ」
作り笑いには程遠い自然な笑みに、三人は拍子抜けた顔を見せて、何を言うでもなくその場を退いてゆく。
千夜はただ、ありのままの姿を見せただけである。
嫌味を言うためにわざわざ足を運んだのかと思えば、少しおかしかった。
野分を敬遠するようなさわやかな秋の陽射しが降り注いでいる。
暖簾口の向こうからはすでに、食欲をそそる良い匂いが漂っていた。
幼いころ、飼い猫が屋敷から抜け出して、菫は慌ててその後を追いかけた。
大事に買っている猫だから、絶対に捕まえなければと、夢中で走った。
名前を呼んでも、猫は振り向きもせずに行ってしまう。
気まぐれに立ち止まった猫をやっと捕まえたとき、いつの間にやら知らない場所まで足を運んでいた。
武家屋敷の群れから抜けた、閑静な大名の下屋敷がある場所だった。
菫は屋敷までの帰り道がわからないという恐怖に、一気に涙が溢れ出た。
屋敷の使用人も、菫が家を飛び出していることに気づいていない。
この絶望的な状況の中で、菫は優しい声をかけられた。
菫よりもぐんと背の高い少年の手には稽古帰りだろうか、竹刀を持っている。
逞しいという印象はなく、むしろ細身なのだが、菫にとっては細かいことを気にする余裕もなかった。
どうしたのだ、道に迷ったのか、そう語りかける少年の声は、熱く体に滲んでゆく。
菫は泣きじゃくりながら、自身の名前を言った。
「もしかして、御書院番の中原様の……
中原様は父上と同じ役に就いているから知っているぞ」
大人しくしている猫を抱きしめて、菫は少年に手を引かれるままに家路に就くことができた。
菫が見慣れた我が家にたどり着いたのを見届けて、少年は走って去っていった。
名前も知らない少年の後姿だけが、菫の目に焼き付いている。
まさか将来、自分の縁談相手として再会するとは夢にも思わなかった日の出来事である。
「どこへ行かれるのですか?」
道場帰り、その足で満月屋に向かおうとしていたところ、冬野は菫に呼び止められた。
素直に満月屋に行くとも言えず、言ったとしてもそれがどこなのかも知らないであろう菫に、どう答えたものかと逡巡すると、意外な言葉が飛び込んだ。
「……私、あの人に会ってきました」
あの人とは誰か、尋ねるまでもなく、菫は千夜のことを知っているのだと思い知らされた。
「もう冬野さまとは関わるなと言いましたのに、随分と図々しい方ですのね」
千夜たちがよそよそしかった理由が、やはりそうであったと確信に変わった。
だが、菫が直接会いに行ったことはまったくの予想外である。
そのすべての原因は己にあるのだと、認めざるを得なかった。
「あの人は悪くない。私が自分の意志で会いに行っている」
「私のために隠すこともしませんのね」
はじめから嘘を吐いて、菫を傷つける必要はなかった。
菫の行動は怒りを覚えなくもないが、自分もまた、菫を傷つけてしまったのだ。
「菫殿には、申し訳ないと思っている」
「……自分のなさっていることに、後悔しても知りませんわ」
彼女の憧憬が憎しみに変わった瞬間だった。