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雪月梅花  作者: 夏野
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四十六

忠吉との祝言が決まって数日後、琴の稽古が終わっての帰り道、千夜はいきなり知らない男に声をかけられた。


「お千夜っていうんだろ」


男は舐め回すように千夜を見ている。

身形(みなり)は明らかに武士で、千夜よりも少し年上くらいの若い男だった。


千夜はこの男を知らなかった。

なのに男はまるで千夜を知っているように接してきて、嫌な感じがする。

だが、武士に無礼を働くこともできずに、千夜はその場に立ち止まった。


「やっぱり、きれいな顔をしている」


男の手が千夜の顔を()ぜるようにすくい取る。

反射的に抵抗した千夜は、近づいてくる男に後退った。


「焦らなくても、お前は俺のものだ」


驚き振りむいてみれば、余裕そうに笑う男の顔がある。

そのまま帰っていった男だったが、翌日に男は夕顔屋を訪ねて来た。


「お千夜を妾にほしい」


突然来訪してきた武士に応対した松次郎夫婦は顔を見合わせて、さすがにはいとは言わなかった。


「大変恐れ入りますが、あの子は近々祝言を挙げる予定でして……」


「それがどうした。縁がなかったと断ればいいではないか」


「はあ、そう申されましても……」


これが同じ町人なら(すご)みもするところ、武士相手に、しかも男ーー山ノ井主税は大身旗本であるからして、無下に扱うことができない。


渋る松次郎夫婦の前に、主税は前金だと言って金包を置いた。

その額は、志摩屋から約束されている結納金と同じくらいであった。



「絶対に嫌!」


忠吉のことは(あきら)めて、主税の妾になってはどうかと松次郎夫婦に持ちかけられた千夜は、頑として受け入れない態度をとった。

主税の妾になれば、自分が玩具にされることが明白で、何より忠吉とは惚れ合って夫婦になろうとしているのに、他の男の、しかも妾になどなりたいはずがない。


「でも、相手はお武家様だし、断るのも……」


お金のために、叔父夫婦は妾になれと(そそのか)してくることは、夕顔屋を出ると決心した千夜を、より頑なにさせた。

そして千夜の(すが)れるべき人は、忠吉だけであった。


忠吉は千夜から事情を聞くと、すぐに祝言を挙げようと言ったのである。


叔父夫婦も罪悪感があるのか、千夜を無理強いすることはしなかったので、早く忠吉との祝言を済ませて、主税が諦めてくれることを願った。

このとき、自分の思い通りにならない男が取る行動を、予想もせずに……



「さきほど、志摩屋のお使いの方から、お嬢さま宛にお文が」


女中から手渡された文の差出人は、忠吉からのものであった。


厄介なことが生じたのですぐに祝言のことで話し合いたい、他の人に聞かれては面倒でもあるので、一人で来てほしいという内容である。


まさか主税が志摩屋にまで押しかけて、何かあったのではないかと千夜は不安になった。

だから千夜は忠吉のところに行くとだけ言って、供をつけずに、文に書いてあった場所まで行ったのだった。


古めかしい小さな神社には、誰もいなかった。

夕暮れ時ともあって、しかも隣は空き地で人家や店の少ない場所には、人の気配さえない。


辺りを見回すと、本殿の扉が少しだけ開いているのに気づいた。

千夜は扉の前まで来て、声をかけた。


「忠吉さん……」


すっと、扉の向こうから手が伸びてきて、千夜の腕を(つか)んだ。

忠吉にしては乱暴に、その手は中に引きずり込む。

つんのめるようにして、千夜は本殿の中に入った。


陽の光が扉を閉める音とともに閉ざされる。本殿の中は暗闇と化した。


もう一度、忠吉の名前を呼ぼうとした千夜の口は塞がれて、もがく千夜を押さえつける者の声が聞こえた。


「祝言を挙げる前に味見をしておけばよかったと、忠吉は後悔するだろうよ」


その声は忠吉のものではない。紛れもない主税の声に、千夜の頭はぞっとした。


「離して……いや……!やめて……お願い、やめて」


身軽になっていく身体で抵抗すればするほど、それは主税を悦ばせた。

容赦のない痛みが貫いたとき、千夜は悲鳴さえもあげられなかった。



夕方に出かけた千夜が夜になっても帰らずに、夕顔屋は騒然となった。

女中は千夜が忠吉に会いに行ったとだけしかわからず、番頭が志摩屋に行ってみると、忠吉に千夜を呼び出したりはしていないどころか、会ってもいないと言われ、ただ事ではないとなった。


しかし店の者が番屋に届けようとしたところで、千夜は帰ってきた。


「お父さまとお母さまは……」


髪型は乱れ、襦袢(じゅばん)一つで帰ってきた千夜は、亡き両親を呼んでいる。

すでに災厄は過ぎ去った後だった。



このまま狂ってしまうのではないかと皆が危惧(きぐ)していたが、翌日には千夜は正気を取り戻していた。

だが、至るところに及んだ傷までは回復していない。

事実は事実として、千夜の身体に刻み込まれていた。


「黙っていれば大丈夫です。私たちも誰にも口外しませんから……」


主税に犯されたことは決して忠吉に言ってはいけない。

言わなければ問題はないと、女中頭は必死に千夜を慰めた。


千夜はうんともすんとも言えない有様だったが、心では忠吉との未来を願っていた。


志摩屋から縁談の断りがあったのは、すぐ後のことである。


どうして忠吉に伝わってしまったのか。どうして忠吉は許してくれなかったのか。

許してほしかった。

心までは奪われていないのに……


忠吉を責めてはじめて、千夜は罰が当たったのだと思い至った。

自分の幸せを優先して両親の大事にしていた夕顔屋を離れようとした罰が当たったのだと。


あとはもう死にたいだけだと悲壮にくれていた千夜の前に、主税が姿を現した。


「俺の妾になれ」


「貴方の妾になるくらいなら死ぬ……」


「この店を潰すことくらい造作もない。それでも構わないなら、両親に会いに行けよ」


死を選べば、両親の大事にしていた店を失ってしまう。

一度店を離れようとした自分が決してしてはいけない、できないことだと千夜が(さいな)むには充分な呪文だった。


(守らなきゃ……私が、守らなきゃ)


「俺が手をつけたと知ったら、あいつはすんなり諦めたぜ」


あとから聞かされた顛末(てんまつ)は、千夜の苦しみをより一層深くするだけで、未練さえも残してはくれなかった。

死を望み、死を許されない絶望の毎日を過ごす中では、神に祈ることもない。


優しく抱きしめてくれる人などは存在しないと思っていた千夜に、救いの手が差し伸べられる前の話である。

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