四十
山王祭が終わってからすっかり真夏になったこの頃、肌を焦がす陽射しの下を歩いていると、せっかく湯屋で汗を流してきたというのに、また汗が吹き出してしまう。
今日は千夜の近くには寄れないと思いながら歩く満月屋までの道中で、もしや今日だけでなく夏はずっと近くにいることができなくなってしまうのではと冬野は考えていた。
千夜にくさいと言われるのも避けたいが、今はそんなことを考えている状況ではない。
一向に千夜と結ばれる兆しすら見いだせていないのだから。
冬野の胸中を知ってか知らずか、隣を歩く新之介は悩んでいる冬野の顔を横目に見ていた。
「そんな情けない面をして店に入る気か?」
もう目の前には、満月屋の暖簾が時折揺れている。
冬野は気を取り直して暖簾をかき分けて店に足を踏み入れた。
「いらっしゃ……」
はじめに二人に気づいたのは千夜だった。
店に入ってきたのが冬野と新之介ーーとくに冬野に視線を注いでいる千夜は、愛想のいい顔を崩して固まってしまっている。
どうしたのかと冬野が問うより先に、千夜は言った。
「こちらに、どうぞ……」
千夜は二人を小上がりに案内する。目を合わせもしないで、注文を聞けばすぐに二人のもとを離れた。
異変は千夜だけではなかった。
そのあと料理を運んできたかやも、太一もどこかよそよそしい。
普段なら手が空いたときには話してくれたりする千夜にいたっては、一度も冬野たちのいるところに来なかった。
「冬野、やっぱりこの前の酔っぱらい姿を見て嫌われたんじゃないか?」
「そんなはずは……」
祭りのあとも千夜とは思いを交し合っていたし、祭りの夜にこそ、想いは強固なものへとなった。
仮に千夜に嫌われたとしても、太一とかやまでよそよそしいというのは、思っている以上に何かがあったということだ。
相変わらず両親は千夜のことを認めてくれない。
手を拱いているだけの姿を見て頼りないと思われたのかと、それも当たり前だと胸が急に苦しくなった。
食事を終えた後も話しかけられる雰囲気ではなくて、冬野たちが帰ろうとしたとき、男が店に飛び込んできた。
急いできた様子なのに息を切らしていないのは、駕籠で来たからだろうか。
身形のよい町人髷の男は商家の若旦那といった風情だ。
かやが男に声をかけるよりも早く、男が口を開いた。
「ここに、お千夜さんという方はおられますか?」
その声に反応するように、厨房にいた千夜がちょうど顔を出した。
千夜は男を見て目を見開く。
「忠吉さん……」
男は千夜に駆け寄って、辺りを憚らずに抱きしめた。
胸の前で手を合わせる千夜は、驚いて動けずにいる。
幸か不幸か、満月屋にはゆっくりと飯を食べていた冬野と新之介以外に客はいない。
目の前で想い人が他人に抱きしめられるのを目の当たりにした冬野の、考えるよりも先に止めにかかろうとした身体を新之介が手を引いて止めた。
それでもとても黙って見ていることなどできずに、新之介の制止を振り切ろうとしたのだが、しなかった。
千夜が男から離れたからである。
「やっと見つけた……
山王祭で会ったあと、ずっと貴女のことを探していたんだ」
優しい声音で、忠吉の端正な顔が切なげに歪む。
見る人の心を鷲掴みにするようなものが感じられる。
ただし、千夜の返事はきっぱりとしていた。
「帰ってください。私は、貴女の知っている千夜ではありません」
忠吉は哀愁の漂う表情をそのままに、再び千夜を引き寄せようとしたところで、かやが割って入った。
「この通り、店も閉めますから……どうか、この子の言う通りに」
いつの間に外に出たのか、かやの手には暖簾がある。
かやの迫力に押されたように、忠吉は千夜に気を向けたまま店を後にした。
何事もなかったように店を出て行くことも、かといって今の男は何者なのだと問い詰めることもできずに、冬野と新之介は所在なげに小上がりに座ったままだった。
「お騒がせして、ごめんなさい……」
千夜が口火を切ったのを皮切りに、冬野もやっと千夜に話しかけることができた。
「お千夜さんが謝ることは……それより、今の方は……」
視線をいっぱいに浴びた千夜は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「昔、許婚だった人です」




