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雪月梅花  作者: 夏野
35/61

三十五

冬野たちが料亭「椎本」に着いたとき、空には朱が混じり始めていた。

まだ熱気は冷めやらず、むしろこれからが本番だと、町の喧騒(けんそう)が衰えることはない。

客の浮かれている声が店の外にまで聞こえるくらいだった。


「おや、間に合ったご様子で」


店の前で冬野たちに声をかけたのは、これもたった今着いたばかりの喜左衛門だった。


「どうも妹が無理を申しまして……」


「厚かましく来てしまいました」


丁寧に頭を下げた侍二人に、喜左衛門も腰を低くして応じる。


店の商いやら付き合いなどで祭り見物はできなかった喜左衛門も、夕餉(ゆうげ)までには間に合って急ぎ来たところだった。


「賑やかな方がようございます。妻と娘もよろこびますれば」


あえて満月屋の面々は伏せて答えたのは、喜左衛門には連れがいたからである。

喜左衛門は連れの男を冬野たちに引き合わせた。


「こちらは懇意にしていただいているお武家さまでございます」


「手前は日本橋で酒問屋を営んでおります、忠吉(ただきち)と申します。

もっともまだ若旦那の身ですが」


すらりと背の高い美丈夫の男は、そう言って愛想よく笑った。

歳は喜左衛門よりも若く見える。


忠吉も家族や知り合いと椎本で過ごすことになっており、目的地が同じだからと、知人の喜左衛門と来たという。

店に入ればそれぞれの部屋へと別れた。



「あ、ととさま!」


父の到着に、君がはずんだ声を出した。


部屋に入った喜左衛門を見て、招かれた満月屋の一行は深々と腰を折った。


「この度はなんとお礼を申したらよいか……」


喜左衛門が来るまでは酒を飲まないと、どんなにつゆが勧めても一滴も飲まなかった太一は、まるで極楽だと言わんばかりである。

夫婦ともども長年生きてきて、山王祭の見物も幾度かしたことがあるが、料亭で優雅に見物したことはただの一度もなかった。


「頭をお上げください。気を遣わなくてよいのですよ」


日頃のお礼だと言って、次いで喜左衛門は千夜に優し気な目を向けた。


「お千夜さん、貴女にすてきなお客様を……」


小さな千夜の吐息は、誰にも聞こえなかった。

喜左衛門に続いて後ろから現れたその人を見つめ、何故か泣きたくなるような衝動に駆られる。

心の奥底で()がれていた。


会えた歓喜に言葉を交わさない二人だったが、想いは通じ合っていた。






「何しろ人混みが(すさ)まじく、山車(だし)の一つも見れませんでした。

……っておい、冬野。飲み過ぎじゃないのか」


夕餉の膳にあって、もっぱら酒を楽しんでいるのは太一と喜左衛門である。

互いに注いで注がれる酒をうまそうに飲んでいた。

女子供は料亭の膳に舌鼓を打つばかりだ。


新之介は酒をちびりちびりと飲みながら、料理を味わうことも忘れていない。


その中で冬野はといえば、普段は酒を(たしな)まないことを忘れたかのように、一気にあおったりするものだから新之介が心配になった。

というのも、酒を飲めば千夜に注いでもらえるので、愉悦(ゆえつ)に浸っているのである。


「馬鹿言え……あ、わかったぞ。

お千夜さんにお酌をしてもらっているのが羨ましいこと山の如しなんだな」


顔は酔いの兆しを通り過ぎて、(なめ)らかになった口は、見るからにである。

新之介は(あき)れて、小さく「嫌われても知らんぞ……」と(つぶや)いた。


「酔っぱらい……」


ついには君にまで言われてしまう始末だ。

そんな君を軽く(たしな)めたつゆも、かやと顔を見合わせてくすりと笑っている。


「すみません。私も言われるままに注いでしまいましたから……」


「お千夜さんが謝ることはないですよ。

飲み慣れていない奴がはめをはずすとろくなことになりません。

迷惑ついでに、冬野を庭にでも連れて行ってくれませんか。夜風にあたれば頭も冷えると思うので」



千夜に(うなが)されて部屋を出た冬野の足元はおぼつかない。

それでも料亭の庭に辿り着いて、気持ちよさそうに庭石に寄りかかった。


風情を凝らした庭が灯篭の明かりに浮かび上がっている。

月夜にあってなお目の保養になるというのに、とんだ不調法な男だった。


「冬野さま、大丈夫ですか?」


側に寄って体調をうかがおうとした千夜の手を握って、冬野は自身の隣へと座らせた。


「二人きりだな」


千夜は真剣に心配していたというのに、その暢気(のんき)さに冬野の一面を見た気がした。


「冬野さまは甘えん坊ですね」


可愛くも思えてしまうとは、秘密である。

酔っている最中の出来事などろくに覚えていないと踏んで、千夜はつい口にした。


「今日は来てくださって、とてもうれしかった……」


二人で見上げる十五日の満月は、明日には欠けてしまう。

満たされたはずの胸が、切なさを感じていた。



しばらく月を眺めていた冬野だったが、次第に酔いが覚めていた。

千夜に醜態を(さら)したことを恥じて、しきりに謝ったあとに、


(かわや)に行ってきます。お千夜さんは先に戻っていてください」


と照れながら言った。


冬野との時間を噛みしめて、少々浮かれながら千夜は引き返した。

部屋の前まで来て、一度立ち止まる。

にやにやした顔でも見られようものなら、羞恥でたまらなくなるので、深呼吸をして心を落ち着かせる。


呼び止められたのは、襖に手をかけたときだった。


「お千夜さん……」


聞こえた声だけで、その人のことをすぐには思い出せなかった。

声のした右方を見れば、頭の奥底に封印したはずの記憶が(よみがえ)る。


千夜は相手の名前を呼び返そうとして、できなかった。


驚きと哀愁が混じり合ったまま、見つめ合う。


相手が手を伸ばそうとしたのが見えた千夜は、小さくお辞儀をしてそそくさと部屋の中に入る。


千夜の強張った顔に気づいた新之介が、そっと聞いた。


「冬野に何かされましたか?」


「いえ、私も酔ってしまったみたいで……」

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