二十一
どうして千夜は、いきなり満月屋を出て行ってしまったのか。
千夜と太一夫婦は上手くいっていたように、冬野の目からは見えていた。
ならば、文にも書いてあった、過去を打ち明けられなかったことにたいする罪悪感からなのだろうか。
確かに千夜は、秘密にしていることが心苦しいと冬野にだけは漏らしていた。
時が経ったらきちんと話した方がよいのか、でも、話せば受け入れてくれないかもしれないと、言葉にできない不安までもを受け取っていた。
仮に太一とかやが千夜の過去を知ってしまっても、二人が受け入れないはずがないと、冬野は千夜に言い聞かせていたのだが……
しかし、いくら心苦しかったとはいえ千夜はやっと落ち着ける場所を手に入れたのだ。
そこから逃げ出したのは、他に理由があったからではないかと冬野には思えてならない。
冬野が自身の考えが当たったことを知ったのは、途中で会った音十郎の手下から千夜がいなくなった経緯を聞いたときであった。
「これ以上、迷惑はかけられないと、お千夜さんは……」
かつて辱められた男たちに居所を知られ、家の中にまで押しかけられた。
太一が助けに入ったことで一応の難は逃れたものの、いつまた、彼らが来るかわからない。
このまま自分がいては迷惑をかけてしまうからと千夜が思うには充分であった。
「親戚にもあたってみましたんですが……」
千夜は親戚に身を寄せると文にしたためていたが、誰もが嘘であると思い込んでいた。
もしかしたらの可能性も捨てきれないので、音十郎は手下に命じて調べさせていたのだが、やはり千夜はどこにもいなかった。
親戚はいずれも商家で、夕顔屋を継いだ叔父と同じく、千夜と関わり合いになることを体面的に恐れているため千夜を匿うはずがないと、やるせない表情で手下が言った。
夕顔屋を追い出された後に二人で歩いた神田の町を探すも千夜はいない。
以前に逢引していた上野の稲荷神社にも足を運ぶも、冬野の目に千夜の姿は映らなかった。
もうじき、完全に日が暮れようとしている。
冬野はへとへとになっている身体を奮い立たせて、あてもなく千夜を探し続けた。
昼時には舟の往来が多かったのを、千夜は橋の下から川を眺めていた。
何刻くらいここにいるのだろうか。
すでに空には星が瞬いていて、肌寒い夜の中に一人で蹲っている。
昨夜の中に満月屋を出なかったのは、襲われたばかりで恐怖が抜けきっていなかったのと、気力がなかったからだ。
何とか文だけを書いて、明日には出て行こうと決行する。
出て行ったあとのことなど、考えていなかった。
兎に角、満月屋にいてはいけないと、無一文で飛び出している。
自分がどうなろうと、どうでもいいのかもしれない。
「おや、見ない顔だね」
夜半になってもじっと動かないでいた千夜に、いつの間にか一人の女が近づいてきた。
女は頬かむりをして茣蓙を持っている。
千夜はその女を見て、少し目を見開いた。
病的なまでに痩せ細っている身体は骨が浮き彫りになっていて、身形も貧相だったのだが、厚化粧を施した様が恐ろしかったからだ。
「新顔ってわけじゃないんだろ。まさか家出娘かい?」
女は茣蓙を放って、千夜の隣に座った。
はじめは恐ろしいと思った女を間近で見ると、やはり肉付きの感じられない顔は、それでも整っていると感じた。
厚化粧なんかしなければいいのにと、そんなことも思ってしまう。
「私でよかったら客の取り方、教えてやるよ」
「え……」
「こんなとこにいるんだから、私と同じ夜鷹でもする気なんだろ。
それとも本当に、家出娘だっていうのかい」
「夜鷹?」
「ははっ、夜鷹も知らないなんてどこのお嬢ちゃんだい」
夜鷹とは、蕎麦一杯の値段で買える下級の街娼である。
多くは貧しい庶民がなるのだが、まずまともな暮らしをしている者はいなかった。
千夜はその存在を知らなかったので、女の言っていることにぴんとこないでいる。
「私も昔はお嬢さまだなんて呼ばれてたけどね。
変な男に引っかかっちまって、ここまで転げ落ちたよ。あんたも気をつけな。
さてと、あと二人は取らないとね……」
少し休憩しただけだと言わんばかりに、女は一人でまくし立てて千夜の隣から姿を消した。
闇雲に町を探し続けたところで、冬野は千夜を見つけることができなかった。
だが、千夜を見つけるまではこのまま帰ることもできない。
手放さなくていい居場所があるのだと千夜に伝えなければならない。
柳原土手に生えている雑草が、風に揺れて騒めいている。
ぼんやり耳をすましてしまうのは疲労しているからだ。
「もし、お侍さま」
後ろから声をかけてきた女は、ゆったりした足取りで近づいて、身体にしな垂れかかってきた。
避ける気力もなくて、女の格好から夜鷹だと気づくのも遅れてしまった。
「すまない。先を急いでいる」
引きはがされた女は冬野が客にはならないと悟って、つまらなさそうに去って行くのを冬野が呼び止めた。
「若い女を見なかったか?おそらく、一人でいるはずなんだが……」
「知りたいなら先払いだよ」
「……知っているのか!その人はどこに……」
女はうんともすんとも言わずに手だけを差し出している。
冬野は千夜の居場所がわかったかもしれないという逸る気持ちで、所持金すべてを女に渡した。
一朱銀をまるで宝物のように見つめる女は、機嫌よさ気に言った。
「早く行かないと、私みたいになっちゃうわよ」
女が指差す方に、冬野は走った。
足は悲鳴を上げている。呼吸もすぐに苦しくなってしまう。
雲に隠れていた月が姿を現して、夜道を照らし始めた。




