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雪月梅花  作者: 夏野
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江戸の町に連日降り注いでいた雪は止み、今朝は陽の光を浴びて、積もった雪たちは艶々と解け始めていた。

ぬかるんだ地面は足元が(すべ)りそうで危うい。


同じ時刻に、同じ場所で、千夜(ちよ)はこれも昨日会った男が来ないかとしばらく待っていた。


傘は兎も角、羽織だけでも返したいのだが、如何(いかん)せん、相手の名前も知らなければ何処(どこ)の誰なのかもわからない。

羽織も上等で、会ったときの身形(みなり)からしても武家の人だとは一目瞭然だった。


雪が降りしきる中を傘もささずに立ち尽くしていたおかしな女を、笑うでも呆れもせずに優しく傘を差し出してくれた男に、もう一度だけでもいいから会いたかったというのが、本音なのかもしれない。


しかし、相手が武家の人間であればこそ、自身の名を明かすことも、名を尋ねることもできなかった。

一生返せるあてもないかもしれない羽織を抱えて、もしかしたら、男に会えるのではないかと待ち続けた千夜は、しばらくしてから帰路に就いた。






「はぁ……また父上に叱られる」


「勝てなかったことよりもお父上に叱られることを嘆くとは、冬野(とうや)らしいな」


少々項垂(うなだ)れた冬野の横を歩く男ーー新之介(しんのすけ)は、冬野とは違い武士らしく背筋を伸ばして歩いている。


二人が通っていた剣術道場の分室ができたのは最近で、その分室の方に二人は通うことになったのだが、今日は分室ができた記念として、門弟らによる試合が行われたのだった。

冬野はその試合ではかばかしい結果を得られずに、落ち込んでいた。


「一勝できたとはいえ、私も父上から何も言われないわけではない」


「私は一勝もできなかったのだ」


仮に一勝できていたとしても、その程度の結果では、父からの叱責は免れない。


御書院番を代々勤める高村(たかむら)家の嫡男ということもあり、冬野は父に厳しく育てられていた。

しかし、当の本人は剣術にもさほど興味がなく、何より苦手なので上達しない。

試合に負けても特に思うところはないのだが、父を落胆させることに対しては、罪悪感があった。


「先に帰っていてくれ。寄りたいところがある」


「必勝祈願をしていたとかいう神社に行くのか?試合は終わったというのに……」


冬野がここ最近、道場に行く日には必ず立ち寄る神社があることを、気心の知れた友である新之介は知っていた。

ただ、今日に関しては願掛けも虚しく試合で負けたというのに、神社に行こうとしている冬野に新之介は引っかかりを覚える。


お礼参りなわけもなく、そもそもこの友人は信心深い性格でもないのだ。

神社に通っているだけでも(めずら)しいのだが、試合も差し迫っていたときだったので、はじめは気にしていなかった。


これは何かあると思った新之介は、けれど冬野を引き止めることをしなかった。


新之介と別れた冬野が向かったのは、つい先日、名前も知らない女と会った稲荷神社だった。

ここ数日のうちに何度か神社を訪れていたのだが、あの雪が降っていた日以来、女とは会えないでいた。


名前ぐらい聞いておけばよかったと、後悔している。


また会いたいと思うようになるとは、予想していなかった。

良い恰好を見せたくて、それよりも傘をささない女が心配で、女が遠慮するよりも前に立ち去ってしまったのだ。


もう一度女に会って、無事な姿を見たい。

それは建前で、どうしても、会いたい。


神社が近づくにつれて早くなった足は、無人の光景を見て、神社の入り口でぴたりと止まる。


目を凝らしても、いつかの女の姿はなかった。






千夜がちょうど家に着いたところで、すぐに後ろから駕籠かきがやって来た。

駕籠は千夜の家の前で止まって、中からは男が一人出てくる。


「出かけていたのか?」


男が千夜に声をかけた。

千夜が返事をしないのにも構わず、男は千夜の手首をいささか乱暴に引いて、戸口を開けて千夜を(いざな)った。


何処に出かけていたのか、何をして過ごしていたのか、興味もないくせに尋ねてくる男の気持ちがわからない。

気遣う言葉一つ、今までかけてくれたこともないというのに。


ふと思い出したのは、傘を差し出した名前も知らない男の姿である。

千夜の思考をかき消すように、男の荒い舌使いが襲った。


恥じらいはとうに失せて、残ったのは嫌悪だ。


「ほら、上手く咥えろよ」


急かすように袴を脱いで口に押し当てられて、あとは気持ちを押し込めて千夜は受け入れることしかできなかった。

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