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雪月梅花  作者: 夏野
18/61

十八

神田相生町にある「満月屋」を営んでいるのは、太一とかやの夫婦である。

半世紀を過ぎた二人はかくしゃくとしていて、およそ三十数年にも渡り、二人きりで切り盛りをしていた。


太一は子どもの時分から浅草の料亭に奉公をしていて、後に板前になり、二十を過ぎたときに同じ店で女中をしていたかやと所帯を持ち、満月屋をはじめたのだった。


夫婦になって四年後に一人娘を授かるも、もう少しで三歳になろうというときに風邪をひいて亡くしてしまっている。

以来ずっと、二人ぼっちで生活していたのであるが、千夜という娘と一緒に暮らし始めていた。


「まるで娘が帰ってきてくれたみたいで……」


と、太一が漏らしたことがあるように、千夜と過ごす生活は太一たちにとっては格別であった。


日本橋にある大店の娘であった千夜が相手に脅されて、旗本の山ノ井主税の妾をしていたのはつい数ヵ月である。

冬野に苦界から救い出されたのはよかったのだが、亡き父の後を継いでいた叔父夫婦に縁を切られ、実家にはいられなくなってしまった。

放り出された千夜が偶然にもお玉稲荷神社で太一夫婦と出会い、千夜が店を手伝ったことを縁に、そのまま満月屋で働かせてもらうことになったのだった。


そんな身の上だから、特に贋金を作っていた旗本の妾をしていたことを、千夜は太一とかやに知られたくはないと黙っている。

千夜を救うために一役買った北町奉行同心の荒木音十郎が、元は商家の娘でわけあって家にはいられなくなったと身元を保証したので、太一たちも千夜に探りを入れようとはしなかった。


山ノ井家が贋金を作っていたことは公にはなっていないので、知っているのはごく(わず)かな人間である。

なので太一たちが知る由もなく、音十郎が保証しているというだけで千夜の身の上もわからなかった。


だが、千夜の雰囲気や言葉遣いなどからは、それ相応の家にいたことを察していたし、ならばどうして千夜が家に帰れないのかと気になっていた。

いつかきっと、千夜が話してくれる。それまでは待とうと、太一とかやは決めていた。


「じゃあお千夜ちゃん、お留守番よろしくね」


「はい。お気をつけて」


昼の商いが終わると、千夜たちも余り物で飯をすませて、太一とかやは毎日、お玉稲荷神社に参拝に行っていた。

その神社への信仰心が強いわけは、名前にある。

太一とかやの亡くなった娘の名がたまといい、毎朝位牌に拝むことも忘れない夫婦が供養の意味を込めて、祠に拝んでいた。

参拝をした後は、夜の商いのために買い出しをしがてら健康のために散歩をしている。


千夜はといえば、太一たちと一緒に町へ繰り出すこともあるが、ほとんどは……


「お千夜さん」


満月屋は表通りに面していて、店の裏には太一たちが住んでいる家がある。

すでに勝手知った裏の戸口から入ってきたのは、冬野だった。


周りには誰もいないので千夜は隠さずに、溢れるばかりの笑みをこぼす。


「ここに来る途中に見事な藤が咲いていたので、お願いして分けてもらいました」


冬野は手に持っていた藤の花束を千夜に渡した。


「きれい……いつもありがとうございます」


千夜がまだ妾をしていたとき、精神的にも肉体的にも(さいな)まれていた千夜に、冬野は梅枝(うめがえ)を渡して励ましたことがある。

今は悩みなどなくなったが、こうして気配りをしてくれることが千夜にはうれしかった。


すぐにお茶と茶請けを用意して、千夜はさっそく藤を()けた。


「花道を(たしな)まれていたことが?」


と冬野が聞いたのは、千夜が活けたものが素人にしては立派に思えたからである。


「ええ。両親からは一通りの習い事をさせてもらいましたから」


相変わらず冬野は新之介一緒に、満月屋に客として訪れることもたびたびあったが、千夜の仕事が終わった時刻を見計らって、家を訪ねていた。

二人で花見をした間柄とはいえ、大手を振って町中を歩くことはできない。

そこで考えたのが、ひっそりと、会うことであった。


誰にも見咎められずに二人きりになれる時間と場所が、このときこの場所なのである。


とりとめのない話をして、空が茜色になったのを合図に、冬野は名残惜しく腰を上げていた。


「まあ、冬野さまいらっしゃい」


返ってきたかやと鉢合わせして、ばつが悪くなることも……


しかしかやも太一も冬野たちがこうして逢瀬を重ねていることを知っていて、素知らぬ顔をしていた。


「よろしかったら、お土産に」


冬野がいそいそと帰ろうとしているところに、かやが稲荷寿司を渡した。

ありがたく受け取った冬野は、小さく何度もお辞儀をしながら去って行った。


夕方からは夜の商いの仕込みをして、ほどなく開店である。






千夜の日常は満たされていた。

両親が亡くなったとき、それが地獄の始まりだとさえ思っていたのが、毎日を笑って暮らせるようになった。


地上へ引き上げてくれた冬野のことを想うと、胸がぽうっと熱くなる。

ときどき身分をわきまえずになってしまいそうになるのを(こら)えるのに必死だった。


太一とかやも、千夜の気持ちには気づいているだろうに何も言わない。

それどころか実の娘のように大切に扱ってくれることが、この上なくうれしかった。

どちらも穏やかな性格で、仲も良い。

満月屋の常連客からはおしどり夫婦と呼ばれているが、実際にそうである。


「おたまが死んじまったあと、あの人と上手くいかなくなったときがあってね……」


以前、かやが千夜にそう(つぶや)いたことがあったが、千夜は信じられなかった。

傍目から見ても仲睦(なかむつ)まじい夫婦で、喧嘩をしている姿など一度も見たことがない。


今も夫婦を続けているということは、上手くいかなくなったが持ち直したということである。


たった一人の我が子を失って、気持ちが塞ぐどころではなかっただろうし、千夜も両親を亡くしているので立場は違えど、その悲壮は想像するにあまりにも痛ましい。

仲が良い悪いにかかわらず、夫婦仲というものが上手くいかなくなることもあったのではないかと思うだけに千夜は(とど)めた。


昼の商いが終わり、その日はいつものように太一とかやはお玉稲荷神社に向かった。


冬野は用事があって来れないことを聞いていたので、千夜は家の中を掃除したり、外の落ち葉を掃き清めたりして過ごしていた。

それで箒を持っていると、裏の戸口が開く音が聞こえて振り返る。

もしかしたら冬野が来てくれたのかもしれないと、一瞬にして思った。


戸口を開けた人物は、正確には二人の男は、冬野ではなかった。


千夜の手から箒が滑り落ちて、頭は真っ白になる。


「やっぱり、お前だったのか」


男の一人がそう言って、含み笑いを浮かべる。

ずんずんと歩いてくる二人に千夜は後退るも、身体の動きは固かった。


千夜は男たちを知っていた。

あの痛みを、嫌な感触を、忘れるはずがなかった。

男たちは、かつて山ノ井主税が自身の妾である千夜をあてがっていた仲間だったのだ。

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