十二
戸次家で行われた梅見の翌日、富美は夫に連れ戻されて伊東家を辞した。
そして千夜も、富美が帰った二日後に、伊東家を後にすることを決めた。
「今までお世話になりました」
千夜はそう言って、深々と頭を下げた。
伊東家の居心地がよく、親切な家人たちと過ごした千夜はつい長居をしてしまった。
やっと伊東家を出て行く決心がついて別れを告げたときも、
「もう少し居ってもいいのだぞ。
お千夜さんがよければ、このまま我が家の女中になってくれても……」
「そうだよ。ひな、おねえちゃんと一緒がいい」
左馬之介とひなは引き止めようとしたが、千夜が甘んじることはなかった。
「すでに体調も充分すぎるほど良くなっております。
これ以上はとても……それに私には、帰る家がありますから」
ついに実家からは、便りの一つもこなかった。
しかし帰るべき家には帰らなければならない。
気が重いというのが正直な心境だが、音十郎もいるというのは頼もしかった。
音十郎は千夜の事情を汲んで、保証人のような形で同席をしてくれるというのだから、願ってもないことである。
「ふむ……またいつでも、遊びに来なさい」
「おねえちゃん……」
名残惜しそうにしてくれる二人が、千夜には温かかった。
それは、両親が生きていたときのような温もりだと感じて、あまりにも懐かしくて遠い記憶だ。
一方、新之介はといえば、千夜の気持ちが痛いほどわかってしまって、引き止める言葉を口にしなかった。
千夜はこのまま伊東家で過ごして、冬野と近い存在になることを恐れたのだ。
いくら大切な客人として扱われても、千夜は町人で、武家の人間にはなれない。
冬野に特別な感情を抱いてしまった千夜は、どんなに足掻いても、冬野との未来はあり得ないのだ。
冬野の近くにいれば、そんな千夜は夢を見てしまう。
夢を見る前に、冬野から遠ざかりたいのが千夜の本音であった。
「お礼申し上げます。誠に、幸せな時間を過ごせました」
現実は、すぐそこに迫っていた。
ほどなくして、伊東家に音十郎が迎えに来た。
「よお。すっかり良くなったみてぇだな」
「伊東家の皆さまのお蔭です。荒木さまにも、たくさん感謝してもしきれません」
「ま、実のところ一番踏ん張ったのは冬野だ。会ったらたっぷり礼を言ってやんな」
結局、千夜が伊東家を出るまでに、冬野とは会えずじまいであった。
会いたい、だけどその姿を一目見てしまえば、想いが張り裂けてしまうかもしれない。
冬野と会えなくてよかったと思えば思うほど、胸は切なくなる。
門前で伊東家の人々に見送られた千夜は、音十郎が用意した駕籠に乗り、一路千夜の実家である「夕顔屋」を目指した。
普段、町廻りで鍛えられた音十郎は徒歩である。
千夜の乗っている駕籠脇について、颯爽としていた。
夕顔屋は日本橋の塗物問屋である。
老舗の大店で、店構えもさることながら、客層や使用人に至るもそこそこに品が良い。
町人とはいえ武家で開催された梅見の宴に、千夜が後れをとらなかったのも、躾が行き届いていたからだった。
一向は、夕顔屋の手前で止まった。
先に音十郎が店の中に入って、番頭に声をかける。
「お待ちしておりました。お嬢さまは……」
音十郎が駕籠を示すと、まだ姿も拝めないというのに番頭は涙ぐんだ。
番頭が駆け寄る勢いで足を踏み出そうとしたとき、手代に呼び止められる。
手代はこそと番頭に耳打ちして、それを聞いた番頭は苦渋に耐えるような表情になって「そのように……」と呟いた。
番頭に案内された音十郎は、後ろについてくると思っていた千夜が駕籠ごと裏口に移動させられているのを見て、番頭の苦渋を悟った。
「叔父さま、叔母さま、お久しぶりです」
部屋の中には千夜と音十郎、二人に対面して叔父の松次郎と妻のおはまがいる。
久方ぶりに再開した千夜を前に、叔父夫婦は無言だった。
「この通り、無事な姿で帰ってきたんだ。
今まで店のために身を粉にしてきた姪を大事にすることだな」
叔父夫婦の態度に釈然としない音十郎は、嫌味たっぷりに言ってみせる。
音十郎のことは表から通したのに、千夜は裏口に回らせたのは世間に千夜が帰ってきたことを知らせたくなかったのだろうと、その采配も気に食わなかった。
「おはま」
叔父の合図で、おはまは千夜の前に金包を置いた。
「何の真似だ?」
音十郎の鋭い声音に、松次郎は怯まない。
「うちは商家ですから。罪人の妾がいたのでは、世間様から何を言われるか……」
「いくら義兄さんの子だからって、うちには置いておけませんよ。
息子が家を継ぐのに差し障りがあっては困りますからね。
お千夜だって、商家の娘なら心得ているでしょう」
叔父夫婦は饒舌で、迷いがなかった。
つまり、千夜の前におかれたのは手切金というわけである。
正確には千夜が渡された額は十両で、庶民には大金でも、大店にとっては端金だった。
(胸くそ悪ぃ……久しぶりにきれるか)
事実、叔父夫婦がどのように千夜を言い含めて妾にしたのかはわからない。
千夜には許婚がいたが、それでも旗本相手には逆らえなかったのかもしれない。
だが、身も心も傷つけられた、しかも先代の一人娘が帰って来ての仕打ちにしては、あまりにも目に余るものがある。
同心としては伝法な口調はお手のもので、音十郎が少しばかり脅してやろうと口を開きかけるよりも前に、千夜が言った。
「重々、わかっております。
今日ここへ来ましたのは、父さまと母さまの位牌に拝みたかったからです。
どうか、それだけはお許しください」
千夜の言葉に、叔父夫婦はほっとしたように肩を下ろした。
口では千夜を邪険にできても、この場には同心も同席していて、内心責め立てられるのではないかとびくびくしていたところである。
家付娘が帰ってきて断る義理もないのだから、やかましく千夜が反駁しなかったのも、叔父夫婦にとっては幸いだった。
さすがに両親の位牌に手を合わせることまで拒まなかった叔父夫婦は、千夜が手切金を受け取ると、そそくさと部屋を後にしたが、音十郎に睨まれて縮み上がった。
商家は普段から同心や岡っ引きには揉め事があったときの場合に備えて心づけを渡し昵懇にしておくもので、これはいけないと松次郎が思ったのか、あとから持ってきた心づけを音十郎は受け取らなかった。
しばらく位牌に手を合わせていた千夜は腰を上げて、入ってきたときと同じ裏口から出ようと勝手知った裏庭を通ると、ばたばたと十数人の使用人がやって来て土に手をついた。
「お嬢さま、申し訳ございません……!」
深く額づいて言ったのは、音十郎を迎えた番頭である。
その横には女中頭が、同じ姿勢で泣いていた。
裏庭に集ったのは、千夜のことを幼い頃より知っている古参の奉公人たちであった。
「私めを呪ってくださいまし……」
千夜は知っている。
主税の妾にさせられそうになったときも、この奉公人たちは叱責覚悟で叔父に意見をしてくれたことを。
夕顔屋の一人娘を、とても可愛がってくれたことを。
「私は誰も恨んでいません。不幸の中で、いい方たちと巡り会えました」
苦痛の日々を耐えて生きることをやめずに自由になれたのは、ひとえに手を差し伸べてくれた人たちの力である。
その人たちは決して自分を裏切らない。
奉公人たちの思いもずっと変わらなかったのだと、千夜は目が熱くなった。
「久しぶりに帰ってきた夕顔屋は、まるで他人の家みたい……
ここが私の居場所じゃなくなるのは寂しいけれど、貴方たちが私のことを忘れないでいてくれて、とても救われました」
忘れるわけはありませんという声は、各々の泣き声にかき消されそうなほど小さい。
「私のことは心配しないでください。夕顔屋を、よろしくお願いします」
千夜と夕顔屋の縁が、ぷっつりと消えた瞬間だった。