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第三話 眦は嵐の夜のともしび

 外気に晒されていた顔が勢いよく湯に沈む。冷えていた頬が熱い湯に触れてちりりと痛んだ。膝で浴槽の底を押して、体勢を整える。梓海(ズーハイ)の月色の長い髪が湯に散らばって、海藻のように広がり、起き上がるのに合わせすぐに収束した。噎せながら立ち上がった梓海は、泣きそうになりながら腕を組む朝暉(ちょうき)を見上げる。ぎらぎらと光る太陽の双眸は、梓海を断罪する(つるぎ)みたいだった。ゆるく掴まれた手は既に離されていて、湯船の中、梓海は心の行き場をも失う。

「少しは頭、冷えた?」

 むしろ湯に浸かってあたたまったか、などという軽口を並べながらもこなたの視線は冷ややかだった。ああ自分はまた間違えたのだな、と梓海は思う。


 運命だと思った。

 今まで誰ひとり、梓海の手を繋いでくれた人など居なかった。あの小窓から身を乗り出して、容易く梓海の孤独を打ち壊してくれた者などひとりも。だから勘違いをしてしまった。あまりにも眩しくて、美しくて、強くて、欲しかったひかりの形をしていた朝暉ならば、自分の人生を変えてくれると期待してしまった。そんなこと有り得ないのに。有り得るはずなかったのに。


 大丈夫、と心の中で呟く。

 大丈夫。今までと何も変わらない。いつかお母様が諦めてくださるその時まで、出来得る限りの理想の子どもを描いて。ただ、この身に"なんらかの手違いで"宿った空水晶を天が奪うその日まで、今まで通り、何も変わらない"(ユエ) 梓海(ズーハイ)"を生きていればいい。今日は、都合の良い夢を見ただけなのだとそう思って、やり過ごせばよい。朝暉のことも、あたたかな食事も、ぬくもりを感じる湯浴みもすべて――ただの幻想だったと思えば。

 湯よりもぬるい透明の血液が、晴れ渡る冬の空の瞳からぽたりと落ちて、睡蓮の葉を揺らした。

「梓海」

「すみませんでした、変なことを言って。忘れてください」

「そうじゃなくて」

 そうじゃない?

 涙を無理にとめようとしたせいで、鼻の奥が痛む。沈黙する梓海を見つめ、朝暉は深くため息をつくと、湯船に沈んだまま岩風呂のはじっこに移動し、小さくて平らな岩にうなじをくっつけて、背伸びをした。

「オーサマね。……それ、本当にあんたの願いなのか?」

 ――勿論だ。

 即答したかったけれど、朝暉の心底落胆したかのような声色に委縮して、すぐに答えられない。朝暉と過ごした時間は僅かだったけれど、こなたが自分よりずっと物知りで賢いのに、梓海は気づいていた。自分はこなたに比べたらずっと劣った存在で、その稚拙さは朝暉を不愉快にさせる代物なんじゃないか、と不安だった。現に今、王になってほしいだなんて傲慢で自分勝手な願いを口にした梓海に、こなたはがっかりしている。梓海(じぶん)"ごとき"が、こなたを不快にさせるなんて、あってはならないことなのに。

「おれはてっきり、会ったばかりの時に言ってたやつじゃないかなー……と思ってたんだけど」

 こなたと相対したとき、自分が何を口走ったのか、梓海はすぐに気が付いて、視線を彷徨わせる。掴んだ手の意味を聞かれて、咄嗟に梓海は。


 連れ出してくれるのかと、思って。


 黙ったままの梓海ににじり寄り、朝暉が目を細める。「冷えるからしゃがんだら?」と促されるままに首まで湯に浸かろうとすると、朝暉が梓海の長い髪を湯に入らないようにきっちりとまとめ上げた。髪留めも無いのに器用だ、と思っていると、がたり、と物音がする。


 朝暉じゃない。梓海でもない。


 入口の戸を見やり、朝暉が距離をとる。此処からは随分離れているが、逃げ場はない。柵を越えた先は崖だ。おいそれと侵入できないようになっているから、当然脱出もなんらかの術式が無ければ不可能だ。梓海は生憎、その手の術式をまだ知らない。自分ひとりだけ逃げ延びるすべは知っているけれど、朝暉を逃がす方法は持っていない。

「朝――」

 こなたの名前を呼ぼうとした梓海の口を、朝暉が濡れた掌で塞ぐ。

「……梓海様?」

 戸の外から、馴染みの世話役の声が聞こえる。

「ご入浴の際は声を掛けてください、とお伝えしたはずですが」

 何かあったらどうするんですか、とたしなめるような声色が戸の隙間から入ってくる。心臓がうるさい。どうしよう、どうすれば、と迷っていると、朝暉が手で覆っていた唇を開放する。返事をしろということだろう。

「……す、すみません。失念していました」

 声が震えた。梓海は泣いてしまいたい気持ちをぐっと堪えて、静かに深呼吸をする。昔から変事があったときの対応が極端に下手くそだった。想定していない何かや、準備していない物事が起きると、頭の中が「どうしよう」でいっぱいになって何も出来なくなってしまう。こうすればいいんじゃないか、ああすればよいのかな、と思っても、じっくり吟味していない行動をして大失敗する未来に身が竦んでしまう。今もそうだ。朝暉に促されなければ、ただ沈黙して、固まっているだけだったろう。

「――いえ! あの……怒っているわけではないのです。ただ、梓海様に何かあったら、と……。他の従者も皆、心配いたしますので」

 扉の向こうで、慌てて紡がれた言葉に梓海は「え……」と声を漏らす。もしかして、声が震えていたから、注意をされて梓海が落ち込んだと思ったのだろうか。ただ緊張しているだけで、彼女は何も悪くないのに――と更に落ち込んだ梓海は「はい、すみません……」と再び謝罪を口にする。それを見て、朝暉が呆れた表情を浮かべたのには、俯いていたせいで気づかなかった。

「梓海様、もう湯浴みはひと通り終わりましたか? もし途中でしたら、お手伝いいたしましょうか」

「だ――大丈夫です! もう、出るところですから」

「そうですか……ではお外でお待ちしております。髪の毛の手入れはこの极光(ジークァン)にお任せください!」

「い……」

 いえ、大丈夫です――と更に断るのも怪しい。极光を脱衣所から引き離せば、隙を見て外へ出られる。廊下をずうっと辿って行けば母上の母屋――月の宮に繋がっているけれど、特別な術式が施されているし、屈強な門番が見張っているから其方からは出られない。来た時のように窓から脱出するか、或いは術式で何処かへ"飛ぶ"しかないが、この状況下でも退出しない所を見ると、朝暉も梓海と同じくその手の術式は使えないのだろう。

 脱衣所に朝暉の服を置いたままにしなくて良かった、と心底ほっとする。随分と汚れていたから、見つからない場所に隠して、梓海の服を代わりに持ってきたのだ。一応、従者が入って来た時のことを考えて、二着置いてあるのを不審がられないように羽衣を多めに持ってきた。風呂から出たら、一時的にその衣を羽織ってもらい、部屋に移動してから別の服を朝暉に渡すよう手はずを整えた。勿論、これらの提案をしたのは梓海ではなく朝暉だ。

 いつも食事の後は世話役たちも皆、片付けで忙しい。しばらくのあいだ時間があるのだ。だから、今が好機と湯浴みへ向かったのだが……今日に限って极光に声を掛けられるとは。

「梓海様?」

「あ……」

 えっと、と言葉に迷う梓海の背を、朝暉がそっと押す。先に出ろという合図だろう。風呂から出る。ゆらゆら、と梓海の質量を失った湯船が柔らかく跳ねた。小さな岩をまたいで歩き出そうとしたところで、岩肌とはちがう、ぬめりとした感覚と共に右足がつるりと滑る。

 しまった、薄衣を置いていたんだった、と思う頃には後ろに向かって身体が投げ出されていた。

 堪えねばと思っていたのに、咄嗟のことに上がった悲鳴が、水しぶきに飲まれる。背中から湯船に勢いよく入ったのに混乱して、うっかりお湯を飲んでしまった。くるしい。手足を滅茶苦茶に動かす梓海に細い腕が伸びて来る。脇の下を支え、そのまま水面へ引っ張り上げられた。

「――落ち着け、梓海。足、つくだろ」

「ちょう、」

「梓海様、大丈夫ですか!? ……開けます!」

 梓海の悲鳴を聞き、ただ事ではないと次に取り乱したのは极光だった。

 待ってください、と制止しようとしたのに、気管にお湯が入ったせいで噎せることしかできない。朝暉は梓海が自力で立ったのを確認してもなお、梓海の二の腕を曲げた腕の間に挟んだまま離さなかった。このままでは极光に朝暉が見つかってしまう。隠さなければ。

 でも、何処に?

 扉が開き、真白の従者服に身を包んだ极光が入って来た。明るい橙の長い癖っけを一つに結び、鮮やかな赤い布を巻いている。耳元で揺れる柘榴石が、この距離からも見えた。一瞬で极光の表情が固まる。彼女の視線が、まっすぐ朝暉に向いているのは明白だった。

「おっと、叫ばないでね、おねーさん」

 极光が身じろぎするのと、朝暉が釘をさすのは同時だった。「扉を閉めて、そのままこっちへ」と指示をする朝暉の声色は冷たい。

 なんでわざわざ极光を風呂場へ招くのだろう。それと……いつまでこうして腕を拘束しているのだろうか。

 困惑しながら首だけで朝暉を見る。朝暉はちらりとも梓海を見ず、极光を睨みつけていた。

「……どこの誰かは分かりませんが、梓海様を離しなさい。その御方は、あなたが触れていいような人間じゃないの」

「触れるどころか、同じ湯に浸かってるけどな」

 場にそぐわない冗談を口にすると、极光の木苺色の瞳がすうっと細められる。

「……何が目的? 月家に単身で忍び込むなんて。何処の刺客です。こんな子どもを使うなんて――」

「じ、极光、違います。このひとは――」

 誤解を解かないと、と慌てる梓海の口を、再び朝暉の掌が覆う。これではまるで、极光が言うように刺客みたいじゃないか。誤解が誤解をうむ、と慌てて抵抗すると、极光が「梓海様!」と更に近づいて来た。

「誰が近づいていいって?」

「梓海様を解放しなさい。その方を傷つけるのは、絶対に許さない」

「落ち着いてよ。おれは交渉がしたいだけ」

 どうしよう。このままじゃ极光が。朝暉が。刺客だと勘違いされたらひどい罰を受けるかもしれない。そもそも見つかったら母上がどんな扱いをするか。はやく説明しないと。でもどう言えば? 説明したところで、极光は聞いてくれるだろうか。

 朝暉をどうしたら逃がせる? 私は何をすれば――。

 混乱していた頭がだんだんぶわっと広がっていくような感覚がする。身体が熱い。喉が渇いた。なんだか、気持ち悪いかも、と背中に感じる朝暉の身体に寄りかかる。

「……梓海?」

 极光と話していた朝暉が会話を中断して、梓海の顔を覗き込む。あごからぽたり、と落ちてきた雫が、梓海の耳朶を掠めた。

「――様!」

 じーくぁん。ちょうきは、しかくなどではなくて。わたしの……。

 私の、なんなのかが浮かばないまま、意識が散り散りになって消えた。


◆ ◇ ◆ ◇


「……お。目、覚めた?」

 涼しい風を感じながら、瞼を開けると、いつの間にか布団に寝かされていた。傍らには、若草色の着物を身に纏った朝暉。反対側の枕元には、大きな団扇で梓海を扇いでくれている极光(ジークァン)が座っていた。慌てて飛び起きて辺りを確認するが、そのほかには誰もおらず。額に張り付いていた生温い布がぼとりと掛け布団に落ちる。

「私は……」

「のぼせて気絶したんだよ。极光が此処まで運んでくれた。お礼言ったほうがいいぞ」

「……ありがとう、ございます」

「いいんです。気づけず申し訳ございませんでした、梓海様。具合はいかがですか? 多少、術式で体温等、調節させていただきましたが……」

「少しぼうっとするだけで、大丈夫です」

 もう少し横に、と再び寝ころぶよう促され、仕方なく身体を倒すと、极光と朝暉の様子を窺う。先ほどまでの一触即発といった雰囲気はまったくといって無くなっていた。梓海が眠っている間にいったいなにがあったんだろう。突っ込むのも野暮だろうかとも思ったが、自分だけ何も知らないというのも……。

 悩む梓海が押し黙っていると、朝暉が深いため息をついて、梓海の額を人差し指で弾いた。

「痛っ」

「言いたいことがあるなら言え。黙ってたって分かんねぇよ」

「朝暉様、暴力はおやめください」

 更にもう一度額を弾こうとする朝暉の手を、极光が掴んだ。朝暉は「はーい」と素直に返事をして、手を引っ込める。やっぱりおかしい。さっきまでは睨み合っていたのに……。それに、"朝暉様"? 空水晶持ちだというのを明かしたのか? もしそうだとしても、梓海を襲うような真似をした――あくまで极光はそう思った――相手に、敬語を使うだろうか?

 极光は梓海付きの限られた従者のひとりだ。他の官吏や上の立場の者、梓海の母である帝へ敬意を払うことはあるが、優先すべきは(ユエ)家と心得ている。よっぽどの相手でない限り、此処までかしこまった態度は取らないはず。

「……だからさ、聞けばいいだろ。そんな難しい顔してないで」

「でも……」

「いいから」

「…………どうして、仲良くなったんですか?」

 仲良く、と朝暉が目を丸くする。梓海の顔を覗き込んでいた朝暉が顔を上げ、极光と視線を交わした。

「仲良く、とくるか」

「違うんですか?」

「……いや、まあ多少友好的な関係にはなった……かな。どう?」

 朝暉がうっすらと微笑むと、极光は困ったような笑顔を浮かべた。少なくとも敵意は何処にも見当たらない。ほっとする半面、何とも言えない感情が梓海の心へ広がっていく。どういう気持ちなのか突き止める前に、朝暉が話し始めたので、"良い気持ちじゃない何か"を探り当てる前にすべてが有耶無耶になって、梓海はほっとした。

「話をしたんだよ。おれが此処に来た経緯とか、まあ洗いざらいね」

「洗いざらいって……まさか、私のお願いも?」

「ああ勿論。っつーか、それがあったから极光も許してくれたって感じかな」

 ――そんな。

 王になってほしいだなんて願い、どう考えても月家に代々仕えている(クェイ)家の极光に知られるべきではない。母上に伝わったら一大事だ。怒られる程度ではすまないだろう。どうして明かしてしまったんだ、と朝暉を責めそうになる梓海に、こなたは満面の笑みを浮かべる。

「あんたからの"友達になってほしい"っていうお願い、このままじゃお釈迦(しゃか)になるところだったからな」

「とも――だち……?」

 友達。

 私が、朝暉と、友達。

 すぐに极光を丸め込むための嘘だと分かったけれど、不思議と嘘、とは言いたくない自分が生まれているのに、梓海は困惑する。


 友達。

 生まれてこのかた、友達などただの一人も出来たことがなかった。

 极光を含めた僅かな従者と帝である母のほかに、梓海と顔を合わせるものは居ない。腹違いのきょうだいも居るが、遠目で見たきり随分会っていないし、話したこともない。

 増して、同い年くらいの子どもなど、宮殿にまったくといって居ないのだから、友達などできるはずもなかった。強い術式によって守られている梓海の離れは、強い魔力に満ちている。故に、動物さえも忌避する。庭に稀に降り立つ鳥も、とびきり強い術で守護されている梓海の部屋には立ち寄らない。見向きもしないのだ。


 朝暉と、友達になれたらと思わなかったかと聞かれたら、答えは当然否だった。

 けれど、そんな贅沢なことを願ってもいいのか、願ったところで叶うのか、梓海には分からなかった。なにせ朝暉は梓海よりずっと賢く、明るくて、強いお人だった。梓海にとっては手を伸ばして触れたいほどのひかりであっても、朝暉にとって梓海が必要であるわけがない。ああやって願いを聞いてくれたのも、食事の時の約束があったからってだけだ。こなたが律儀だから、付き合ってくれただけに過ぎない。朝暉に、ただ自分の利益だけを考えて友人になってくれるように頼むだなんて、梓海には出来なかった。

 それは、こなたに王様の役割を求めるよりずっと、梓海にとっては難しいことだった。


「……梓海様が、お寂しそうなのは……知っていたんです」

 ややあって、极光が口を開いた。

「晦日様の(めい)で、食事も湯浴みも、最低限の世話に止めるように仰せつかっており……。そもそも私は、先日までは末端の末端でしたから、こうしてお話しできるような立場でもなくて」

「えっ、そうなんだ?」

 意外、と朝暉が驚くと、极光が笑みを浮かべる。

「ええ。でも、治療の腕を買われ、こうして以前よりはお傍に居られるようになったので、せっかくですからいろいろお話出来たら、と思って声を掛けさせていただいたんです」

「浴室に侵入してくるとは思わなかったな」

「あれは不可抗力です。緊急事態だと思ったので……ですが、朝暉様と梓海様にご無礼を働いたのは事実です。申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げる极光に「顔を上げてください」と慌てて起き上がろうとするけれど、朝暉に両肩を軽く抑えられて動けなくなる。「あんたは寝てろ」と言う朝暉に「でも」と抗議すると、朝暉が「……わかってるよ」とバツが悪そうな表情を浮かべた。

「からかってごめん、极光。悪かったよ。騒がれると困るからって、下手な芝居をうったりして……って、さっきも謝ったけど」

「え、さっきも?」

「ああ。梓海が寝ているあいだにな。おれの出自と、身分を明らかにして、梓海と友達になろうと思ってることを話して、そんで謝った。だからその……梓海から見て"仲良く"見えるんじゃないか?」

 なるほど、そういうことかと納得して、ゆっくりと顔を上げる极光を見る。では、自分が倒れる前のひと悶着は完全に解決したのか。良かった。

「极光。心労を掛けてしまい、すみませんでした。朝暉も、いろいろ迷惑をかけて……」

「いや、おれはむしろ巻き込んだだけだろ。侵入して、飯勝手に食って、風呂に入ったんだぞ」

「私が許可したことですから。あなたを引き留めたのは、私です。だから、私の責任ですよ」

 きっぱりと言い切ると、朝暉が目を見開く。しばらく瞬きもせずに梓海を見つめたあと「へえ」と笑った。

「世間知らずのへなちょこだと思ってたけど、そうでもないみたいだな」

「へな……?」

「朝暉様。言葉が過ぎます!」

 「まあ、なにはともあれ」と朝暉が軽やかに笑った。今日見た中で一番の朗笑(ろうしょう)が、梓海の寝室に響く。掛け布団の上で所在なげな梓海の手に手を重ねて、ぎゅっと握った。

「いい友達になれると思うよ、おれ」

 ああこの人、笑うと(まなじり)が少しだけ上がるんだ。

 ざわざわと心臓が騒ぎ始める。朝暉と会ってからと言うもの、少しだって梓海の心は落ち着かず、振り回されてばかりだ。


 梓海は、凍てついた退屈な日々に突然飛び込んできた嵐を、やり過ごすすべを知らない。

 翻弄され、振り回され、掻き乱されながらただ、豪雨と暴風に晒されるだろう未来が視える。


 けれど。

 きっとこの美しい台風は、見たことのない景色を梓海に見せてくれる――そんな期待が、根拠も無いのに梓海を惹きつけて離さない。傷つくことに怯える心を振り切って、こなたはゆっくりと、あたたかな熱を握り返した。

2021/11/23 執筆

title by alkalism

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