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第一話 手底に灯っては燃える暁

 ――それは神以(しんも)って運命でない。


 誰に聞かれても、朝暉(ちょうき)はそう答えるだろう。

 伸ばされた手が。渡された枇杷が。此方を見つめる空色の瞳が、こなたに向けられたのは、優しさというよりは気まぐれで、哀れみと断ずるには悲しげで、すべてを諦めているように見えたから。掌に落ちた淡い橙に包まれた果実を頬張ると、渇ききった口の中を豊潤な甘さが支配する。余計に喉がちくちくする、と思ったが、耐えがたい空腹よりはましだろうと、種ごと齧って砕いて飲み干した。その様子を、羽衣を身にまとった月のような人がただ、眺めている。

 次に手を差し伸べたのは朝暉のほうだった。ただ此方を見つめるだけで、うんともすんとも言わなかったその人は、少しためらった後、何を思ったか朝暉の掌の上にこなたとは真逆の白魚のような手をのせる。朝暉は一瞬眉を寄せ、首をほんの僅かに横に倒す。

「……何?」

 ひどくガサガサとした声がこなたの喉から発せられる。口の中に蛙でも飼っているのかというほどの、ごろごろと転がるような音を気にする様子もなく、冬空の瞳が歪んだ。怯えるようにひっこめられそうになる手首を反射的に掴むと、はっきりと表情に怯えが浮かぶのが見て取れる。怖がらせるのは本意ではないが、此処で窓を閉められては困る。もっと枇杷が欲しい。

 いや、正しくは枇杷でもなんでも、食べられるものであればなんでも良いのだが。

「だから、何?」

「何って……」

「どうして手置いたのかって聞いてんの」

 流石にぶっきらぼうすぎたか、と朝暉は心配になったが、その人はこなたを見て、やはり悲しそうにするだけだった。哀れみの含まれない悲しみは、自分に向いた憂いではない。

 ということは――と、朝暉は自分のより幾分か大きい手を見る。

 白いが、血管が良く見える健康的な腕だ。朝暉のよりもずっと太く、年相応の柔らかみを持っている。一着しか服を持っていないこなたとは異なり、その人の装いは美しい。繊細な刺繍が施された薄い羽衣は、藤を溶かしたような高貴な色に染められているし、よく手入れのされた、ほんのり満月の色をした長髪は、銀細工で出来た咱夫藍(サフラン)の簪で綺麗に纏められ、その流れるような艶のある髪をより一層美しく魅せている。

 この季節にしては珍しい枇杷は、遠く南のほうでしか採れない貴重種であった。貴族が買うにしても、おいそれと手が伸びる額ではない代物だ。紛れもなく皇族だろう。

 かく言う朝暉も、この四雲を統べる()家の生まれなのだが……それは置いておいて。


 皇族――そして容姿を見る限り、帝の直系または傍系。朝暉と歳の近い子どもとなると、候補はふたりに絞られる。どちらも朝暉と同じ、性別の定まっていない"こなた"。名前はたしか、なんといったか……と考えながら、脳味噌の反対側で、こんなにもすべてを手にしているように見える子どもでも"幸せ"とほど遠い所に居るなんて、と朝暉は嘆息する。哀れみの含まれない悲しみは、こなたに向けられた憂いではなく、目の前にいる自身に向けられた絶望だ。朝暉と同様に――と、雑に一緒くたにするのも良くないだろうが、その人はまさしく諦めていた。


 困った、とでも言うように下がった眉が。

 何度も作り上げて来たであろう、大人びた不格好な笑みが。

 震える声が、すべてを物語っていた。


 立っているのが不思議なくらいに、その人は疲弊し、落胆し、きっと諦観(ていかん)していた。少なくとも、朝暉にはそう見えた。


「連れ出してくれるのかと、思って」


 そしてそれは間違いではないのだと、風に紛れて消えそうな掠れ声がただ孤独な答え合わせをして。

 ――今度こそ本当に、消えてしまった。


◆ ◇ ◆ ◇


 手を離すのは容易かった。きっとそうしても誰も咎めなかっただろうけれど、朝暉には出来なかった。自分にとってこの白魚の手が救いの掌であるのを知っていたし、自身の、骨に類似した指先がその人の希望だと知ってしまったからであった。そしてそれは、同情でもあっただろうと思う。美しく、みずみずしい花のような人は、一見綺麗に咲き誇っているように見えて、枯れるのを静かに待っている寂しさを持っていた。

 花は美しい。けれども、水を与える誰かが居なければただ、空しく燃え尽きるだけ。

 朝暉は深いため息をついて、少しだけ噎せる。怯えるように力なく目を伏せるその人を無視して、窓枠に片手を添えると、ひらりと身体を翻す。

 ぎょっとする空色の瞳に、けれども希望の灯が灯るのを朝暉は見過ごさなかった。

 ふたつ横並びになっている切台盤(きりだいばん)に、豪勢な食事で彩られた(さら)が所狭しと載せられている。どれも少し手を付けただけで、ちっとも減っている様子はない。先ほど朝暉に差し出された枇杷が、もうひとつ(さら)に載っているのを見、畳に腰を下ろす。繋いだままの手を引っ張ると、細い身体が体勢を崩し、朝暉に圧し掛かって来た。

 咄嗟に受け止めると、呼吸が届きそうなくらい近くに、柔らかい桜色の唇が見える。恥じらうように視線を逸らされ、朝暉はその目線を追い顔をずらす。また、ずらされる。幾度か戯れを繰り返し、先に諦めたのは朝暉だった。

 相当な恥ずかしがり屋か、もしくは朝暉の体臭がきついかの二択だな、とこなたは笑った。

 そういえば、数日前湯殿に忍び込んだきり、髪も肌も清めていない。広い大浴場は貴族向けに四六時中解放されているから、誰かに見つかる可能性も大きい。子どもひとりで彷徨(うろつ)くのはあまりに危険が多いし、母親――正しくは乳母だが――とは身分の違いから訪れるのは不可能だ。であれば父の弟である叔父に頼めば良いのだが、それは最も有り得ない選択だった。いくら五歳の朝暉でも、こなたを餓死寸前まで追い詰め続け、身分に相応しい暮らしを奪っている張本人の元へ行って、風呂へ行こうと誘うほど愚鈍ではない。父は朝暉に無関心で、祀り事にしか興味がないし――ああ、考えれば考えるほど、面倒だ、と朝暉は身体の後ろに手を突いて、黙ったままのその人に「なあ」と話しかける。

「流石に重いからどいて欲しい」

「あ……す、すみません」

 そうだった、と思い出したかのように身体を起こす。柔らかい檸檬色を纏った透き通る髪がさらりと揺れた。なんだったかな、この匂い、と考えている朝暉からその人が離れ、ずっと繋いでいた手を引っ込めようとして、辞める。揺れる瞳は惑う星のようだった。朝暉から離せばよかったのだけれど、やはりしなかった。

「おれ、……朝暉。あんたは?」

 ()家と帝の家――(ユエ)家の関係を思うと、容易く姓を名乗るわけにもいかないが、宮殿に住まうのを許された子どもは少ない。言わずとも身分が暴かれるのは時間の問題だろう。けれど、わざわざ自分からつまびらかにする必要もない。朝暉の名前を、心の中で繰り返すかのように、その人は「ちょうき」と静かに唇を動かす。声の伴わない言霊が、ふたりきりのだだ広い空間に転がっていく。

「私は、梓海(ズーハイ)、と言います」

 ――梓海。思い出した、と朝暉は膝を打つ。

 帝の嫡子の名だ。傍系はたしか……芽桜(ヤ―イン)といっただろうか。梓海と朝暉は同い年、芽桜はひとつかふたつ上だった気がする。朝暉は、より厄介な札を引いたかもしれないな、と思いつつ、まあいいだろうと思い直す。親が誰であれ、子には関係ない。朝暉も王とは無関係だし、梓海も帝の子というだけで、帝ではないのだから。

「じゃあ梓海。あんたの願いをひとつ聞く」

「えっ……」

「その代わり、おれの望みをかなえてくれない?」

 手を握りなおし、微笑む朝暉に、力なく梓海が笑う。諦観の瞳が、今度は揺れずに朝暉と見合っていた。

「無理です。私は……私に、出来ることなんて、何も」

「そうかな? あんたはおれを救えるよ、梓海」

 ただ"これ"を一緒に食べてくれればそれだけで、と朝暉が指をさす。あわびの汁物に、サザエのつぼ焼き。金目鯛の煮つけと山菜の天ぷら。ましろの米は術式が掛けられているのか、冷めることなく絶えず穏やかな湯気を出している。山芋を擦りおろしたものを見ると、ぐう、とお腹が鳴った。

「お腹が……空いてるんですか?」

 見ればわかるだろうと思ったけれど、梓海に悪気はないようだった。きっと梓海は飢えたことが無いのだろう。勿論、そんな経験ないほうがいいのだが。

 朝暉は純粋になるほどと思った。自分よりはるかに汚くやせ細った子を見ても、梓海の目には、"醜い可哀想な孤児"には映らないらしかった。枇杷をくれたのも、朝暉が餓死しそうだったからではなく、食べきれないものを差し入れてくれただけなのだろう。この子どもは自分と同じ存在として朝暉を見ている。先入観もなにもなく、ただ自身の不自由のみを悲しんでいるだけ。

 ああ、なんて、と思う。

 目を細めて、「私はお腹がいっぱいなので、どうぞ」と箸を渡してくれる梓海を見る。

 なんて――純粋。


 数日ぶりの食事に有りつきながら、朝暉は考える。こんなにも純粋で、か弱い子どもが、欲望と陰謀が渦巻く王宮で生きていくのは至難の業のように思えた。朝暉の父とは違い、帝がやすやすと自分の嫡子を見殺しにするとは思えないが、月家の跡取りというだけで梓海を陥落しようとする大人など山のようにいるはずだ。それ故の半幽閉なのかもしれないが、と朝暉は自分が入って来た円窓を見やる。窓枠の傍に、普通の人間には"視えない"術札がおびただしい数貼られてある。外からの侵入を阻み、内からの脱出を防ぐ術式。都一番の術師である帝――晦日(つごもり)にしか編めない繊細で強力な札だ。……もっとも、朝暉には効かないわけだが。

 サザエの肝を噛み潰し、口の中に広がった豊潤な苦みに噎せると、梓海がそっと金箔の浮かぶ水を差しだしてくれる。少々もったいない気持ちになりながらも、一気に飲み干す。

 この金箔、術式がかけられた"砂糖"か。

 ざらりと舌を撫でた途端、はじけて"甘み"へと変わった金箔を味わっていると「……美味しいですか?」と梓海がおずおずと呟く。

「うん。めっちゃウマい」

「めっ……ちゃ?」

 そう、めっちゃ、と笑えば、梓海が釣られて朗らかに笑った。なんだ、笑えるんじゃねぇか、と心の中で呟きながら、繋いだままの手を握りなおす。


 帝の嫡子と傍系はどちらも、次期王の資格――"空水晶"を持っている。

 朝暉の人生を狂わせた厄災であり、今日この日まで生き永らえた御守りでもある天からの贈り物(プレゼント)。一度として"欲しい"などと願った覚えはないけれど、この祝詞(のりと)は四雲国を統べる天啓に相違ない。


 山菜の天ぷらにとろりとした極上の醤油をかけながら、朝暉は自分の背に意識を向ける。いつかあの王の座をかけて、蒼穹の瞳とかち合う日が来るのだろうか。ぼんやり、起こり得る悲劇を楽観的に描きながら、雲のように柔らかなころもを健康的な歯で食い破り、アクがしっかり抜かれた蕗を頬張り続けていた。

2021/07/10 執筆

title by alkalism

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