私の加護は水を出せるだけでした。
チョロロロロ…。
「え?これは…」
私が渾身の願いを込めて出した物は、透明で澄んだ水だった。
◇◇◇◇
ルディア・グノース。グノース侯爵家に生まれて15年。宰相である父からは愛された記憶はない。
母は私を産んだ時に儚くなり、父はすぐに迎えた後妻である義母と5つ下の異母弟だけ愛している。
ひんやりとした空気の中、私を大切に育ててくれたのは乳母のマーサや使用人達だった。
幼い子供の頃、マーサから貰った絵本にはキラキラとした聖女様が勇者様と力を合わせ世界を救っていた。
「ねぇマーサ」
「何でしょう?ルディアお嬢様」
「この絵本の聖女様になったらお父様も嬉しいかな?」
「…そうだと…宜しいですねえ」
歯切れの悪いマーサに気が付かず、子供心に聖女様になれば父も喜んでくれると勝手に思った。
父は私に全く興味も愛情も持ち合わせていなかったが、体面や世間体で他の貴族よりも劣ることをけして許さなかった。
今日は教会でステータスと生まれ持った加護の認定日。侯爵家の娘である私なら聖女なのではと期待を込めて今日に望んだ。本来ならば親が付き添うものなのに父は仕事で忙しいと言う。
もし聖女であれば父が私を見て下さるかもしれない。心からの願いを込め司祭様と付き人として来てくれたマーサが見守る中、魔力を練りあげ具現化する。
チョロロロロ…。
「え?これは…」
「水でございますね…」
緊張した空気が緩み、残念そうに私を見る司祭様と驚いた様子のマーサ。現れた加護は、なんの変哲も無いただ水を生成するだけだった。
「も、もう一度試させて下さい」
「どうぞ」
チョロロロロ。
「もう一度!」
「もう一度!」
痛ましそうに私を見る司祭様とマーサの顔。
結局、何度やっても水しか出せなかった。とうとう出し過ぎて魔力が枯渇してしまいその場に私は絶望とともに倒れこんだ。
「ルディア、水しか出せなかったというのは本当か?」
「…はい。お父様」
「そうか、もう下がっていいぞ」
いつもの様に俯き、そっと父の執務室から下がる。
人知れずため息を零す。これでもう父の関心も期待も永遠に私に向かない。私のステータスは特上クラスなだけに、加護の水生成が致命的だったようだ。
この世界はステータスも重要なのだが、それ以上に加護が重視される世界だ。
部屋に戻り、ボンヤリとベッドに腰掛けサイドテーブルにある水差しとグラスを手に取る。
チョロロロロ。
並々とグラスに注がれている水を見つめて一気に飲んだ。水はやっぱり水だった。
その日の夜、私は不思議な夢を見た。
◇◇◇◇
私はどこかのっぺりとした顔の女になっていた、狭い部屋の中のベッドの上でごろりと横になり、薄く綺麗な紙で出来た架空の恋愛の書物を読んでいる。
『…召喚された先には美しい男性が立っていた。彼は自身を王子だと告げ、私を見つめ真摯に謝罪をしてきた。私は彼に惹かれる自分の気持ちに戸惑ってしまう…』
パラリとページが捲られる。
『…王子である彼にルディア様という婚約者がいたなんて!胸が張り裂けるように痛い。私は気がついてしまった、彼に恋していると…』
え?私の名前?激しく嫌な動悸がして、私は飛び起きた。夢にしては余りにも生々しい。
胸に手を当てて動悸が治まるのを待つ間に空は明けて日の光が差し込んできた。
柔らかな朝日を浴びる中、私はただ静かに泣いていた。もう父から省みられる事はないと残酷な現実と向き合った。
父からの愛情を諦めると、空っぽの私は不思議と体と心の繋がりが希薄になる。薄く薄く空気よりも薄く。
その日の夜も私は自分で出した水を飲んで眠りについた。
◇◇◇◇
『…王子の婚約者であるルディア様が私の後ろに立っていた。トンと背中を押され私は…』
パラリとページを捲る。
「なにこれ、怖っ」
小腹が空いたから、起き上がり冷蔵庫からプリンを取り出して食べながら続きを読む。トロリとした食感とカラメルソースのほろ苦さ。
「この悪役令嬢めっちゃ病んでるわ。父親から疎まれていたからって婚約者にのめり込むとかありえんわ、キモい」
飛び起きた。
嫌な汗が背中を伝って気持ち悪い。
今日も夢の中で書物を読む女性になっていた。頭が混乱してる。キモいって何?病んでるって?悪役令嬢って私が?私は架空の人物なの?なんなのこれ、生々しい夢と現実が混ざり合う。
ギクリと体を強張らせた、私の布団を握りしめた右手には夢の中でぷりんと言う食べ物をすくっていたスプーンが握られている。
「ひっ!」
咄嗟に投げ捨ててしまった。
あれは夢じゃないの?
怖い、理解できない事はとても恐ろしい。
でも同時に夢の中の言葉に怒りも感じていた。意味は分からないけれど、何か非難されているのだけは伝わってきたからだ。
この日の夜、水を飲まなかったからなのか奇妙な夢は見なかった。
あれから水は飲まず、夢も見ないのに数日経っても、あの夢の中の言葉が胸に刺さってモヤモヤしていた。
そっとチェストの奥にしまい込んだスプーンを取り出す、銀でも鉄でもない軽い金属で出来ている不思議なスプーン。
その日、珍しく父に呼び出された。
「ルディア、お前の婚約者が決まった。アルス第2王子殿下だ」
「…王子殿下」
とうとう夢は正夢になり、私の現実を侵食して体が震える。
「明日より妃教育の為、王宮に部屋を頂けるそうだ。光栄に思い真摯に励むように。けして我が家に恥をかかせることはないようにな」
「……はい」
父のその言葉に今まで堪えてきた気持ちが膨れ上がった。
王宮に部屋?真摯に?今までこれ以上無いくらいにやってきた。恥?私は恥になりうると思っていらっしゃるの?
父にとっての私なんて、それだけの物なんだ。これっぽっちも私の気持ちを考える事もなく、今までの行いなんて関係ない。
「話はそれだけだ。下がりなさい」
「……」
そっと手に隠し持っていたスプーンを握り直す。
『父親から疎まれていたからって…』
胸に刺さるあの言葉。
すっと顔を上げて初めて父の目を見る。初めて目線があった事に父が驚いている。
「今までお世話になりましたグノース侯爵様。これにて失礼致します」
「なっ!父に向かって何だ。その口のきき方は!」
「私を疎んでいるから、王家からお部屋を頂きこの家から追い出すのでしょう?私と1度でも食事をした事がございますか?私が母の子供だから憎いのですか?
お義母様達と水入らずの中、母の血筋である私はさぞ目障りでしたしょうね。良かったですね、これで満足ですか?」
これでもかと目を見開き、真っ青になる父を残してさっさと部屋を出た。父に言いたい事を言って本当に心の底からスッキリした。
私何を怖がっていたんだろう。
その夜、久しぶりに水を飲み眠りについた。
◇◇◇◇
「おっかしいな、お気に入りのスプーンどこ行ったんだろ。まぁいっか続き読むか」
『…グノース侯爵令嬢と婚約破棄をする!我が愛する人を階段から突き落とす、その卑劣な者が国母になど相応しい訳がない!…』
ゆっくりと私は目を開ける。
手には夢の中の女性が読んでいた書物をしっかりと握り締めている。
良かった。不思議な夢の中の書物を持ってこられた。ほっとため息をつく。どうしても、この書物の内容をちゃんと知りたかったからだ。
あの世界が何なのか、私がいくら考えたって答えはでなかった。きっと私では分からない事なのだ。
それよりもこの書物には私の未来が書かれていると確信している。それをこの目で確認したい。握りしめた書物を改めて見る。
そして私は恐る恐る読み始めた。
◇◇◇◇
「アルス・マグナラーンだ」
「ルディア・グノースでございます」
一気に読み上げた書物には今から5年後に私は婚約破棄され北の修道院へ送られると書かれていた。不思議な事にマーサに見せてもくねくねとした文字としか認識されなかった。
出掛けに、急ぎマーサに用意して貰ったアイテムはきちんと服の中に隠し持っている。
もし5年後に婚約破棄されるのならば、今でもいいはずだ。
「恐れながら…」
「何だい?」
同じ年齢のアルス王子殿下を見上げた。部屋には私と殿下、壁には側近と護衛が控えている。父は陛下と話があると言ってさっさと退室してしまった。
「殿下は私の加護が水しか出せないとご存知ですか?」
私の発言に、部屋にいた人間が固まった。
「…いや?初耳だ」
「父が故意に隠していたのだと思います。こんなささやかな加護ではご立派な殿下に見合うわけもなく、この婚約自体を見直して頂けないでしょうか?」
一気に言い切ってアルス殿下を真っ直ぐに見つめる。書物に書かれていた通りだとひとり納得する。王家特有の青みがかった金の髪に晴れ渡った空の様なスカイブルーの瞳。今はまだ美しく整った美少年だが、5年後憎しみに燃えて私を断罪するのだ。
「それは…婚約を白紙にしろと言っているのかな?」
「はい」
ここは正念場だ、絶対に目は逸らさない。
「これは王家と侯爵家の婚約だ。私の一存でどうにか出来るとは思わないで欲しい。…それでも父上には伝えておこう」
「ありがとうございます」
深々とアルス殿下に礼をする。ここで思わぬ言質が取れて私は心から喜んだ。
ふと気づけばアルス殿下は、ほんのりお顔が赤くなり固まっている。
「あの…?」
「な、何でもない。王宮に部屋を用意した。案内する。父上に伝えるにしても直ぐにとはいかないだろうから、それまでゆっくりして欲しい」
「ありがとうございます。それでは、殿下はお忙しいでしょうから。何方かに案内して頂け…」
「アルスと」
「…アルス殿下?」
「アルスと」
「アルス様?」
「まぁ、それでもいいか。ルディと呼んでも?」
「はい。アルス様…」
その途端、私は美少年から輝く笑みを向けられ固まってしまった。笑顔は心臓に悪いと初めて知る。真っ赤になっている私をエスコートするアルス殿下は物凄く上機嫌だった。
こんなに素敵な人なのに、5年後の事を思うと胸の奥がチクリとする。
案内された部屋は、壁は白を基調としてアクセントに小さな桃色の花を散りばめられ、とても可愛らしく優しい雰囲気で一目見て気に入った。少しだけ滞在するのが勿体無いくらいだ。
「凄く素敵なお部屋!」
「気に入って貰えて何よりだよ」
「アルス様、ありがとうございます」
「紹介する、ルディの侍女として仕えるサマンサとハンナだ。困った事があったら遠慮なく伝えて欲しい」
「ルディア・グノースです。サマンサにハンナ、お二人を頼りにします。宜しく」
「「畏まりました!」」
彼女達を紹介してもらっているのに、アルス殿下との距離が近くて、緊張と照れでおかしくなりそうだ。
結局、アルス殿下から陛下に私の加護が伝えられた筈なのに、私と殿下の婚約は白紙にはならなかった。やっぱりあの書物の通りになってしまうのだろうか。不安に心が揺れる。
この1ヶ月は慌ただしく過ぎ去り、王宮の雰囲気に慣れるだけで精一杯で、きめ細やかなサマンサとハンナのサポートにかなり助けられた。
妃教育は順調すぎるくらいで、夕暮れ前にアルス殿下がやって来て、王宮の庭園に連れ出される毎日だ。
「少しは慣れただろうか?」
「はい、アルス様。皆から良くして貰っています」
「それは良かった」
アルス殿下が白薔薇を1輪摘みトゲを取り私の髪に添えてくれる。
「美しいな…」
素で私を賞賛するのだ、この人は。真っ直ぐな殿下にどうしようもなく惹かれてしまう。好きになってはいけないのに心が止まらない。
部屋に戻り頂いた薔薇を花瓶に活け、加護の水を与えながらふと思ってしまった。
お側に居られる間だけ、殿下を独占しても許されるだろうか?この気持ちは砕かれると分かっているなら、一生分の思い出を作ってもいいだろうか。
殿下の気持ちが消え去る事に怯えるよりも、その過程を一生懸命に愛せたらそれだけで幸せなのではないだろうか。
きっとボロボロに傷つく筈だ。立ち上がれない程ダメージを受けると思う。それが分かっていても、この初めての気持ちを誤魔化す事は不可能だ。
アルス様との時間を大切にすると私は腹を括った。
◇◇◇◇
「は?どういうことよ!
魔王が蘇り、王が禁忌の召喚を断行してしまったって、ここまではラノベの通りなのに!目の前に居るのは、シワシワの爺さんってどういう事よ!」
「聖女様。私はアルス、この国の王弟であります。いきなり召喚して、お怒り混乱されている事でしょう。誠に申し訳ない」
「そうじゃなくて!何でアルス王子は若くないのよ!」
「わ、若くないですか?」
「そうよ!ラノベだと、あんたが20歳の頃の話なのに」
「そう仰られても…禁忌の召喚を行った王が倒れ伏したので、私が代わりに急いで謝罪に…」
「もういいわ!若いイケメン寄越してよ!何なの全く。話と全然違うじゃん。ていうか帰れるの?私!!」
アルス様が心配で蔭から覗いてしまったけれど、心配する事もなさそうだ。懐かしい顔をした女性が騒いでいるけれど、夢の中とこちらの時間軸はどうやら違っていたらしい。
あの口調や雰囲気から彼女はあの書物の持ち主だった気がするが、なにせ遥か昔の事だ、顔すら朧気だ。
5年が過ぎても召喚の気配もなく、熱烈なアルス様の愛を一身に受け結婚し、娘にも恵まれ孫もいる、そんな50年目の今日聖女様が召喚された。
何故か王家には女子が続いていて、聖女様に合う妙齢の王族男子となると居ないのが現状だ。
聖女様には悪いがシワシワでも愛しい旦那様は渡すつもりは全くない。後で借りていたスプーンと書物をお返ししよう。
水しか出せない加護だったけれど、私にとって人生を変えてくれた大切な加護だ。
感謝してもしきれない。