1 すっぽかされた男
敬虔にて厳かな教会の控えの間で、礼服である白い軍服に身を包んだ大柄な男が長椅子に腕を組んで座り、眼前で平伏する中年の夫婦を冷ややかな視線で見下ろしている。
長椅子の後ろの窓は開け放たれており、見える初夏の清々しい青空とそよぐ風に揺れるレースのカーテンとが相まってのどかで心地よい風景なのに、背後から射し込む陽の光が逆光となり、影に塗りつぶされた男をこれ以上ないくらい恐ろし気に演出してしまっている。
「…して、ワーデル伯爵。アリアルーチェ嬢は今どこに?」
腹の底に響く重厚感のある声が、静かな部屋に発せられる。
もう間もなく結婚式が始まる刻限だというのに新婦が現れないことに疑問を抱いた新郎が、状況を訊ねるべく相手の両親を呼び出すと、彼らは血の気の引いた真っ青な顔でびくびくしながら控えの間へとやってきた———途端、新婦の父親であるワーデル伯爵がガバリと膝をついて男に頭を下げた。
「も、申し訳ない! 娘の…アリアの所在は今家人を総動員して懸命に探しております故、もう少々お待ちいただきたい!」
「探す?」
太い眉がピクリと動く。心の中までも見通されそうなサファイアの瞳が眇められ、ワーデル夫婦を絶対零度の視線が射抜く。
「探すとはどういうことでしょう? もしや事件に巻き込まれ、勾引かされたと?」
ならばすぐにでも捜索隊の派遣を…と続けると、ワーデル伯爵は焦ったようにブルブルと首を横に振り、事件ではないと否定した。
「じ、実は…つい先ほど家の者がここ、これを届けに参りました。なんでも、む、娘の部屋にあったと…」
もういい加減邸を出ないと結婚式に間に合わないのに、いつまでたっても部屋から出てこないアリアルーチェをおかしく思い、家令が合鍵でドアを開けたところ、部屋の中はもぬけの殻だったそうだ。
そして机の上には、両親に当てた一通の手紙が残されていたという。
『お父様、お母様、ごめんなさい。実はわたくし、お慕いしている方がいるのです。なのでオルフェンス様とは結婚できません。婚約を解消してくださらない限り家には戻らないわ。どうかわたくしの我儘をお聞き届けくださいませ。 ———アリアルーチェ———』
「……」
震える手で差し出された手紙を読んだ男は、眉間に幾筋ものシワを刻むと、表情に反して丁寧な手つきで手紙を封筒に戻し、ワーデル伯爵へ返した。
「わた、私たち夫婦は式に参列する親類を迎えに行くため、今朝は先に邸を出たのだが、そ、その時はいつも通りだったので、まさか…まさか姿を晦ませるなど露程も考えておらず。少し一人にしてほしいとの言葉に従い、メイドたちも席を外したと———」
「…ではその慕う相手とやらの元へ行ったと?」
視線は更に鋭くなり、声も一段と低くなった。僅かな変化にますます機嫌を損ねてしまったことを察したワーデル伯爵は、慌てて首を左右に振って弁解した。
「いいいいいえっ、そのようなことはないはず! 娘はオルフェンス卿との縁談話が来たときは、それはそれは喜んで、今日のこの日をとても待ち遠しく———」
「ならばなぜ、ここにいない?」
結局どんなに弁明しようとも、アリアルーチェの姿がない現状がすべてを物語っている。
何の反論もできなくなったワーデル伯爵に見切りをつけた男は、肺が空になるほどの深い溜息を吐きだすと、徐に長椅子から立ち上がった。
「オ、オオルフェンス卿…どどどどちらへ?」
おそるおそる訊ねたワーデル伯爵に、オルフェンスと呼ばれた男は横目に視線を向けたが、すぐに身を翻しドアへと向かった。
「卿…っ!」
「これ以上ここで時間を無駄にするわけにはいかないので。式は中止だと教会に報せねばならぬし、参列者にも詫びて帰っていただくしかなかろう」
男にしたら自身に非はないというのに、とんだ赤っ恥である。しかし自分たちのためにわざわざ来てくれた人々を蔑ろにするわけにもいかないので、底辺までダダ下がった気分を携えて、あえて笑い者になるために男は式場へと向かった。
ゴツリ…ゴツリ…と鳴る重い靴音は、その巨躯のせいばかりではないだろう。
参列者の中には職場の同僚も数名いる。明日から暫く憐れみと嘲笑の目を向けられるのかと想像し、男は再びうんざりと嘆息した。
シュナイダー・オルフェンス。侯爵家の嫡男でありながら、ドラゴンを斃した経験もある、若く勇ましい将軍職に就く二十九歳。彼はこの日、”ドラゴンスレイヤー”の通り名のほかに、”婚約者に逃げられた男”とのありがたくない称号を与えられる———―――はずだった。だが散々恥をかいた後、この先の人生に大きく影響するほどの運命の出会い待っているとは、この時の彼はまだ知らない。