図書室に隠された謎
あの日の夕立がなければ、図書室に隠された秘密を私が知ることは一生なかっただろう。それでもきっと同じように一学期の終業式を迎え、夏休みを過ごし、春には進級したのかもしれない。ただ、名探偵にはなりそこねたけれども、これだけは言える。十四歳の夏、私の中の何かが変わった。そしてあの雨の日の放課後、久しぶりに図書室に足を向けた時、不可解な事件へのカウントダウンは既に始まっていた。
放課後の急な雨は好きだ。雨宿りを口実に、堂々と図書室に行けるから。
熱気のこもった廊下から一歩図書室に入ると、嘘のように空気が冷たく心地良い。あたりを見回し、同級生がいないことを確認してから肩の力を抜いた。できれば見つかりたくない。ただでさえ真面目でつまらない根暗女だと思われているのに、また図書室に出入りしていることが広まったら、今度こそ誰にも話しかけてもらえなくなってしまう。
本棚の間の狭い通路を歩き始めた。さて、雨が止むまで何を読もう。窓の向こうではひまわりが折れそうなほど雨風が吹き荒れているのに、ここはまるで森の中にいるような錯覚に陥るほど静かだ。何百冊もある蔵書のページ一枚一枚が元は木だったことを思うと、確かにここは森かもしれない、と恥ずかしくてとても口には出せないようなことを考えながら歩いていると、目の前に本が一冊落ちてきた。図書室の棚には仕切りがないから、本を戻す時に反対側の本を気付かずに押し出してしまうことがある。落ちたのは名探偵ホームズの『緋色の研究』だった。
拾い上げて、何か紙が挟まっていることに気付く。お世辞にも達筆とは言えない字で《親愛なるワトソン君への挑戦状》と書かれていた。思わず読み進める。
《やあ、ワトソン君。暇を持てあましている君のために、ちょっとした暗号を考えてみたよ。初歩的なパズルだから、タイムリミットは二十四時間。
名探偵諸君、体育の時間だ。一列に並んでくれたまえ。
ホームズは十二番目
ミス・マープルは六番目
金田一耕助は両手を腰に当てる
ポアロは二番、十一番
ルパンは八番、五番、最後は腰に両手を当てる
HINTは「ワトソンにあって、ホームズにないもの」。これがわからなければ、出直しておいで。この暗号に隠されたメッセージに一刻でも早く気付いてもらえることを、心から願っているよ。それじゃあ、また学校で》
両隣の本棚を覗いた。誰もいない。奥の閲覧コーナーではいつも通り受験生が長机のあちこちに課題のプリントを広げて、合間を縫うようにして一年が肩を縮めて小説を読んでいる。私の方を見ている人はいなかった。とすれば、暗号が隠された本が何かの拍子に落ちてきたとしか思えない。まるで推理小説の登場人物になったようで、胸が高鳴った。雨が降り続いている間だけでも、ワトソンになりきって謎解きに挑戦してもいいかもしれない。
暗号解読に取り組んで、わかったことが一つある。どうやら自分には探偵の才能はないらしい。『緋色の研究』を読んで、ワトソンには協調性があってホームズにはなさそうだとわかったけれども、正解に近付いた気はまったくしない。
とうとう最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。メッセージを「ジョン・H・ワトソン医学博士の回顧録より復刻」と書かれたページに戻して、図書委員に貸出処理してもらうためにカウンターに向かった。『緋色の研究』を渡しながらクラスと名前を言いかけると、本を受け取った図書委員の先輩に途中でさえぎられる。
「瀬川ふみちゃんだよね」
男の先輩に知り合いはいない。私がよほど驚いた表情をしていたのか、その先輩はいたずらっぽく笑って横の張り紙を指差した。そこには《ハヤミ賞(多読賞)受賞者 一年二組 瀬川ふみ 七十六冊》と書かれている。
顔がじわりと熱くなるのを抑えきれず、うつむいた。年度終わりの終業式、図書室は年間で最も多く本を借りた人を全校生徒の前で発表する。去年あんな賞をもらったばっかりに「本がお友達の暗い子」とレッテルを貼られてしまった。
先輩が何も言わないので、おそるおそる顔を上げた。目が合った瞬間、先輩は優しく微笑んだ。考えていることを全て見透かされているようで、今度は違う理由で全身が熱を帯びていく。
「これ、どうしたの?」先輩の手には、私が本の中に戻しておいた暗号の紙があった。
「あ、書いたのは私じゃなくて、もともとこの本に入ってたんです」先輩の伏せられたまつ毛が長くて、見とれた。
「そうなんだ。はい、これで貸出処理完了」と先輩が本を差し出す。受け取ろうとしたら、先輩は手を離さないまま話し続けた。「僕、三年の日樫っていうんだけど、受験生だから当番じゃない日でもよく来てるんだ。もし何かあれば、相談に乗るからね」
なかなか言葉が出ず、何度もうなずいた。「ありがとうございます」
「じゃあ、またここで」と日樫先輩は柔らかく笑った。
翌日の放課後、青く広がる空には雲一つなかった。雨宿りは言い訳に使えないけれども、図書室に行くことに決めた。昨日寝る前に考えても答えがわからなかったので、暗号に名前が出ていた探偵の本を調べてみようと考えていた。暗号の登場人物はホームズを除けばミス・マープル、金田一耕助、ポアロ、ルパンの計四名。探偵一人あたり二冊だけ厳選して読んだとしても、暗号の紙に書かれていた二十四時間のタイムリミットはちっとも守れそうにない。
図書室の扉をくぐる時、貸出カウンターを横目で盗み見た。日樫先輩は今日も当番のようで、カウンターの奥で分厚い参考書に何か書き込んでいた。つい確認してしまった自分が恥ずかしくなり、奥の閲覧コーナーに足早に向かった。鞄を置いて席を確保してから、昨日暗号入りの本を見つけた推理小説の本棚に戻る。
何かが違う、と瞬時に感じた。並べられた本の数が随分減っている。昨日はあったホームズの本が全冊貸し出されているようだった。ミス・マープル、金田一耕助、ポアロ、ルパンの本も残っていない。一方、暗号に名前が載っていなかった明智小五郎の全集は欠けることなく番号順に陳列されている。何だかおかしい。
「どうかしたのか?」本棚の前を通りがかった男の人がこちらを見ていた。知らない先輩だ。内心少しがっかりしていることを申し訳なく思いつつ答えた。「読もうと思っていた本が見つからないんです。昨日の放課後にはあったんですけど、誰かに先を越されちゃったみたいで」
先輩は無言で隣に並び、本棚を見つめた。圧倒されるほど背が高く、図書室で小説を読んでいるよりも校庭で汗を流している方が似合いそうな印象を受けた。
「随分本が少ないな」先輩は驚いたように言った。「昨日から二十冊くらいは減ってそうだ」
そうですね、と曖昧に返事しながら考えた。暗号に関係のありそうな本が全て持ち出されている。そうすると昨日暗号入りの本が目の前に落ちてきたのは偶然ではなかったのかもしれない。私がこの本棚の前を通り過ぎようとしたタイミングで、暗号を考えた人が本棚の逆側からあの本を押し出したのだろうか。
「誰が借りたか、図書委員に確認するか?」
先輩の低い声で我に返る。「あとで知り合いに聞いてみます」
先輩はうなずいてまた歩き出した。私は少し待ってから、本棚に残っている本を一冊ずつ確認し始めた。本棚の隅から隅までくまなく探しても、暗号の続きらしきものは見つけられなかった。
閲覧コーナーの席に戻ろうとして、どきりとした。見慣れない本が鞄の上に置いてある。探していた『怪盗紳士ルパン』だ。カバーに図書室のコードが貼られていないから誰かの私物のようだ。表紙の内側には、短いメッセージが印字された紙が挟まっていた。
《明日起こる不幸な事件を防ぎたければ、下の暗号から犯人を導き出せ。答え合わせは明日午後十二時十五分、図書室にて。
探偵と泥棒の頭を数珠つなぎにして、死を与えよ》
心底ぞっとした。私が席を離れたわずかな隙を見計らって本を置いたということは、この暗号を置いた誰かは今もどこかから私を見ているかもしれない。心拍数が上がる。いても立ってもいられなくて立ち上がった。本も暗号も席に置いたまま、鞄だけ持って逃げるように図書室を出ると、外では入道雲が集まり始めていた。
次の朝、晴れやかな青空を憎たらしく思いながら最低な気分で登校した。あの暗号はいたずらにしても気味が悪すぎる。午後十二時に刻一刻と近付くたび、本なんて拾わなければよかったと後悔した。暗号が書かれた紙に気付いても、すぐ本棚に戻せばよかった。英語の授業で習ったばかりのことわざを思い出して身震いする。「好奇心は猫をも殺す」。
一限、二限、三限、四限と授業が始まっては終わり、とうとう昼休みを知らせるチャイムが鳴った。午後十二時五分。暗号に書かれていた時間まで十分を切ってしまった。お母さんが持たせてくれたお弁当が小刻みに震えていて、自分が緊張していることに気付いた。決着を着けない限りはとても食べられそうにない。震える脚を励まして、図書室に急いだ。今ならまだ間に合うかもしれない。何かいやなことが起きてしまう前に、暗号を書いた人に会って話すことができれば。怖くても、何が起こるかわからずにおびえて待つよりはましだと思った。
図書室の入口は閉まっていた。中からは何も聞こえない。このまま教室に戻ろうか。今戻れば、中で何かが起きていたとしても、巻き込まれずに済むかもしれない。やっぱり戻ろう。そう思った時、扉の向こう側からガラスが割れる音がした。
決心して扉を引き開けた。誰かがうつ伏せに倒れこむ様が目に飛び込む。声を上げることも忘れて、駆け寄った。横顔からすぐに日樫先輩とわかる。意識がないようで、呼びかけても目を開けない。床にはガラスの破片が散乱している。どうして他に誰もいないんだろう。先生を呼ばないと、そう思うのに、口を開けてもひゅうひゅうという音しか出てこない。咳き込んで、やっとの思いで叫んだ。「誰かいませんか」
耳をすましても、何かが弾けるような音しか聞こえない。音がする方向に目を向けた時、割れた窓の外の景色がかげろうのように揺れて見えた。ガラスのすぐ向こうのひまわりが火だるまになっている。ひっ、と短い悲鳴が口をついて出た。ここを早く、早く出ないと、誰か呼ばないと。私一人で火を消さないといけないんだろうか、消火器はどこだろう、見つけたとしても使い方がわからないかもしれない、どうして誰もいないんだろう。図書室の中で燃えているものはまだなさそうだけれど、いつ室内まで火が回るかわからないのに、動けない先輩を置いていくわけにはいかない。
先輩を抱え起こそうとして頭を持ち上げた瞬間、熱く濡れた感触に違和感を覚える。赤黒く染まった自分の手を見て、危うく吐きそうになった。先輩は後頭部から首にかけて血を流していた。
出口を振り返る。長い廊下の先まで相変わらず人影がない。意を決して先輩の横にしゃがみこみ、肩を組むようにして起き上がらせる。重い。どうにか背負うような体勢は取れたけれど、今度は立ち上がることができない。膝立ちのまま、歯を食いしばって二歩、三歩、やっとの思いで前進した。全身の毛穴から汗が吹き出している。暑い。それとも熱いんだろうか。
「助けて」ようやく声が出た。「誰か、先生、誰か、助けて!」
無我夢中で叫びながら、わずかずつでも出口に近付くことに全神経を集中させた。足音が聞こえ、顔を上げる。男の人が廊下を駆けてくる。何かを怒鳴っているようだが、廊下で反響しすぎて聞き取れない。昨日図書室で声をかけてくれた背の高い先輩だった。「瀬川、大丈夫か!」
「火が、火がすぐそこに」私の声はみっともないくらいにか細かった。「日樫先輩が怪我を」
背の高い先輩が目を大きく見開くのが見て取れた。「俺が運ぶ! 先生を呼べ」
私は日樫先輩を床に下ろし、弾かれたように走り出した。空き教室の脇を一目散に駆け抜ける。長い廊下の角で火災警報器の赤く点灯したランプを見つけ、非常ボタンを叩きつけるように押すと、けたたましいベルが大音量で学校中のスピーカーから鳴り響いた。
担ぎ出された日樫先輩は駆けつけた先生たちに担架に乗せられて連れて行かれた。先生たちに逢澤と呼ばれた背の高い先輩と私は上履きのまま校庭に出て、他の生徒から少し離れたところから消火活動を見守った。
「これなら小火のうちに鎮火されそうだ。図書室の外の壁が少し焦げるだけで済むかもしれない」と逢澤先輩は言った。安心させようとしてくれているのかもしれない。事実、いくつもの消火器を向けられてひるんだかのように炎は徐々に大人しくなっていく。その様子を見つめながら、考えた。
この人はいつから私の名前を知っているのだろう。それにどうしてあの時間、図書室前の廊下を通りがかったんだろう。たまたま昼休みの早い時間に図書室に用があったのだろうか。
昨日席に置かれた不気味な暗号についても考えを巡らせる。二十四時間経っても私が解けなかったから、暗号の送り主は火を放ったのだろうか。どうしてよりによって日樫先輩が怪我させられてしまったんだろう。放火現場を目撃した先輩が助けを呼んでしまわないよう、犯人が図書室の窓越しに何か重いものを投げつけたんだろうか。
何かがおかしいと感じ、違和感のもとを探る。暗号には《答え合わせは明日午後十二時十五分、図書室にて》と書かれていた。私が教室から図書室まで移動するのに五分もかかっていない。十二時十分には図書室の扉を開けていたと思う。その時点で暗号を解読できていたか否かは、私以外には誰もわからないはずだ。
それにも関わらず、あの気味悪いメッセージの予告通り《不幸な事件》は起きてしまった。日樫先輩は頭に怪我を負わされてしまい、学校には火が放たれた。被害が図書室の一部だけで済んだのは不幸中の幸いでしかない。もし、あのまま火が燃え広がってしまっていたら。日樫先輩が炎の中、誰にも気付かれずに取り残されてしまっていたら。恐ろしい想像をして身震いしそうになり、そこで気付いた。
それは有り得ない。暗号の送り主はわざわざ時間も場所も指定して、必ず私があの時間にあの場にいるよう仕向けた。そもそも、あの暗号は昨日図書室の閲覧コーナーにいつの間にか置かれていた。ただでさえ利用者が少ない放課後の図書室に部外者がいれば誰でも怪しむ。もちろん、制服を着ていれば別だが。
そうすると、あの暗号と今日の事件は関係ないのだろうか。無関係の事件がメッセージに書かれた十二時十五分にたまたま起きるなんて、そんな偶然があるはずもない。赤い炎から飛び散る火の粉から目をそらさずに考える。最初の暗号が『緋色の研究』という題名の本に隠されていたのも、色を通じてこの火事を暗示していたのだろうか。その次の本は『怪盗ルパン』だったから、もし題名に意味があるのなら、図書室か日樫先輩から何かが盗まれてしまったのだろうか。
《探偵と泥棒の頭を数珠つなぎにして、死を与えよ》
ふいに暗号が解けた。解けたはずなのに、意味がわからない。そんなことをして、いったい何になるのだろう。
隣の逢澤先輩を盗み見ると、目が合った。
「瀬川、頼みがある」射抜かれるような強い視線だった。「これから警察が来る。俺もそうだが、瀬川も色々質問されると思う。暗号のことは、後生だから黙っていてくれないか」
目を離せないまま、うなずいた。
それから間もなく先生たちが鎮火に成功した。救急車が警察や消防隊とともに到着し、校庭に避難した全校生徒に見守られながら、日樫先輩は病院へ搬送されていった。
すすで黒く変色した図書室の壁の下、焦げたひまわりがくすぶっていた。
その夜、私は暗号を前にして考えこんでいた。おととい本棚から落ちてきた一枚目のメッセージだ。
《やあ、ワトソン君。暇を持てあましている君のために、ちょっとした暗号を考えてみたよ。初歩的なパズルだから、タイムリミットは二十四時間。
名探偵諸君、体育の時間だ。一列に並んでくれたまえ。
ホームズは十二番目
ミス・マープルは六番目
金田一耕助は両手を腰に当てる
ポアロは二番、十一番
ルパンは八番、五番、最後は腰に両手を当てる
HINTは「ワトソンにあって、ホームズにないもの」。これがわからなければ、出直しておいで。この暗号に隠されたメッセージに一刻でも早く気付いてもらえることを、心から願っているよ。それじゃあ、また学校で》
何かが引っかかる。昨日の不気味なメッセージと比較して、初日は優しい印象を受けるだけに、「出直しておいで」という言葉が目立っている。出直す?
『緋色の研究』を鞄から取り出し、暗号の紙を見つけたページをもう一度開いた。《第一部 元軍医局 ジョン・H・ワトソン医学博士の回顧録より復刻》と書かれている。ジョン・H・ワトソン。シャーロック・ホームズ。《ワトソンにあってホームズにないもの》は「H」、ミドルネームだ。もう一度暗号を読み直す。もしかすると、《HINT》だけ英語で書かれていること自体がヒントということだろうか。試しに、暗号に出てくる順に探偵の名前をアルファベットで書き出した。
SHERLOCK HOLMES
JANE MARPLE
KINDAICHI KOSUKE
HERCULE POIROT
ARSÈNE LUPIN
これで最後。シャーペンを握り直して、暗号をもう一度だけ睨んだ。
《ホームズは十二番目》が前から十二文字目という意味なら、S-H-E-R-L-O-C-K H-O-L-Mの「M」が答えだ。次は《ミス・マープルは六番目》で、J-A-N-E M-Aの「A」。
《金田一耕助は両手を腰に当てる》で詰まった。落ち着け、と自分に念じる。金田一耕助はこの中で唯一の日本人だから、姓名の順で「金田一 耕助」なのか、他の外国人名に合わせて「コウスケ・キンダイチ」かはわからない。おまけに《両手を腰に当てる》で何番目の文字を選べばいいかわからない。そんな仕草を行う時は……。
「体育だ」と呟いた。暗号は《名探偵諸君、体育の時間だ。一列に並んでくれたまえ》の一文で始まっている。体育の授業で整列する時、「前へならえ」で先頭の人は両手を腰に当てる。先頭の文字なら「金田一 耕助」でも「コウスケ・キンダイチ」でも変わらず「K」だ。
次の《ポアロは二番、十一番》はH-Eの「E」とH-E-R-C-U-L-E P-O-I-Rの「R」。
最後の《ルパンは八番、五番、最後は腰に両手を当てる》はA-R-S-È-N-E L-Uの「U」、A-R-S-È-Nの「N」、先頭文字の「A」。
夕焼けの中、私は二枚目のメッセージを見つめた。日が暮れて部屋がすっかり暗くなってからも、しばらくそこに座り続けていた。
その日は朝から霧雨が降っていた。ニュース沙汰になってしまった事件の関係者として厳重なセキュリティが敷かれているのはわかっていたから、会わせてもらえないかもしれないことは承知していた。それでも「学校の後輩なんです」と何度も言い続けると、夕方には面会を許してもらえた。その頃には傘の周りに水たまりができていた。
三階の角部屋に通され、遠慮がちに御見舞いの花束を差し出すと、日樫先輩は嬉しそうに目を細めて受け取った。
「わざわざ悪いね。ありがとう」
案内してくれた看護師さんが病室の扉を閉めると、部屋の中には私たち二人だけが残された。深呼吸をして、言った。「二つ目の暗号、ようやく解けました」
暗号は《探偵と泥棒の頭を数珠つなぎにして、死を与えよ》。『緋色の研究』の頭の文字は「ひ」。『怪盗紳士ルパン』の頭の文字は「か」。それらを繋げて、「し」を足す。暗号が指し示す犯人は、日樫先輩だった。
「そうか」と答えた先輩の声はどこまでも穏やかだった。何と続ければいいかわからず押し黙っていると、先輩が世間話をするような口調で言った。「おととし図書室のハヤミ賞を獲ったの、僕なんだ」
先輩は静かに溜め息をついた。「だから去年、年下の瀬川さんにとられちゃって、みっともなくて悔しくて、頭がおかしくなるかと思った。読みたくもない本、あんなにたくさん借りたのに」
日樫先輩は窓に向かって、昔話をしよう、と言った。「昔々あるところに、とても頭がいい男の子がいました。親戚で一番、塾で一番、クラスで一番、学年で一番。いつも一番。それは当然のことでした。なぜなら、男の子は誰よりも勉強していたからです」
先輩は淡々と続けた。「小学校はさ、宿題やってこないやつも多いよね。中学一年、二年になっても、テスト直前しか勉強しない人はまだ多い。でも三年になると、受験のためにみんな目の色を変えて勉強するんだ。だから、今まで以上に遊ぶ時間を削っても、寝る時間を削っても、何をどうしたって差がどんどん縮まっていく」
もう削れるものがなくなっちゃったから、一番になれなくても仕方ないって言われるくらい怪我をするしかなかったんだ、と日樫先輩は言った。
「あの雨の日、瀬川さんの借りた本のメッセージを見つけて、僕も暗号を作って解読してもらおうと思ったんだ。制限時間内に謎が解ければ、瀬川さんが僕を止められる。解けなければ」先輩は言葉を切った。少しの沈黙のあと、続けた。「天秤がどっちに傾いても良いかなと思ったから、君に賭けることにしたんだ」
窓の外の雨どいを水が流れ落ちる音だけが病室に響いた。傘を持って立ち上がる。何と言えばいいかわからなかったが、一言だけ絞り出した。「ゆっくり休んでください」
日樫先輩は窓の外を向いたまま、振り返らなかった。
病院を出る途中、待合室で逢澤先輩を見かけた。先輩も私に気付いて挨拶代わりに手を上げる。
ためらいながら声をかけた。「今、ちょっとだけ時間ありますか」
逢澤先輩と病院を出て、病院の軒の下に立った。小雨が降り続いている。「《ワトソン君への挑戦状》を図書室に隠したのは、先輩だったんですね」
先輩はゆっくりと息をはき出した。「なぜわかった」
正直に答えた。「実のところ、たった今まで確証はなかったんです」
先輩は半分拗ねたような、半分感心したような表情をした。「引っかけられたのか、俺は」
まあ、火事の日に校庭で種明かししちゃったようなもんだしな、と先輩は頭をかいた。「そうだ。気まぐれを起こして、本の中に暗号を隠して見つかるように仕向けた。でも色々と想定外のことが起こった。暗号に出てくる探偵の本が全部なくなってておかしいと思ってたら、お前が血相変えて図書室から出て行くのが見えたからさ。悪いとは思ったが、置いていった本とその中の手紙を見ちまった。暗号は俺が仕込んだものと同じで名前の文字を使ったパズルだったから、すぐに解けた。日樫は貸出担当だったから、中の手紙を見つけたんだろうと踏んだ。日樫がお前に止めてほしがってたって、その時点で気付けていればなあ」
先輩は悔しさをにじませた。「俺の暗号に乗っかってあいつも謎解きごっこを始めたのかな、なんて思ってた。まさかあんなに追いつめられていたなんて想像もつかなかった。俺がのんきに構えてたせいで、瀬川に怖い思いさせることになっちまって、申し訳ない」
先輩に深く頭を下げられ、慌てて首を振った。「いえ、助けてもらいましたので。ありがとうございました。それより、どうして暗号を見つけたのが私だったんですか」言い終える前に、気まずそうに顔をそむけられてしまった。
「どうしても知りたいか。いや、こんなことになっちまったし、気になるよな。はあ、こんなこと説明するつもりなかったんだけどなあ」咳払いをして、続けた。「俺、図書室にはちょくちょく行ってるんだが、去年はいつ行っても必ず瀬川を見かけたんだ。なのに今年に入ってから一回も顔を見ないからそれとなく聞いてみたら、学年上がってからは学校自体あまり来てないって言われて。余計なお世話だろうけど、気になってな」
不登校だったんだ、俺も、と逢澤先輩は言った。
「二年前の普段と何も変わらない朝、学ランに袖通して、家を出て、校門に着いた。でも入れなかったんだ。先生に怒鳴られても親に泣かれても、あの教室に戻るよりはましに思えた」
軒先の雨の雫が落ちる音と逢澤先輩の声以外には、世界の音という音が消えたようだった。
「そのうち、近所に住んでるクラスのやつが課題のプリントとかの配布物を家のポストに入れてくれるようになった。その中に『緋色の研究』がある日、ぽんと置かれてた。読む気なんかさらさらなかったけど、うっかり落とした拍子に本の中から手紙が出てきたんだ。内容は、お前が見つけた最初の暗号とまったく一緒だ」
それを読んだらだんだんむかついてきてさ、と苦笑した。
「こんな芝居がかった台詞で挑発してきやがって何様だ、意地でも解いてやる、ってな。引きこもってたから時間も腐るほどあったし、久しぶりにノート出してシャーペン握ったよ。それまで読んだこともなかったホームズもポアロも夢中になって読んだ。それこそやつの思う壺だったわけだけどさ。ようやく暗号が解けたら、今度はいったい誰がこんな凝ったことしたのか気になり始めた。気になって気になって、とうとう鞄背負って、学校行ったよ」
その朝「おはよう、ワトソン君」って声をかけてきたのが早見だった、と逢澤先輩は言った。
「あいつ格好つけたがりで、読む価値のある本はもう全部読んだとか抜かすから、俺は本をかたっぱしから読んでは学校に持って行った。それがやりたくて通ってたようなもんで、気付いたら教室に入るのも大変じゃなくなってた」
どこか遠くで車のクラクションが聞こえる。本で読んだことがある「既視感」という言葉の意味を初めて実感していた。
逢澤先輩はまっすぐ前を見据えて、言った。「二年に上がる直前、早見は飲酒運転のトラックにはねられた。即死だった」
その先は私も知っていた。早見先輩のご両親は読書好きの息子さんの本を全て学校の図書室に寄贈した。毎年開催されていた多読賞は、その年から「ハヤミ賞」に名前が変わった。
私は会ったことのない男の子に思いを馳せた。《この暗号が一刻でも早く解けることを、心から願っているよ。それじゃあ、また学校で》と書いた彼。謎解きごっこを思いつくくらいだから、いたずらっぽかったのだろう。私より一年早く生まれたのに、先に私が十四歳になってしまった。彼はもう永遠に年を取ることができないから。
軒先から雨の雫がこぼれ落ちた。
しばらくして、逢澤先輩は病院を振り返って言った。「早見のやつ、よく言ってたんだ。別に勝たなくてもいいから、負けるな、あきらめるなって。こてんぱんにやられても、歩き続けさえすれば負けにはならないから」
「哲学的ですね。一年生だったのに」
「格好つけたがりだったんだ」と逢澤先輩は目を細めて笑った。
「私もです」と答えた。軒の下を出て、病院を見上げる。三階の角部屋の窓の人影に向かって、人生で一番の大声を張り上げた。「日樫先輩!」
体育祭の応援団のように、背中を反らし、喉が痛くなるほど声を振り絞った。「負けるなあ!」
三階の窓の向こうで、誰かが柔らかく笑った気がした。
いつの間にか雨はずっと弱くなっている。私は傘もささずに走り出した。心配ない。きっとそのうちに晴れるだろう。