約束
こんにちは、 紫雀です。
それは、私がまだ20代前半の時の話だ。
仕事が一段落して昼休憩に入り
職場の自分のデスクの上で
持参したお弁当の包を開けようとしたとき、
「Sさん」
と同僚の田中さんが声をかけてきた。
彼女は私の机に乗ったお弁当の包を見ながら言った。
「今日、私、お弁当持ってきてないから
一緒に食堂に食べに行きましょうよ」
「……えっ、あの今日は」
と言いかけてやめた。
わかっている。彼女はわかっていてそう言ったのだ。
ここ数日の執拗な嫌がらせ。
「わかりました。一緒にいきましょう」
お弁当をしまって財布の入ったカバンをロッカーから取り出した。
「じゃあ約束よ。今から一緒にいこうね。」
エレベーターホールまで来ると
彼女はそう言って自分だけ先にエレベーターに乗り込りこんで
私が入る寸前で扉を閉めてしまった。
「えっ?」
驚いた。
今、一緒に行こうって約束したばかりだ。
それなのに一人だけエレベーターに乗り込んで扉を閉めてしまった。
無情にもエレベーターは上の階へと動き出す。
エレベーターのすぐそばに非常階段があった。
一瞬躊躇したが、エレベーターを追って階段を駆け上がった。
その時なぜだか、彼女を追って約束を守る事が必要だと強く感じた。
二階に駆け上がる。
エレベーターは待っていた人を乗せてちょうど扉が閉まるところだった。
彼女は会社で臨職として一緒に働く同僚だった。
初めて会ったばかりの頃は新婚さんで、とても幸せそうに見えた。
のろけを聞かされる毎日。
正直羨ましかった。当時の私は独身貴族。
彼氏いない歴二十数年。
でもその彼女は一緒に働くうちにだんだんおかしくなっていった。
何がいけないのか。旦那さんの悪口を言うようになった。
『平気で約束を破る彼を信じられない』と言うようになった。
間に合わないと悟り、三階に駆け上がった。
ここでもちょうど扉が閉まりエレベーターはさらに上に行った。
働き始めてひと月、泣きながら彼女は言った。
「なんで私は結婚なんかしちゃったんだろう。」
私に解るわけない。でも、きっと好きだったんだろうと思った。
四階に上がったとき、エレベーターはさらに私より先に上の階に上がっていた。
最上階の食堂まで、きっと間に合わない。私何やってるんだろうと思った。
それでも、階段を駆け上がる。
時々、彼女は勤務中なのに泣くようになった。
デスクにいないから、トイレや給湯室を探すと
そこで泣いている。見つけて宥めすかす。
でも、徒労に終わった。私の慰めは空回りするだけだった。
五階、六階を通り抜けて七階でやっとエレベーターと一緒になった。
人を乗せたり降ろしたりして、速度がゆっくりになっていたらしい。
でも、人でいっぱいだったので乗れないと思い階段で上の階に上がった。
勤務の途中で泣き出す彼女を見て、私は出来る限り
彼女の為に一緒にいようと思った。
彼女の言う事はなんでも聞いた。
でもそれが面白かったのか、彼女は意地悪をしてくるようになった。
今日だって、お弁当を持ってきているのに、一緒に食堂で食べようと言う。
私が弁当派という事を彼女は知っていた。
でも、事前に言う事はなく当日、いきなりランチに誘ったりする。
今もそうだ。
一緒に行こうと言いながら、
私がエレベーターに乗れないようにしてしまった。
それでも、彼女との約束を守ろうと努力する。
九階でエレベーターは少しの間止まっていた。
車椅子の人を降ろしていた。
それを横目で見ながら最上階に駆け上がった。
十階についてちょうど、エレベーターの扉が開いた。
両ひざに手をついて肩で息をしていると
私を見つけた彼女は、眼を丸くして、驚いたように言った。
「どうして、………ここにいるの?」
「だって、約束したから。」
「約束って」
「一緒に行くって約束したよね。」
「でも、だって、後からエレベーターでくれば良かったでしょう?」
「でも、それじゃ、一緒に食堂に行ったことにならないよ。」
暫く黙ってから彼女は言った。
「バカじゃないの。意地悪したのに、こんな約束守ったりして……。」
彼女は涙ぐんでいた。
それから彼女は変わった。
次の日から意地悪をしてこなくなった。
旦那様の悪口を言わなくなった。
人目を避けて泣くことも無くなった。
のろけ話も復活した。
元の明るさを取り戻した彼女。
約束を守ったあの日、彼女の中で何かが変わった。
一見無駄に見える約束が時には必要な事もある。
たった数ヶ月の出会い。
彼女と私の物語。