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清洲の戦い

 清洲の戦い


 天文17年(1548年)の秋に行われた、織田信秀と織田三位・河尻与一との合戦である。




 合戦の原因


 当時織田弾正忠家は美濃の加納口の戦いと三河の第二次小豆坂の戦いに連敗していて、尾張国内における信秀の影響力に陰りが見えていた頃であった。


 そんな時に久遠一馬が織田信長に仕官すると、津島には毎週のように久遠家の南蛮船が入港するようになり、織田弾正忠家の状況は一変した。


 当時は明が海禁政策を取っていた影響で、密貿易自体は珍しく無かったようだが、当時ヨーロッパでも最新鋭だったガレオン船を多数所有する久遠家は、極東で最大規模の貿易を行っていたと思われる。


 久遠家と久遠諸島については別途参照。


 その貿易の品々が次々と津島に入ると、元々は河川湊だった津島は日本でも有数の貿易港に変貌する。


 当時日本の貿易は堺や博多が大部分を閉めていたが、久遠家は津島の地の利を生かして、伊勢湾沿岸地域や津島より更に東の地域との商いを始めたようで、織田弾正忠家に莫大な富をもたらした。


 信秀はその富で日本で初めての花火大会を津島天王祭で行ったり、久遠ケティによる西洋医学の無料診療を行うなど領内統治に力を注いだ。


 それらは久遠家の発案だったと言われているが、信秀は久遠家からもたらされる知識や情報の価値を理解していたようで、新参者の久遠家に早くからかなりの権限を与えていたようである。


 特に久遠ケティによる無料診療は織田弾正忠家の領民ばかりか、清洲や尾張国外からも人が来ていたようで、次第に清洲の領民すら信秀に心寄せることになったのが、織田大和守家との対立の原因になったようだ。




 開戦まで


 貿易の富とそれを原資にした領民の為の無料診療に、一番危機感を抱いたのは織田大和守家家老の坂井大膳であった。


 当時那古野郊外に久遠家が作った、日本初の西洋式牧場に海外からアラブ馬など輸入されたと知った坂井大膳は、清洲にいた浪人や流れ者などに牧場を襲わせた事件が起きる。


 この襲撃は久遠ケティの診療を受けた患者が事態を知り、いち早く伝えたことで信長により撃退されたが、清洲からの賊が那古野に来たことで、清洲から来ていた患者達が不安になったと言われている。


 その後坂井大膳は、久遠一馬の引き抜き工作をしたが失敗したようで、無料診療をしていた久遠ケティに患者に紛れ込ませた刺客を送った。


 しかし暗殺は失敗したばかりか、刺客を送った坂井大膳が何者かに殺されたことで、両者の戦は避けられなくなる。


 信秀は長年対立していた主家を潰さずにここまで来ていたが、今回ばかりは潰す覚悟をしていたと言われている。


 久遠家に至っては火縄銃ばかりか、大砲まで那古野に持ち込み戦に備えていた。


 肝心の織田信友だが、こちらは牧場の襲撃と暗殺は寝耳に水だったようで、戦を避けようと坂井大膳の首を信秀に送るなりしたが、信秀が突き返したことで事態を悟ったようである。


 この時他の大和守家の家老や重臣達は、一戦交えて和睦を考えていたようだ。


 信友自身は元々あまり実権が無かったようで、家臣達の考えに賛同出来ないものの、自らの意見や考えを聞く気もない家臣に嫌気がさしたようだった。


 加えて久遠家の無料診療には、清洲の領民から大和守家の家臣やその親族まで通っていたようで、戦になれば誰が裏切るか分からぬこと。


 そして自ら身に覚えのない襲撃や刺客の責任を取らされるのではと疑念もあったようで、平手政秀を頼り自ら清洲を明け渡すことで身の潔白を証明することを決断した。


 その結果信友と信秀は密かに謀り、大和守家から離反しようとしていた坂井甚介討伐に家臣達が向かった隙に、弾正忠家を清洲に迎え入れる策を実行した。




 戦闘と結果


 清洲に入った信秀は大和守家の兵も加えて清洲郊外に布陣して、大和守家の家老織田三位と河尻与一率いる軍と対峙した。


 なお大和守家の家老や重臣達は、まさかの事態に状況を把握できずに信秀の謀略だと考えていた。


 兵の数で劣る大和守家の軍は、家老の河尻与一が一か八か問題の発端である久遠一馬との一騎討ちに活路を開こうと、この時代ではあまり無かったと言われる戦を始める前の一騎討ちを持ちかける。


 久遠一馬がそれに答えたことで、まさかの一騎討ちが両軍の目の前で行われた。


 しかし南蛮船で海賊と戦っていた久遠一馬の強さは河尻与一の予測を超えていたらしく、一騎討ちは久遠一馬の一方的な勝利で終わる。


 戦が動いたのはこの時だった。


 大和守家の家老織田三位は河尻与一ごと久遠一馬を葬り去ろうと矢を射たせたことが、戦の火蓋を切ることになる。


 河尻与一は織田三位の行動を一騎討ちを侮辱したと激怒したと言われていて、自ら久遠一馬の盾になり守った。


 久遠一馬はそんな河尻与一を自ら抱えて共に退いた。


 戦自体はそこで久遠家の大砲が大和守家の軍の中に撃ち込まれると、この時代ほとんどの人にとって未知の大砲に驚いた兵達が逃げ出したことで、あまりに呆気ない終わりだった。


 織田弾正忠軍は死傷者ゼロという、戦国時代を通しても希な勝利を得る結果となる。




 戦後


 織田弾正忠家は信秀と信長で軍を分けて、そのまま電光石火の勢いで織田大和守家の領地を平定していった。


 ただ元々同じ織田一族だったことや、信友が自ら家臣達を説得したことで、戦らしい戦は信長と坂井甚介との戦くらいだった。


 兵の数が違うことと信長の軍は鉄砲が多かったことで、先陣を切り向かってきた坂井甚介は、鉄砲による一斉射撃で撃ち取られている。




 その後


 信秀は信友より譲られた守護代になったことで、ようやく名実共に尾張の下四郡の統治者となった。




 備考


 この清洲の戦いは久遠一馬の武士としての初陣として知られていて、日本で初めて大砲を用いた戦としても有名だ。


 火縄銃に関しても数百という数を用いたのは恐らく初めてであり、少なくとも鉄砲が勝敗を決めた初めての戦であることは確かであろう。



久遠諸島は史実の小笠原諸島のことです。

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