イザークの居ない夜
工房奥の扉の陰に隠れていたクロエを見つけて、イザークは話しかけた。
「クロエそこに居たのか。今夜は食事の用意はしなくていい。ドミニク伯爵家の夕食に招かれる事にしたのでな。お前も少し自由な時間が必要だろう。工房の片付けが終わったら今日の仕事は終了だ。好きに過ごしなさい」
「わかりました。マリエラ様はお帰りになったのですか?」
「帰らせた。このまま工房を閉めるまで待つと言い張っていたが、仕事の邪魔になるのでな」
イザークがマリエラの誘いを受けたことにショックを受けたが、クロエはそれを口には出さず黙って工房の片付けを始めた。イザークは作りかけの人形の仕上げに掛かり、カタン、コトン、とクロエが道具を片付ける音だけが工房内に響いた。
「大人しいな」
「え?」
「何か怒っているのか? 珍しく眉間にシワが寄っているぞ」
「えっ?!」
クロエはバッとおでこを両手で隠すとイザークはそれを見て可笑しそうに笑い声をあげた。
「ククク、わかりやすいな。俺がドミニク伯爵のところに行くのが面白く無いのだろう」
おでこを隠していた手で顔を覆い、表情を読まれないようにした。
「こんな時ばかり顔に出てしまうだなんて……見ないで下さい」
カツカツとイザークの靴音が近付き、顔を覆っていた両手を掴まれて外されてしまった。クロエは気まずくて視線を泳がせ、顔が見えないように下を向いた。すると片方の手を離され、その手で顎をクイッと持ち上げられた。自分を見下ろすイザークと至近距離で目が合い、カァッと顔に血が集まる感覚がした。
「真っ赤ではないか。図星だったのか?」
「違いますそんわけな……え、あの、私の顔、赤いですか? 本当に?」
「ああ、久しぶりに見たな」
「あの、手を離して下さい、お願いします」
イザークがパッと手を離すと、クロエは私室へと走った。鏡を覗き確認すると本当に真っ赤に染まっていた。
「イザーク様! 私顔が赤いです! あはっ、嬉しい」
工房へ戻るとイザークが困惑した表情でその場に立ち尽くしていた。
「イザーク様、聞いて下さい! 私、今まで顔が赤くなる事が無かったんですよ。出来なかったんです。これって凄い事ですよ! この体になって初めてです。また一歩前進ですよ」
興奮してイザークの前に立ち、両手に拳を握り力説する姿を見て、イザークは思わず抱きしめてしまった。
「そうか、良かったな」
「はい!」
クロエは興奮した勢いでイザークの背中に腕を回した。対してイザークは、自分の行動に驚いていた。衝動的に抱きしめてしまったが、これをどうすべきか悩んだ。
えーっと、どうしよう。勢いで抱きついちゃったけど、イザーク様も抱きしめてくれているし、でもこの後どうしたら良いのかしら。いつまで抱き合っているの? 何だかまた顔が赤くなってる気がする。どうかまだもう少しこのままで居て下さい、このほてりが治まるまで待って!
クロエはぎゅっと腕に力を込め、顔をイザークの胸に密着させた。ドッドッドッドッと彼の早い心臓の音が聞こえる。
気のせいかしら、イザーク様の鼓動が凄く早いような……それに私も。さっきからドキドキと心臓の音がうるさいわ。
「いつまで抱きついているつもりだ」
「先に抱きついて来たのはイザーク様ですよ」
「もう良いのではないか」
「もう少し待って下さい」
「ドアのところを見ろ」
店のドアを見るとランスとグレンがガラスに張り付き中を覗いていた。クロエはパッと腕を離し、一歩下がった。するとドアが開いて二人が入って来た。
「いやー、二人がそういう関係だとは知らなかった」
「イザーク様とクロエっていつから恋人同士になったんだ? オレ全然気が付かなかった。隠れてるつもりかもしれないけど、そこだと外から見えてるぜ?」
「ゴホン、こんな時間に何をしに来たのだ」
グレンは荷物を持って来たわけでは無さそうだ。手には何も持っていなかった。
「あー、そうそう、ランスが今朝、飯を食わせてもらったみたいで。礼を言いに。ちょっとした手伝い程度とは言え、ここには働きに来ているんだ。昼食は賃金の一部にしてもらってるけど、朝食まで食わしてもらっちゃ、それは甘えすぎだ。それに見合った仕事はしたかって聞いてもいつも通りだと言うし、とりあえず保護者である俺が礼を言いに来た。突然来たランスに朝から飯を食わせてくれて、ありがとう」
「余り物だ。気にする事ではない」
グレンはクロエをジッと見て、目を擦った。それをもう一度繰り返す。
「ん? 俺、目が悪くなったのか? クロエが細く見える」
「な! アニキ、クロエはダイエットしたんだよ。前に話しただろ、すっごい道具を持ってるって。すっげー頑張ってこんなに痩せたんだぜ! 綺麗でビックリしただろ」
「ビックリってゆーか、痩せる前も可愛かったけど、何か遠い存在になった気分だ。これからは気軽に話しかけらんねーな」
クロエはグレンの前へ行き、その言葉に反論した。
「そんな事言わないで下さい。見た目は変わっても中身はそのまま、何も変わってないんですから。今まで通りに接して欲しいです」
「はい。……ああ、うん。わかった。わかったから、そんな目で見つめないで」
「アニキ、赤くなってるぜ?」
ゴチン
ランスの頭にゲンコツが落ちた。
「イッテー! 何だよ、アニキがクロエ見たいって……もが」
「黙れ、帰るぞ」
余計な事をしゃべるランスの口を塞ぎ、その体勢のまま出て行ってしまった。
「何だったのかしら」
「さぁな。あのお喋り小僧の朝食の礼を言いに来たと言う事で良いのではないか」
そして工房を閉めたイザークは、着替えて出ようとしたところに来たドミニク伯爵家からの迎えの馬車に乗り、「では行ってくる」と一言を残し行ってしまった。
残されたクロエは笑顔で彼を送り出したがその心の中は複雑なものだった。
「本当に行っちゃった。もしかしたら私を揶揄うための嘘なんじゃないかと期待して、馬鹿みたいね」
クロエは翌日の朝食用パンの仕込を始めた。自由にと言われて、やりたい事は何かと考えた時、真っ先に浮かんだのはイザークの事だった。彼に喜んでもらう為に美味しいパンを焼くこと。毎朝パンの焼ける匂いを嗅ぎながらダイニングにやって来て「いい匂いだな」と言ってくれるのがクロエの密かな楽しみなのだ。その時のイザークはとても優しい微笑を向けてくれて、クロエはその度に胸が高鳴った。
三時間が過ぎてもイザークは帰ってこなかった。
「貴族の夕食って、どれくらいかかるのかな。私達なんて、せいぜい30分? イザーク様はゆっくりだから、一時間くらい掛けるけど……大人はお酒を飲んだりもするもの、まだ帰って来ないかもしれない」
家の中はシンとして、心なしか空気が冷たい気がした。普段ならば夜はダイニングで紅茶を飲みながら本を読んでいるイザークだが、彼がそこに居ないだけでこんなにも違うのかと思った。
「駄目ね。ボーっとしてると思考がマイナスに傾くわ。ゆっくりお風呂に浸かって、久しぶりに髪をトリートメントしよう。アリアのくれた入浴剤も入れて、歌だって歌っちゃうんだから」
フンフンと鼻歌交じりに浴槽にお湯を溜め、入浴剤を入れる。バラの香りが浴室内を満たし、気分が高揚した。クロエの体は疲れる事を知らないが、湯に浸かればほっこり体が温まり、気持ちが良かった。髪をトリートメントしながら湯に浸かり、どこかで聞いた流行り歌を歌う。狭い浴室に声が響き、これが中々上手に聞こえる。平民のクロエにとってこの上なく贅沢な時間の使い道だった。
一時間ほどで風呂を出て、髪をタオルで拭きながら私室へ向うと、何故かドアが開いていた。
「やだ、私開けっ放しでお風呂に入ってた? でも今日は誰も居ないし、まぁいっか」
室内に明かりをつけ、鏡の前で髪を乾かす。すると背後に何か気配を感じ、振り向くとそこにイザークが居た。
「どこに居たのだ。家中探したぞ」
「え、と、お風呂です。イザーク様、お帰りになってたんですね。お帰りなさいませ。何かお飲みになりますか?」
「風呂か……体からいい香りがするな。髪も、いつもより更に艶が増している。誰のためにこんなに念入りな準備をしたのだ」
「あれ? イザーク様、もしかして酔ってます?」
絶対にこんな事を言わない人なのに、何だか怖い顔で責められている。パッと見いつもと変わらなく思えたが、良く見ればイザークの目はとろんとして、目の下辺りがほんのり赤くなっていた。体からはお酒とタバコの匂いがする。
「酔ってなどいない。君は、誰を待っていたんだ。ここに誰を呼んだ」
「ん? 誰も呼んだりしてませんし、待っていたのはイザーク様です。でも、だいぶ酔ってますよね? かなりお飲みになったのですか?」
「そうか、私を待っていたのか。いい子だ」
どうにも話しが噛み合わず、酔っ払いへの対処法で乗り切ろうと部屋を出ようとしたクロエは、イザークに掴まってしまった。
「イザーク様はかなり酔ってますから、お水を飲んだ方が良いですよ。わっ」
いきなり覆いかぶさってきたイザークに潰されそうになりながら、何とか持ちこたえてその大きな体を支える。ズルズルと引きずるようにベッドまで運び、そのまま二人で倒れ込んだ。
「相当酔ってますね。もう寝ちゃってるじゃないですか」
クロエはイザークの腕から抜け出して靴を脱がせ、転がしながら器用に布団を捲った。父親のお陰で酔っ払いの扱いは慣れた物で、あっという間に上着を脱がせシャツのボタンをはずす。
「どこまで脱がせて良いのかな。父さんならパンツ一丁になるまで剥くんだけど。さすがにそれは、ね」
とりあえず靴下は脱がせ、苦しくないようにズボンのボタンを外す。布団をかけようとしたところでイザークは目を開けた。
「あ、シワになるので上着だけ脱がせましたよ。それから今日は私のベッドを使って下さい。イザーク様?」
「良いからここへ来い」
彼の向こう側に寄せておいた布団に手をかけたところだったので、長い腕を背中に回されイザークの上に乗る形になってしまった。がっちりホールドされてビクともしない。
「このまま寝たら重いですよ。私じゃなく、布団を掛けましょう。風邪を引いてしまいますよ」
「何だ、こうすれば良いのだろう」
ゴロンと転がり横向きになってまた眠ってしまった。クロエは掴んでいた布団をひっぱりイザークに掛けた。
「これ、朝起きて正気になったら大変なんじゃないかな。私の事なんてぬいぐるみとでも思ってますよね。確かに私は人形ですけど、中身はうら若き乙女ですよ。あなたの事を好きな……」




