ダミヤン襲来
翌日、イザークは出来上がった人形を納品するために朝から隣町まで出かけて行った。イザークを見送ったクロエはせっせと作業場の掃除をして、次の注文にあわせた素材を作業台に並べていく。
カランとドアの開く音がして、反射的に振り向いて挨拶をした。
「いらっしゃいませ!」
逆光で良く見えないが、男性のシルエットだ。娘のために注文しに来る男性は多い。特に不思議とも思わず、接客しようとカウンターに移動した。
「よぉ、お嬢ちゃん、ずいぶん探したよ」
カウンター越しに立っているのは客では無い、ダミヤンだ。クロエは驚き身動きが出来ない。
「お前のせいで俺は研究所をクビになった。わざとファイルから魔法陣を抜き取っておいたのか? お陰で俺が盗作犯だと責められた。どうやってお前の研究室に入ったかまで調べられて、お前の仲間達にはやられたよ。去った者をそこまでして救おうなんて奴が居るとは思わなかった。おまけに過去の事まで掘り返されて、俺の人生はもう終わりだ!!」
静かに恨み言を語っているかと思えば突然激昂して掴みかかって来た。
カウンターを挟んで胸ぐらを掴まれたクロエは台の上に乗りあがる勢いで引っ張られた。みぞおちを打ちつけ、思わずくぐもった声を上げる。
「グフッ」
ダミヤンの目には狂気が宿っていて、まともな話しが出来そうな状態では無い。小さなバタフライナイフを取り出しクロエの首筋に当てた。スッと引いて一筋の赤い線を作る。
「や……」
クロエは恐怖に声も出せず、狂ったダミヤンと睨み合っていた。ダミヤンは首筋に付けた傷をナイフを持った手で触れて、さらに親指で力を入れてなぞる。
「イタッ」
クロエは痛みに顔を歪ませ、ダミヤンから逃れようともがき胸ぐらを掴む手を思い切り引っかいた。
「っつぅ……このアマ!」
クロエに付けられた傷を見て、今度は力いっぱい頬を殴る。クロエは反動でカウンターから落ち、その機を逃さずそのまま勝手口に向って走り出した。意外に身軽なダミヤンはカウンターを飛び越え、廊下でクロエの髪を鷲掴みにする。
「俺から逃げられるとでも思っているのか? ハッ笑わせる。おまえのこの太った体で逃げ切れるわけが無いだろう。さぁ、俺の人生を台無しにした代償を払わせてやる。父上は今回で完全に縁を切ると言った。俺には守る物はもう何も無いからな! お前を道連れに死んでやる!」
死んでやると言う割りに、その言葉に不釣合いな小さく殺傷能力の少ないナイフ一本を振り回し、クロエの体を切りつける。クロエの背中には浅い切り傷が増えて行き、着ていたブラウスの背中がパックリと開いた。
ダミヤンは興奮状態で背中が露になったクロエの背後から腕を回し胸を弄る。
「男を知らずに死なすのは流石に不憫だな……」
「や……!」
クロエは力いっぱい突き飛ばし、ダミヤンの拘束から逃れ私室に逃げ込み鍵を掛けようとするが、手が震えて上手くいかない。ドアを無理に開けようとする力に負けてダミヤンは部屋に入って来た。クロエは部屋の奥に逃げるがその先には木箱があるだけでもう逃げ道は無い。
「ベッドのある部屋に誘い込むなんて、さすがはカミラの娘だな。お前の家に金を取りに行ったあの日も、あの女は自分と旦那が使っていたベッドに俺を誘い乱れていたぞ。ハハッ、あれを母親に持つなんて、おまえは哀れな娘だな。さて、おまえはどんな味がするのかな? 俺への償いに精一杯奉仕してもらおうか!」
迫り来るダミヤンになす術も無く、それでもクロエは必死に抵抗した。ダミヤンは手に持ったナイフで脅しながらクロエを追い詰める。
そしてダミヤンがクロエの体にねっとりと触れた瞬間、またしても魔力の暴走が起き、ダミヤンは弾かれるように数メートル先の壁に激突した。しかしそれは子供の頃の何十倍もの威力で、部屋の中は暴走した魔力で一瞬にしてめちゃくちゃになった。
「ハァ、ハァ……」
「痛ってーな! なにすんだこのアマ……」
ダミヤンはクロエの様子に徒ならぬ物を感じ後ずさりする。
クロエの体は魔物が討伐される時にみせる現象を起こしていた。全身が光り輝き、輪郭がぼやけて粉になっていく。
「なんだよ、魔力が暴走したのか? おまえまさか制御法をカミラから習ってないのかよ? これは俺が悪いんじゃないぞ! おまえが死ぬのはカミラのせいだ。俺は関係ない!!」
ダミヤンは壁に激突した衝撃でナイフを落としていたが、それに気付かず勝手口から転げるように逃げ出した。
「私、死ぬの?」
クロエは自分の手を見る。徐々に粉となって消えていくが、その粉はある方向に向けて流れていた。見れば先ほどの衝撃で開いたあの木箱から魔法陣が幾つも浮き出し、そこに粉が吸い込まれている。
近づいて中を見れば、クロエの放ち続ける大量の魔力で魔道具全てが起動し、クロエ人形が光り輝いていた。クロエの欠片となった光る粉は、最後の一粒まで魔法陣が吸い込んで、そこに残った切り裂かれたブラウスとスカート、それに着けていた下着と靴下が抜け殻の様にふわりと床に落ちた。
クロエの消えた部屋で、魔法陣はまだ勢い良く回り続けている。イザークが納品を終えて工房に戻る頃にそれは収まり、シンと静まり返った工房内には誰かが争った形跡だけが残っていた。カウンターの上には注文書が散乱し、よく見れば大きな靴跡が残っている。イザークはこの状況に胸騒ぎを覚え、奥の居住スペースへと急いだ。
廊下の壁には血の擦れた跡があり、床には血の付いた布の切れ端と小さな血痕がクロエの部屋まで続いている。
「どこだクロエ!」
嫌な予感に胸がざわつきクロエを呼ぶが返事は無い。少し開いていたドアを押し、中を確認する。そしてその異様な光景にイザークは言葉を無くす。家具は全て放射状に隅に寄せられ、カーテンはレールごと外れ、外に向ってだらんと垂れ下がっている。窓は全て開け放たれ、一部はガラスにヒビが入っていた。
「これは……何があったんだ? クロエはどこだ? クロエ! 居ないのか?」
室内に入ると、床に血の付いたナイフが落ちていることに気付く。イザークは最悪の結末を思い浮かべるが、室内にいるだろうクロエの姿を探し、寄せられた家具の周囲を隈なく見たがそこにクロエは居なかった。反対側のベッドがある方を見ると、今朝クロエが着ていた衣服が切り裂かれ血が付いた状態で床に落ちている。ベッドの下を見るがそこにも姿は無く、別の部屋に逃げた可能性を考えて、家中探したがクロエは居なかった。