6
小雨が降り止まぬ中、あたしは出島さんに手を引かれて、停留所を後にした。
龍神様にご挨拶に行くと言ってきかない出島さんに引きずられるようにして、あたしは彼と、さっきまで一人でスイカを運んでいた道を歩いていた。停留所はもう割と離れた所に見えるくらい。歩くの早いんだ、出島さん。あたしはそれについていくだけで、結構精一杯。
息が上がりそうになる。つっかえるみたいにして歩きながら、あたしは河の方に目をやった。出島さんが降らせたのだと言い張るさっきの大雨の所為で、河の水量はぐんと増しているみたいだった。氾濫しなきゃいいけれど。
薄い曇り空が広がっている上の方から、太陽がこぼれ落ちるように大地に輝きを落とす。出島さんに会った時と同じように、雨の雫はぱらぱらと降り注いで、光に照らされて宝石のように見える。幸い、風はそんなにないので、空にかかった雲の幕は、出島さんの頭にあるという皿を守るはずだ。
だって、うるっさいんだもん。皿が乾くと死んじゃう、とかって。
そもそも、本当にそれが皿かどうかっていうのも怪しいってのに。
「うららさん、龍神様のおられる神社はこちらの方角でよろしいんですか?」
何故だかあたしの左手を握ったまま離してくれない出島さんが、緊張の面持ちで尋ねる。
「ああ、うん、こっちであってる…、ああああ!」
急に大声を出したあたしを振り返って出島さんが立ち止まる。一緒に歩くというよりも、引っ張られているような感じなんだよね。何をそんなに急いでいるんだか。
「どうしました?」
「スイカ、置いてきちゃった」
「スイカ?」
「ほら、スイカ、ふたつあったでしょ、あたしが停留所にやってきたときに! ひとつは出島さんがしわくちゃにしちゃったけど。あれ、村の人からお父さんにっていただいたものなんだよね。取りに戻らないと」
というわけで、あたしと出島さんは停留所へ戻ろうと足を進める。
さっきまでの大雨ではまるで前が見えなかったから気にならなかっただろうけれど、今の小雨状態では、こんな一本道、隠れる場所もない。前からも後ろからも丸見えってことだ。あたしが、出島さんに手を引かれているってことが。いや、もっと質が悪い。遠目から見たら、あたしが出島さんと仲良く手を繋いでいるように見えなくもない。これくらいの雨なら、きっと雨宿りしていた人たちもまた外に出てくる。この一本道は河沿いに、つまり村の中心部を残らず通っているということだから、つまりいかに田舎で人口が少ないこの村でも、人への遭遇率は高いわけだ。困った。困ったよ、これは。ただでさえ村人は変わり映えのない毎日に退屈してるっていうのに。あたしと同年代の子供達はゴシップに飢えているというのに。万が一、こんなところを誰かに目撃されたら、向こう二年は噂の対象に祭り上げられてしまう…! 何とおそろしい。
「あ、あの、出島さん?」
「なんですか?」
「手。その、手、離しません?」
「あ、僕の手ぬめってます?」
「は? ぬめる?」
「一応、水掻きを目立たなくする方法は僕たちも教わっているんですけどね。それも、こうして水に触れてしまうと、ついつい体が元の形状に戻りたがってしまうんですよね。自然に、こう、ぬめるっていうか」
「いや、ぬめってるかどうかは気付きませんでしたけど……」
「え、本当ですか? 嬉しいなあ、結構コンプレックスだったんですよね。学校とかでも、出島くんの手はぬめりすぎとかってからかわれたりして」
「いや、だから、そういうのはどうでもいいんですけどね…」
「そうですよね! そんな、身体的特徴をコンプレックスに感じるなんて、だめですよね。もっと自分に自信を持たないといけません! ひとは自分以外の存在には成り得ないんですから! うららさんは良いこと言うなあ」
「あたし、何も言ってないんだけど。出島さん? ひとの話聞いてますか?」
「もちろんです! 誰のお話でもなく、うららさんのお話ですからね! 全身全霊で聞いていますよ!」
「だったら、その、手をですね」
「こうですか?」
今まで、いわゆる幼稚園児繋ぎ、つまりただ単に手の平を合わせるだけの繋ぎ方だったのを、出島さんは指を絡める、い、いわゆるカップル繋ぎに切り替えた。今の話の展開で、何でこれを思いつくかな! これだけでも、男の人にほぼ免疫のないあたしには冷や汗ものだというのに、出島さんの手は、彼自身が語った通り何だかぬるぬるしていて、正直なところ、ちょっと気持ち悪い。男の人とこうして手を繋ぐのって、もっとどきどきするかと思ったんだけど、ぬかるんだ手ではそんなムードも台無しだ。まあ、おかげであたしは理性を保っていられるけれど。
「ぬるぬるしてる……」
思わず声に出してしまうと、出島さんは停留所にあともう少し、といったところで硬直した。それでも手を離さずに、
「そうですよね、やっぱり気持ち悪いですよね……。でも、僕だって好きでこんなぬめってるわけじゃないんですよ……。長身のひとがいれば癖毛のひとがいて、汗っかきのひとがいれば乾燥肌のひとがいるんですよ。僕だって、好き好んで、こんなぬめぬめした手を手に入れたんじゃないんですよ……!」
「わ、わかりました、わかりましたから! ほら、濡れると余計にぬめるんでしょ? さっさと停留所に行きましょう!」
手のぬめりを止める薬があるらしいとか、その薬は効くには効くらしんだけど体質改善には至らないとか、薬で何でもかんでも治そうと思うのは現代人の間違いだとか、でも科学の進歩にはきちんと敬意を示すべきだとか、きっといつか手がぬめってた方が格好良いという風潮がやってくるはずだとか、基本的にいかに出島さんが手のぬめりを気にしているかという話を延々と聞きながら、あたしたちはようやく停留所に戻ってきた。さっき、自分で言ったじゃない。身体的特徴をコンプレックスに感じる必要はないって。とは、突っ込めない。顔があまりにも真剣すぎて。
「これこれ」
言いながらあたしはさりげなさを装って繋いでいた手を離すと、地面に放置されたままだった赤ちゃんサイズの巨大スイカを両手で持ち上げた。心なしか、出島さんが淋しそうに見えたのは気のせいだったと思いたい。
「行きますか」
声をかけるあたしを何やら思い詰めた顔で見つめる出島さん。あたし、というよりあたしの脚を凝視しているような。
今度は何? 脚のぬめりを解消する民間治療の話?
「うららさん、僕としたことが!」
「へ? うわ、ちょっと、何、何するんですか、出島さん、わああああああぁぁぁぁ」
ラグビーのタックルに似た動きであたしに突進してくると、突如として出島さんはあたしを手にしたスイカごと軽々と抱え上げた。
俵かい、あたしは!
そのまま、出島さんは停留所を飛び出すと、河川敷に向かって一直線に走る。
よ、良かった、短パン履いてて……!! スカートじゃなくて良かった!
雨でぬかるんだ河川敷をざさーっとスライディングの要領で駆け下りると、あたしを担いだままきょろきょろと左右を見渡す。何を見つけたのか、次の瞬間には下流の方に向かってまたしても猛ダッシュをする出島さん。なんなの、一体。喋ろうにもひとの肩の上にいる身のあたしは、舌を噛んでしまいやしないかと心配で、上手く口も開けない。この、天然マイペース河童が!
その内、釣りでもしていた誰かが置いていったのであろう小さい簡易式椅子がある場所までやってくると、出島さんはようやく走るのをやめた。片手であたしの腰あたりを落ちないように支えながら、もう片方の手でスラックスのポケットを探る。取り出したのは薄い緑色をしたハンカチで、それで濡れた椅子の表面を拭いてしまうと、出島さんはそっとあたしを地面におろした。
「どうぞ」
「どうぞって。何がですか」
「お座り下さい、うららさん」
「何で?」
「脚が泥で汚れています。拭き取らないといけません」
そう言われてみれば、さっきの大雨であたしの脚はキリン柄になっていたのだったっけ。
「もしかして、たったそれだけの為にこんな走ったんですか?」
「巫女さんの脚ですよ! 今から龍神様にご挨拶に伺うんですよ! 粗相があっては失礼ですからね。ただでさえ龍神様の大事な巫女さんに手を出したとか思われて、めちゃめちゃ怒られてしまうかわからなくて、めちゃめちゃびびってるっていうのに……。本当に、ちょっとお近づきの印に尻小玉を頂こうとしただけで、決して、龍神様の大事な巫女さんを手篭めにしようとしたわけではないのに。このまま誤解されたままなら、僕の将来、絶望的ですもん」
「手篭めって…。あ、それであんなに急いでたんですか。あたしはてっきりトイレでも近いのかと」
「違いますよ! それに、これは僕のせいでもありますから」
「出島さんの?」
「はい。だって、これはさっきの雨のせいでしょう。僕が降らせた雨の」
「や~、でも、雨ってひとがコントロール出来るものじゃないでしょう」
「だから! 出来るんですってば! 本当は、出来るんですよ……今は出来なくなってしまいましたけど……」
ほう、と切ないため息をつくと、出島さんはあたしの手からスイカを取って草の繁る地面に置いた。そして、さっき椅子を拭くのに使ったハンカチを持って河のほとりへとしゃがみ込むと、ハンカチを濡らして、軽く絞って、あたしの元に戻ってくる。
「お座り下さい、うららさん」
再度請われて、あたしは反論する気も起こせずに素直に椅子に腰かけた。
座ると余計に出島さんの背の高いのが強調される。雲の隙間から見える太陽が眩しすぎて、出島さんを見ようにも、あたしは目を細めるだけでその表情はわからないでいた。
あたしが座ったのを見届けると、出島さんはあたしの傍らにひざをついた。濡れたハンカチを片手に持ったまま、もう片方であたしの脚に手をかける。
出島さんがあたしの脚に触れた瞬間、電撃のようなものが全身を貫いた。思わず、びくっと体を強張らせると、
「サンダルを、脱がせますよ」
落ち着いた声音でそう宣言すると、あたしが待ったをかける間もなく、出島さんは器用にひとのサンダルを脱がせてしまう。片膝をついた状態の出島さんの太ももに、あたしの脚が乗っけられる。まるで何でもないかのように、出島さんが泥まみれになったあたしの脚をゆっくりとハンカチで撫でていく。
「冷たいですか?」
「いえ、大丈夫です…」
こ、これは……。ものすごく恥ずかしい。
いや、出島さんに出会ってから恥ずかしい思いばっかりをしているような気がしないでもないんだけど、これは格段に恥ずかしい。あたし、何か、女王様みたいじゃない? 出島さんが執事?
頭の中に、執事衣装を着込んだ出島さんが浮かび上がる。いい……。似合う。似合うよ!
あたしの爆走気味の妄想など露ほども知らず、出島さんは職人の動きと繊細さでもってして、脚についた泥を丁寧に払っていく。片足が終わって、サンダルをまた履かせてもらって、残りの脚からサンダルを外して太ももに乗せて。
出島さんの脚に触れているあたしの脚だけが、まるであたしの体から分離して個別の心臓を得たみたい。流れる血がどくんどくんと脈打つのを感じるのが息苦しくて、あたしは目の前で悠々と流れる河の動きに集中しようと前を向いたままでいた。
あれだけおしゃべりな出島さんは、何故だかひとことも発さず、そうなると、あたしも何を言って良いのやら見当もつかなくなって、あたしたちは黙りこくったまま、ただ河の流れる音を聞いた。
あたしに傅いている出島さん。ちょっと天然で、ちょっとマイペースで、ちょっと河童なところを除くとほぼ完璧な美しい容姿の彼が、あたしの側で黙々とハンカチを動かす様は倒錯的で、時間よ止まれ、なんて馬鹿なことを口走りたくなる。
随分長い時間が流れたようにも思うけれど、実際は二分やそこらといったところか。その静寂を破ったのは、頭上からの声。
「あれ、黄本じゃん!」