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出島さんの体は、まだあたしにびったりとくっついていて、このままだとあたしの血圧はメーターを振り切ってしまうんじゃないかと、ちょっと本気で心配になってきた。
体をはがしてみようと出島さんの腕に手をかけたものの、ありがとうございますを繰り返す出島さんの声を聞くと、何だか気を殺がれてしまってあたしはその場に突っ立ったままでいた。すると、
「そういえばうららさん。スイカがなくなったのでないのなら、どうして泣かれていたんですか?」
「そ、それは。その……」
言えるか! 尻小玉を抜くという名目でファーストキスを奪われてしまったのが情けなくて、なんて。そんなこと。
「尻小玉を抜くっていうのが、えっと、その、こ、肛門に関することでなくて、良かったな。って、今更思って……ほっとして、それで……」
苦しい言い逃れを試みるあたしの言葉を、出島さんはすんなりと受け入れたようだった。
「大丈夫ですよ。肝なんて取っちゃったら、流石に命に関わったりしますからね。うららさんにそんな危険な目は合わせません!」
「あ、ありがとうございます……。あの、出島さん? そろそろ、離れてもらってもいいですかね?」
ああああああああ、これは失礼をしました、と平謝りながら出島さんがあたしから離れる。結構、ひとに抱き締められるっていうのは心地好いもんかも、なんて思いかけた自分の思考を無理矢理追い払おうとあたしは、
「あ、雨、すっかり上がっちゃいましたね」
「そう、それですよ、うららさん」
「何がですか」
「僕が降らしてたんですよ、あの雨。ほら、河童は水にゆかりのあるものだと申しましたでしょう。だから、水に関する天気なら、ある程度はコントロール出来たりするんですよ」
「はあ……」
出島さんって同じ話を三回とか四回とかするタイプなのかなあ。水とゆかりが云々って台詞もう既に何回か聞いちゃった気がする。
「それが何か? って思ってらっしゃいますね、その顔! いいですか、僕が降らせていた雨なんです。そして、ここは今日から僕の勤務地ですので、他の河童が関与することは原則として許されていないんですよ。なのにこの太陽! この晴れっぷり! しかも、さっきからどう頑張ってみても雨が降らせられないんです」
心底困った、というため息をつく出島さん。そんな彼を見てあたしは、確かにこのかんかん照りは皿が乾くと困るという河童には辛いものがあるのかな、と思った。まあ、ちょっとくらいなら雨が降っても良いかもね。
ぽつ、ぽつ、とお日様の光は衰えていないものの、空からまばらに水滴が落ちてくる。おお、何というタイミングで。
「は! 雨!! 雨ですよ、うららさん!」
「あ、ほんとだ。良かったですね、降ってきましたよ、雨」
「驚いてませんね。……うららさん、もしかして今、雨降ればいいなあって思いませんでした?」
「ああ、うん、思いましたよ。だって、困るんでしょ? 皿が乾くと」
「はい、ご考慮ありがとうございます。じゃなくてですね!」
やおら出島さんは真剣な目つきであたしを見据えると、
「うららさん、何かしましたよね?」
「だから、何のことかわかんないですってば」
「絶対、うららさんですよ」
「何がですか。何が絶対なんですか」
「だって……、何か感じたんですよ。尻小玉を抜かせて頂いたときに、感じたんです。今でも感じます。うららさんの方から、こう、ヴェールみたいなのが僕を包んでいて、力が弱まっているんです。コントロール出来ない」
さっき、大丈夫とか囁いてひとの涙を拭ったひととは思えない。眉間に皺を寄せて、拗ねたように口唇を尖らせる出島さんを見て、あたしは自分の記憶を遡ってみることにした。あたしが河童の力をコントロールしてるってか。そんなことあるわけないけど、あるわけないことばっかりが今日は起こっているわけだから。となると、思いつくのはただひとつ。
「あの、さ。その、し、尻小玉をね、出島さんが抜こうとした直前にあたし、神様って言ったんだけど、それだったりします?」
「神様なら平気なはずです……。だって僕たち河童と神様とは強いコネクションがあるわけではないですもん」
うなだれる出島さん。面倒なひとだなあ。
「あと、仏様って」
「仏様でも平気なはずです」
「あと、龍神様って……」
「龍神様? 龍神様なんて言ったんですか! どうして」
「だってうち、龍神様を祀ってる神社だから」
「えええええ!」
大袈裟なリアクションで出島さんが奇声を上げる。目は見開かれ、口は縦に長く開かれ、まさに顔面蒼白。はにわに似てる。ぶるぶると震える人差し指であたしを指すと、青白い顔のまま出島さんが、
「じゃ、じゃ、じゃあ、うららさん、もしかして、巫女さん……?」
「あ、うん。一応。まだ儀式は済ませてないんで、正式な巫女ではないですけど」
手の甲を額に当てて目を瞑ると、ふらふらと流れるように出島さんが数歩後退した。オーマイゴッと妙な英語を口にしながら。やけに芝居じみたその仕草が、いやに似合うのは何故だろう。
「僕、うららさんの側を離れられなくなりました」
なんて、文字だけみたら素敵な内容を、あからさまな失望と落胆で言われると、結構腹が立つもんだ。あたしは仕返しに、
「別にいてくれなんて言ってません」
「そういうことじゃなくてですね。龍神様というのは、河童ととてもゆかりの深い神様なんです。水とゆかりがあると申しましたでしょ? 龍神様は水の眷属のトップを司るひとりですよ。上司みたいなもんですよ、僕たちにとって。そして、その上司の直属秘書が、巫女であるうららさんです。多分、龍神様が怒ってしまわれたんじゃないかな、うららさんの尻小玉を抜こうとしたから。詳しいところは判りませんけれど、とにかく僕は龍神様に許していただかないと。そして、それには巫女であるうららさんが仲介していただかないと。僕の身の潔白を証明するためにも」
「ええええー……」
まさか。何でそんなことになっちゃうの。おばあちゃんが言ってたけど。この村には、古に住んでいた人外のモノもまだ存在してるって。巫女はそういうものの橋渡しの役目を担うんだって。あたしは話半分にしか聞いていなかったんだけど。じゃあ、河童って本当にいるってこと? 出島さんてば、本当に河童なの? そしてあたしってばれっきとした巫女なの……? 自分でしでかしたとはいえ、予想外の展開にあたしは口を噤む。でも、河童って。龍神様って。巫女って。しかも、直属秘書?どうしろっていうんだ。いやいや、何を出島さんの話を丸呑みにしようとしているんだ、あたし。まだ判らないじゃない、出島さんが河童かなんて。ううん、それよりも河童が本当にいるのかどうかなんて! あたしはれっきとした現代っこなんだから。どんなに出島さんが愛くるしくても、だからって、それだけで、出島さんが河童だなんて世迷い言を信じるわけには……。
あたしが現実とファンタジーの二択で迷っている間に、どうやら中身は割と単純らしい出島さんは、早速立ち直りの早さを見せつける。背筋を伸ばしてあたしの目の前に立つと、殺人的にキュートな笑顔を向け、あたしが構える暇もないままそっとその口唇であたしの頬に触れた。そして、どこまでも明るく言うのだ。
「でも僕、言うこときかないといけないのがうららさんで良かったです」
だから、それは、反則だってば。
「まだ、信じてないんだからね」
「はい。でも、信じてみようとして下さってるんですよね?」
「そ、それは、まあ……」
「だったら、早速龍神様にご挨拶に伺いましょう!」
「ちょ、ちょっと待って! 何で今なの!」
「急がば回れと昔から言いますでしょう」
「それ、何か使い方間違ってるよ!」




