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「つまり、出島さんはあたしの尻小玉を抜きたいとおっしゃる?」
「はい!」
「だめですよ!」
新しいカブトムシを捕まえた小学生の笑みで頷いた出島さんに、ご飯前なんだから手を洗ってらっしゃいと言う母親の剣幕であたしは異を唱える。
「どうしてですか?」
「どうしてって、だって尻小玉抜かれたら腑抜けになっちゃうんでしょ?」
「いいえ。説明不足でしたね。実は、尻小玉の抜き方には二通りあってですね。ひとつは、うららさんのおっしゃった様に、腑抜けになってしまう場合。河童の従者にすることが主な目的です。残念な話ですが、こちらのやり方の方が今はポピュラーなんですよ。お恥ずかしい限りです。でも、先程も言いましたが、僕が推奨しているのはもうひとつのやり方、つまり、人間と河童の共存を考慮した方です。これは、尻小玉を抜くというよりも人間から少しだけ精気を頂くんです。でも、全部頂いてしまいはしませんので、腑抜けになることはありません。うららさんの健康は、僕が保証します」
真摯な口調でそう詰め寄られると、あたしは何だか強く出れなくなった。
もう、河童だか何だか知らないけど、こんなに複雑怪奇な冗談をあたしみたいな小娘にするなんて、余程質が悪いか、切羽詰まってるかどっちかだ。もしかしたら、河童っていう団体が本当に存在するのかもしれないしね。そして、出島さんの態度を見る限りでは、悪いひとには見えないんだよなあ。あたしが世間知らずなだけかもしれないけど。河童だとか小豆洗いだとか、そういう類のモノがいないとも言い切れないしね。おばあちゃんの受け売りだけど。世の中には、まだまだ人間には知られない古のモノが存在するって。精気を抜くだなんて、怖ろしいけれど。まあ、御託をならべてもさ。何ていうか、この目に弱いんだな、あたしは。自分でも馬鹿だなあとは思うけれど。死ななきゃ、なんとかなるだろう。
「で、あたしは何をすればいいんですか」
気恥ずかしいのを隠すために、やや投げやりな口調になったあたしに気を留めることもなく、出島さんはあたしに抱きついてきた。
「ありがとうございます!」
わああああああああ。これは予想してなかった!
どんっと鈍い音がするくらい強く、あたしは出島さんの胸を両手の平で突き飛ばす。
「ごごごごめんなさい。つい、嬉しくて、その……。大丈夫ですか?うららさん」
熟れた果実だってこんなに赤くはないはずだ。心配そうにあたしの顔を覗き込もうとする出島さんから逃れるように、あたしは手の平で顔を覆った。こんな顔、見られたら。見られたら。恥ずかしくて一生覆面生活だ。
「うららさん……」
か細い声で出島さんがあたしを呼ぶ。もしかしたら泣いてるとでも思っているのかもしれない。それはありえないですよ、出島さん。自慢じゃないが、あたしは泣かせたことはあっても人前で泣いたことはないです。おろおろと所在なげに慌てふためく出島さんが、あたしの髪に触れた。まだ乾ききっていないそれを、上から下に静かに手で撫でる。
「ごめんなさい、うららさん」
泣きそうなのは出島さんの声の方だ。指先で自分の頬に触れてみる。さっきほど熱くはない。多分、顔の赤みもひいたはず。あたしは顔を上げて、出島さんを安心させるように歯を見せた。
「大丈夫ですよ。ちょっとびっくりしただけです」
「よかった」
安堵の息を吐き出すのと同時に出島さんがそう言って、あたしの頭にのせてある手をすべらせて肩においた。
音もなく出島さんが少しだけ腰を折り、その整いに整いまくった顔をあたしに近付けてくる。肩におかれた手に、少しだけ力が入り、あたしの身体が引き寄せられる。毛穴のまったく見えない肌が、あたしの眼前にせまる。小首を傾げるようにして角度をつけた出島さんの顔が、さらにあたしに近付いてくる。
あの、このままだとぶつかるんですけど?
ようやくその可能性に気付いたあたしの脳みそが、ある予想に達する。
これって、いわゆる、キス、なのではなかろうか。
思い立った瞬間、あたしは両手で出島さんの両二の腕を強く掴んでいた。すんでのところで出島さんの身体が止まる。顔が近い。近すぎる!
「何やってるんですか!」
また真っ赤になってしまったであろう顔を隠すことも出来ずに、あたしは半分ヤケになってわめいた。
それに反して出島さんはあくまでも冷静に、心なしかうっすら笑みを浮かべながら、
「何って、尻小玉を抜くんです」
「し、尻小玉は肛門の近くにあるって、さっき言ってたじゃないですか!」
は! そう言えばそうだった! それなら、そもそも尻小玉を抜かせようなんてするべきじゃないじゃない!と、あたしは当たり前のことに今更気付く。
「それは肝ですよ」
「だったら何で、顔をこんなに近付ける必要があるんですか! これじゃあまるで、まるで……」
キスじゃないですか!とは言えないあたし。
「だって尻小玉は僕たち河童が、人間の口から精気を吸い取るものです」
「それってキスじゃないですか!」
よし、よく言った、あたし!
「あ、そうですね。そういう言い方も出来ます」
もうやだ、河童のばか! 何でそんな大切なこと、先に言わないの?何でキスなんてロマンティックな行為を、尻小玉を抜くなんてデリカシーの欠片もない言い方するの? 紛らわしい!
タンスに足の小指をぶつけたのを除くと、生まれて初めて涙目になってきたあたしが、出島さんの瞳の中に写る。出会ってから今までで一番大人びた表情になると、出島さんが低い声音で囁いた。
「大丈夫ですよ、うららさん」
「え?」
「精気を抜ききったりはしないって、約束したじゃないですか」
違う! そこじゃないよ、あたしが泣きそうになってるポイントは!
小悪魔ちゃんな目つきで、出島さんがあたしを見つめる。だから、それは、反則だよ。
ずるいよ。だって、キスなんて、そんなこと言わなかったじゃない。尻小玉だなんて、そんなの、ひっかけ問題みたいじゃない。あたし、彼氏もいたことないんだから。キスなんて、そんなこと。女の子にとって初めてのキスがどれだけ大事かわかってるの。ずるいよ、そんな王子様みたいな顔で、そんな優しい声で、そんなあったかい手で、ずるいよ。
頭の中は言いたいことでいっぱいで、でも単語だけが縦横無尽に飛び交っていて何の文にもなりやしない。そうこうしているうちに、出島さんの顔が再び近付いてくる。もう既に充分近いっていうのに。これは危険だと、早く逃げろとあたしの身体の中は警告音を鳴らし続けているのに、頭は混乱したままで、身体はまったく言うことを聞かず、どうしていいか判らないまま、せめてもの思いであたしはぎゅっと目を閉じた。
神様、仏様、龍神様!