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「おなかすいていませんか?」
「え?えっと、はい、少しは減ってきましたけど……」
すると、出島さんは後ろ手に持っていた、えらく大きな風呂敷包みを出してきた。
「あのね。うららさんのお母さんに頼んで、二人分のお弁当をこしらえてもらったんです。きっと、学校が終わる頃にはうららさん、おなかがすいてるんじゃないかと思って」
「あ、ありがとうございます……」
またどんな奇天烈なことを言われるのかと思っていたあたしは拍子抜けしてしまって、御礼を述べるとぺこりとお辞儀をした。それに出島さんは目を細めて頷くと、
「やっぱり、ここまで来た甲斐がありましたねえ。いやあ、役得、役得」
と意味の分からないことを口にする。
「さ、一緒にごはんにしましょう?」
漂白剤のCMの爽やかさで言うと、出島さんはあたしの手をつかんだ。そのまま、教室から離れようとするから、
「あ、ちょ、ちょっと待ってください、出島さん。まだホームルームがあるんです」
「まだ何かあるんですか?学校って面倒臭いですよね。その大部分が非効率的だっていうのに」
珍しく眉を寄せて、批判的なことを口走る。
「ええ、でも出ないわけにはいかないですから。ええと、それで」
それまでどこに隠れてもらおうか。部外者だってだけでも駄目なのに、加えてこの目立つ見た目。
あたしがせわしなく頭を動かしていると、廊下の向こうから白衣を着た人がこちらに向かってくるのが見えた。
あ、露井先生だ。そうだ。保健室に隠れてもらえば……。
「あの、露井先生」
あたしが呼び止めると、露井先生はレッドカーペットを歩くスターの足取りで近付いてきてくれた。
「あ、あの、先生、不躾で申し訳ないんですけど、お願いがあって、その」
あたしが言い終わらない内に露井先生はにやりと笑うと、
「ああ、このひと、うららちゃんの彼氏とか?で、私にホームルームが終わるまで匿っておいて欲しいって?」
「いや、彼氏じゃないんですけど」
「またまた。うららちゃんみたいに可愛いこを彼女にした、ラッキーな男の子ってのは君かな?」
くすくす笑いながら、風呂敷包みの中のお弁当の匂いを嗅ごうと顔を埋めている出島さんの方へ回りこむと、露井先生は出島さんの肩を叩いた。
「え、何ですか、うららさん?」
出島さんがいつもの呆け面で顔を上げ、露井先生と目を合わせ、そして、
「じょ、女史?」
「浩平……!」
と、二人して固まってしまった。
何!何なの?次は何だっていうの?
またややこしい展開になってるんだけど!
固まったままの二人をそのままにしておくわけにもいかなくて、あたしはそろそろと二人の間に立ってみた。
だって。もうすぐホームルーム始まっちゃうし。出島さんが学校関係者でないのは、明らかすぎるほどの明らかさだし。こんなところで出島さんを野放しにしておいて、あたしが心穏やかに過ごせるわけないし。
「あ、あの?」
おずおずと声をかけたあたしに、二人して再生ボタンを押されたみたいに急に動き出す。またそれが、ぎこちないんだ。まだ本調子でないのが、ばればれ。
「あ、あの。うららさん、このひととは、お知り合いで……?」
と、出島さんが露井先生を指差せば、
「うららちゃん。このひと、うららちゃんの彼氏だったりするの?」
と、露井先生が尋ねてくる。
「露井先生。出島さんは、ええと、ちょっと訳あってうちに居候している、インターン生です。出島さん。露井先生は、今学期から保健医に就任されたひとです」
あたしが簡潔にそう述べると、二人して、
「ああ。成程……」
あたしを一瞥して二、三度頷くと、またお互いを見つめ合ってだんまりを決め込んでしまう。
しっかし、ちょっと見つめ合い過ぎなんじゃないだろうか。確かに、二人とも、近年稀に見る容姿端麗さではあるけれど、そんな、ねえ。まじまじ見なくてもさ。あたし、ここにいるのに。出島さんの、馬鹿。
そんな心の声が聞こえたのか否か。出島さんは夢から醒めたように首を振ると、あたしに向き直り、
「あのね、うららさん。これは、僕の幼馴染なんです」
「え?」
「ていうか、腐れ縁?」
柳眉をしかめて、露井先生も言葉を添える。
は? お、幼馴染? で、出島さんと、露井先生が?
「あやのの方が、僕よりもひとつ年上ですが。な、年増女史?」
「その口、もぎ取ってあげましょうか、浩平ちゃん?」
「やれやれ。もう、若者の冗談が分からない?これは、しばらく会わない内に、思っていたよりも老けてしまったかな」
「時間は万人に平等に流れている、というような一般常識にすら欠ける、社会不適合者の浩平に言われたくないけれどね。それとも、今のは自戒の意味を込めての発言なのかしら? だとしたら、私が覚えている浩平よりも、少しは殊勝になったということねえ。うららちゃんのおかげね、浩平は自力で成長するようなけなげな人格はしていないものね。あら、黙ってしまうの?あらあら、ごめんなさいね。真実というのは、耳に痛いものだったかしらね、おこちゃまの浩平くん?」
「むー……」
「この私に勝とうなんて、千年早いわよ、浩平」
親しげに出島さんがからかうと、露井先生は動じずにそんな返答をする。
「お、幼馴染……ですか」
何にショックを受けているんだろう、あたしは。
出島さんがいくら変態で変質的自称河童だったとしても、幼馴染がいてはいけない道理はない。出島さんだって、昨日今日生まれたわけではないし。あたしに会ったのは、ほんの一ヶ月前なわけだし。だから、出島さんにあたしの知らないことがあったとしても、それは全く驚くようなことではなくて、寧ろ当たり前というか。おおいに予想されることだったことだし。それを考えもしなかったあたしが、どうかしているんだよね。
ぐるぐると頭が混乱し始める。
おかしい、いや、おかしいわけがない、これが当たり前なんだから、じゃあ何で普通に出来ないんだろう、まさか動揺しているんだろうか、でも何に動揺することがあるのか、そうだ容易に予想出来たことに対してあたしは何を考えているんだろう、何を考えているのかなんて、そんなこと。予測可能な出来事なんだったら、ショックを受けるべき理由が見つからない。なのにどうして頭がぐらぐらするの?
「うららさん?」
口元を手で覆って、黙ってしまったあたしの顔を、出島さんが覗き込む。反射的にその瞳を見れば、心配していますと書いてあって、あたしはますます混乱した。
何で? 何で、あたし、出島さんに心配されるような顔をしてるの?
「うららちゃん? 大丈夫? 顔色悪いわよ? 保健室、行く?」
露井先生までもが、そんなことを口にし出す。
「だ、大丈夫です。あ、ホームルーム、始まるので。あの、出島さんを……」
言い終わる前に、露井先生は頼もしい笑顔をあたしに向ける。
「ホームルームが終わるまで面倒見てれば良いのよね?」
「あ、はい。その、迷惑でなかったら」
「浩平は迷惑以外の何者でないけど、うららちゃんの頼みごとなら迷惑でも何でもないわ。気にしないで。ちゃんと、お利口さんにさせておくから」
魅力的な笑みを見て、あたしもつられて笑った。
「僕は犬ですか」
という出島さんの呟きが聞こえた気がするけれど、きっとそれは気のせいだ。
「ありがとうございます、露井先生」
頭を下げて言うと、露井先生は、
「あやの」
「え?」
「あやのでいいわ。あんまり、好きじゃないのよね。苗字で呼ばれるのって。だから、あやのって呼んでくれればいいから。ね?」
言って、あたしの頭を撫でてくれた。やっぱりあたし、相当変な顔してるんだ。露井先生にも心配されるなんて。本当、どうしちゃったんだろう、あたし。
ここは少し無理してでも、大丈夫だって思ってもらわないと。
だからあたしは、出来る限り溌溂な笑顔を浮かべると、
「じゃ、宜しくお願いします、あやの先生」
と言った。
「よろしい」
安堵した顔つきで、あやの先生が手を離す。そして出島さんにあごをしゃくると、
「ほら。行くわよ、浩平」
すたすたと保健室に向かって歩き出す。
残されたあたしは、何となく気まずくて、そそくさと教室に入ろうとした。すると、その手首を出島さんにつかまれる。決して乱暴ではないけれど、強い力でつかまれた手首に全ての意識が集中する。動悸が激しくなりそうで、あたしはそれを隠そうと、
「何ですか」
わざとぶっきらぼうに言った。
出島さんは何も言わずに、あたしの目をじっと見つめる。何ですかと、もう聞いてしまったから、それ以上何も言えなくて、だからといってそうやって言葉もなく見つめられるのはひどく居心地が悪くて、あたしは出島さんの靴を見つめた。
ややあってから、
「ホームルームは何時に終わりますか」
唐突に、そんなことを聞いてきた。
「えっと、ホームルームは四十五分なので、今からだから……」
「迎えに来ますから」
「え?」
「四十五分後に、ここに迎えに来ます。教室で待っていてください。絶対、どこにも行かないでくださいね」
妙に真剣な声音で言うから、あたしはその気迫に押されて頷いてしまう。
それを確認すると、出島さんはするりと手を離した。
「何ぐずぐずしてるの、浩平。さっさとしなさい」
ちょっと先で立ち止まったあやの先生の声に弾かれるようにしてきびすを返すと、出島さんはそのまま、何も言わずに去ってしまう。
いつもなら。
いつもなら、ここで嫌がるあたしを抱きしめたり、ほっぺたにキスしてこようとしたり、
うららさんと離れるのは嫌です~とか涙目で訴えたり、する筈なのに。そして、そういう出島さんを、あたしが怒ったり叱ったり、宥めたり賺したり、する筈なのに。
離れていく出島さんの背中を、今のあたしは見ていられなくて、足早に教室に入った。
ホームルームで何をしていたか覚えていない。気付いたら、周りのみんなが立っていて、慌ててあたしも立ち上がったら、先生が教室から出て行くところだった。四十五分間、あたしはぼんやりしていたことになる。
一体、何をあたしは気にしているんだろう。
普通に考えて、出島さんに幼馴染がいたっておかしくないし、それが異性の可能性だって多々ある。かくいうあたしの幼馴染は岡崎で、れっきとした男の子だもの。
でも、あの時。あやの先生に対して、気さくに話しかける出島さんを見ていたら、何だかおいてけぼりにされてる気になった。出島さんには出島さんの過去があって、人生があって、友達がいて、その、彼女さんとかもいるんだろうし。そんなこと、あたしは知ってた筈なのに。
失念していたんだろうか。
だから、衝撃的だったのかもしれない。
でも、何で、そこでそんなに落ち込むのか、自分で自分がわからない。
「訳わかんないよ、もう……」
一人ごちると、それを耳にした里香が首を傾げた。
「うらら? 大丈夫? 何かさっきからぼーっとしてるけど。あたし達、帰りにカフェにでも寄ってこっかって言ってるんだけど、うららどうする?」
「大丈夫、大丈夫。久しぶりの学校で、頭が働いてないだけ。あのね、えっと、あたし、その、ひとを待ってないといけないから、今日は、いいや」
意味もなく両手を顔の前で振りながら言うと、里香は目を細めて、ははーん、と言った。
「何よ」
「さてはあんた、さっきの美青年と待ち合わせしてるでしょ」
「え、ええ?」
「ったく。何が、ただの居候よ。うららも隅におけないなあ」
「そ、そういうんじゃないんだってば!」
「はいはい。ま、いいや。明日、ばっちり全部聞かせてもらうからね」
慌てふためくあたしに取り合おうともせずに、里香が他のこたちと連れ立って教室を後にした。




