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雨もしたたる良い河童(旧)  作者: 卯ノ花実華子
第二章 お風呂と涙と居候
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 普段の出島さんの顔色というのは、こう、陶器のようになめらかと言うか、化粧品広告のひとみたいなんだけれど。それが、珍しく紅潮していた。


 常人には到底理解出来そうにない動機でもって動いているらしい出島さんの、その興奮がどこから来るのかはさっぱりだけれど。とりあえず、唾がこっちに飛んでくるのは勘弁して欲しい。折角、お風呂に入ったばっかりなのに。


 それだけでも結構、気分を落ち込ませるには充分だというのに、たすくがその横からぎゃいぎゃい何かを喚いている。こちらも何故か興奮していて、その度合いを知らせるためなのかあたしの脇腹あたりを時折叩くのだが、これが地味に痛い。


 そもそも、ふたり同時にあたしに喚き立てられても、さっぱりなのだ。


 聖徳太子、あなたの凄さが今わかりました。あたしは、ふたりの声すら同時に聞き分けられません。


 頬に飛んできた出島さんの唾を片手で拭って、あたしはようやく大声を出す。


 「同時に話さないで! 何言ってるかさっぱり聞こえないから! たすく、叩くのをやめて! 出島さん、唾を飛ばさないでください!」


 ふたりは同時に動作を止めて、同時に口元に手をやると、ばつが悪そうな表情を互いに交換し合った。それから、ぽりぽりと後ろ頭を左右対称な動きで掻くと、やっぱり全く同じタイミングで、


 「ごめん、つい……」

 「ごめんなさい、つい……」


と言った。


 「で?」


 傲岸不遜なのは承知で、あたしは扇風機の前にふんぞり返って座り込む。たすくと出島さんがその後に続き、あたしの右斜め後ろに正座を決め込んだ。


 「姉ちゃん、このひと、河童……」


 あたしの目に宿る不機嫌度数の高さを、弟の勘で敏感に察知したたすくは、精々大人しい振りをして言った。


 その不穏な言葉に、あたしは出島さんの方を振り返る。まさか、自分が河童だとか言ったんじゃないんでしょうね!という視線を送ったのだが、出島さんのまるでゴムのように通電性の悪い神経には届かなかったみたい。何をどう勘違いしたらそうなるのか、あたしにハリウッドスターも顔負けのウインクを送ってきた。言葉のかけようがない。あんぐりと口を開ける手間を惜しんで、代わりにあたしは最悪の事態を逃れようとたすくに向き直る。


 「出島さんに何言われたか知らないけど、あんまり人の言うこと鵜呑みにしちゃだめよ」


 訳知り顔であたしが言うと、たすくははぁ? と素っ頓狂な声を上げた。


 「違うよ。オレが言ったの! ほら、これ」


と、たすくがあたしに差し出したのは、彼の愛読書、月刊 魑魅魍魎(ちみもうりょう) 。十二歳でこれが愛読書っていうのは、多少先行きを心配させるものではあるけれど、中身は至って真面目な半学術書だ。魑魅魍魎と 唱うた われる存在を世界中から集めては、毎月、そのうちの一つに的を当てる。そして、それの持つ、数々の伝説や逸話の掲載に始まり、たまに科学的にそれが存在してもおかしくないということを証明したりしている。


 今月号の表紙は、くすんだ緑色をした、恨めしい目つきのいきもの。それは河のほとりのような場所にしゃがみ込み、こちらに丸めた背を見せて顔だけを振り返らせている。手にはキュウリ。頭の真ん中には、白い円盤状のものが乗っかっているのか、くっついているのか。鼻のようなものはとんがっていて、 嘴くちばし に酷似した口へと繋がっている。すごく上手いイラストだからなのか、肌はなんだかしっとりとしていそうで、沼地のぬめりを連想させる。


 「河童……?」

 「そう! 今月号の特集は河童なの! で、これを見せたら、このひと、何か超興奮しちゃってさ。びっくりだよ、オレ。河童にこんな詳しいひと、初めてみた! 姉ちゃん、どこで見つけてきたの? 河童博士とかなの? このひと」


 いいえ、ただの自称河童よ。


 とは言えず。


 乾いた笑いで誤魔化そうと試みるあたしを、たすくがじっと見つめる。このこは、妖怪に何でこんなに興味があるのか……。


 何て答えて良いのかわからずに、出島さんを見ると、たすくの熱い視線よりも更に青春を感じさせる目つきでうんうんと頷いていた。甲子園を目指す高校野球部員と野球部監督みたいな構図。


 「たすくさんと仰いましたね。この雑誌はどこで手に入れられたのでしょう」

 「え、普通に本屋だけど」

 「素晴らしい! 僕は、このような雑誌が存在することも知りませんでした。刊行されてから長いのでしょうか」

 「三年前だよ。だってオレ、創刊号から読んでるもん」

 「ますます素晴らしい! それで、たすくさんは河童にはやはりお詳しいのですか?」

 「当たり前だよ! 河童は、オレの一番のお気に入りだもん!」

 「なんと!! そ、そ、それは何と光栄な……!! そ、それで、たすくさんといたしましては、河童のどういったところがお気に召されたのでしょうか」

 「えー、やっぱ、尻小玉と肝を抜くところ! かっこいいじゃん!」

 「……っ!!!! あああ、最早僕は感無量です。ああ、涙で視界が霞みます。素晴らしい。素晴らしいですよ、たすくさん。貴方のような方が、若い年代におられるのでしたら、これからの未来は安泰ですね」

 「大丈夫?」

 「ええ、ええ、大丈夫ですとも。ほ、他には何かないのですか。たすくさんの、河童のここは一押し! ポイントは」

 「う〜んとね。あ、河童って 水妖(すいよう)じゃん? で、他にウンディーネとかローレライとかもそうじゃん? で、水妖って大体すげえキレイな見た目なのに、河童だけ超ぶっさいくじゃん?しかも、何か肌がぬめってるっていうし。だから」

 「と、いうことは、たすくさんは肌がぬめっていても平気……?」

 「うん。つーか、かっこいいじゃん、その方が。転んでもケガしにくいし。ぬるぬるしてるから。強そうじゃん!」

 「お、おおおおおう! たすくさん! 貴方は天才です! そう、その通りなんです。河童の肌がぬめりを帯びるのは太陽などの光によって乾燥してしまうのを防ぐ、防御幕のような役割ももちろんですが、それ以上に、肌のぬめりというのは外敵から攻撃を容易にかわすためのものなのです。グッド目の付け所! ですよ! 略してGJ!」

 「いや、GJっていうのは、グッドジョブの略だと思うよ? お兄さん、そんな外人みたいな目してるけど、実は英語からっきしなひと?」


 もう、まったく、これっぽっちも参加する気力を与えない会話が、出島さんとたすくとの間で繰り広げられている。一応、声は耳には届いているものの、あたしは完璧に第三者を装うと、扇風機に癒されていた。


 ついに気が触れたのか、じゃないや、ついに感極まったのか、出島さんは文字変換出来ない類の悲鳴を上げると、何の前触れもなくあたしに抱きついてきた。痛いから! そして重いから!


 「うららさん、うららさん、うららさん、うららさん!」

 「何ですか、聞こえてますよ!」

 「どどどど、どうして、今までこんな将来有望な 弟君おとうとぎみ がおられることを秘密にしていたんですか!」

 「秘密になんてしてませんよ。出島さんが聞かなかっただけでしょ」

 「は! またそんな意地悪を! でも、良いんです。良いんですよ。本当はうららさんが心優しくて、僕のことをいつも 慮おもんぱか っていらっしゃってくださることくらい、僕にはお見通しですから!」

 「心優しい? 姉ちゃんが? ははは」

 「たすく、うるさいよ!」

 「ともかくですね!」


 あたしに絡まりついていた出島さんは、すっくと立ち上がると、木目の天井しかない上を見上げて、その無駄に長い両腕を広げると、


 「龍神様に感謝です!」


と歌い上げた。ミュージカル俳優?


 「姉ちゃん、このひと、ちょっと頭おかしいっぽいけど、すごいね。さすが、河童博士」


 たすくがあたしに耳打ちする。いつから河童博士になったのか。


 指摘するのも何だか馬鹿らしくなって、あたしは吐いた息と共にごろんと扇風機の前に寝転ぶ。その背後では尚も、暑苦しい河童談義が交わされている。


 会話に参加していなかったあたしの耳に、玄関の扉が引かれる音がした。


 お父さんだ!


 あたしの頭は高速回転で、どうやって次の窮地を切り抜けようかと考え始める。河童博士の出島さんが役に立たないのは、わかりきったことだから。ね。


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