7
「あああ! 大丈夫ですか、出島さん!」
努めて心配そうな声を上げて弟の気を引くと同時に、あたしは背後の出島さんに向けて 渾身こんしん の肘鉄をくらわせた。生身で尚かつ全裸の出島さんは、予想だにしなかった攻撃にぐふっとくぐもった悲鳴と共に上半身を二つ折りにする。
「たすく! このひと、あたしが河で溺れてたのを助けてくれたんだけど、お風呂でのぼせちゃったみたい。貧血かもしれないから、ちょっとここに寝かしておこうかと思って。でもほら、この通り、このひと全裸でしょ? だから、あたしが目を瞑って、手探りに助けようかと思ってたのよ。たすく、あたしの代わりにこのひとが浴衣に着替えるの、手伝ってあげてくれない?」
出島さんが痛みに声を殺している間に、あたしはさっさとありもしない事実をでっちあげようとする。誰に似たのか、疑り深い目で弟のたすくは、へん、と鼻で笑うと、
「河で溺れたのか、姉ちゃん。だっせえの。それで、そんな泥だらけなの?」
「ださくて悪かったわね。好きで溺れたんじゃないわよ」
「どうだか。どうせ、くっだらない理由で河に落っこちたんだろ」
「下らないかどうかはあたしが決めるわよ! いいから、こっちきて、このひとの着替えを手伝ってあげてよ」
「何で姉ちゃんがしないんだよ。姉ちゃんの恩人だろ、オレの恩人じゃないや」
「屁理屈ばっか言ってないで、早くこっち来てってば!」
「ちぇ、仕様がねえなあ。あ、あとで姉ちゃんのスイカ半分くれたら、そのひとの着替え手伝ってやってもいいぞ」
「何よそれ。物々交換しようっていうの!善意と物欲は、交換の対象にならないのよ!」
「スイカくれないんだったら、手伝わない。せいぜい、手探りで着替えさせてあげればあ?」
「むっかつくこね! いいわよ。このひとの分のスイカ、あんたにあげる。どうせ、このひとはスイカそんなに好きじゃないらしいし。それでどう?」
「お、話がわかるね、お兄さん」
棒アイスを口にくわえたまんま、たすくが脱衣所に入ってくる。出来るだけあたしは出島さんの方を見ないように、慎重に自分の体を彼から離した。うららさん、と蚊の鳴く声であたしを呼ぶのが聞こえたけれど、とりあえず無視して、彼をたすくに引き渡す。洗濯機の上の浴衣を手にしたたすくは、ばさっとそれを広げると、
「あ、でも、オレ、浴衣の着せ方なんかわかんないんだけど」
「いいのよ、適当で。あたし、廊下で待ってるからさっさとしてね」
そそくさとその場をあとにするあたしに、ひどい、適当だなんて、という出島さんの恨めしい声が追いかけてきた。が、とりあえず、今は避難避難! 一刻も早くこの全裸男から逃げなければ、あたしの乙女境界戦線が危ないっつーの。
廊下に出て、ドアを閉めて、やっとあたしは一呼吸つく。
せ、セーフ……。
ドアを背にして天井を見上げて、ふうと息を吐くと、ふいに後ろを支えていたドアが開いた。あたしはたたらを踏みながら後ろ向きに脱衣所に足を入れてしまうと、その肩を誰かが包み込む。
振り返ると、それはやっぱり出島さんだった。
よかった、ちゃんと着衣してる。
たかだか布一枚を体に纏っているかいないかで、こうも人間、まともに見えるのか。覚えておこう……。
浴衣を着た出島さんは、洋服とはまた違う雰囲気で、あたしは何だか目のやり場に困ってしまう。浴衣の柄に入った緑色が、出島さんの瞳に良く似合う。すらりと袖から出た手首に、やけに目がいってしまう。だからといって、それを凝視するのは恥ずかしいし……。そこへ、仏様のようなタイミングで、たすくがしゃしゃり出てくる。
「覚えておいてね、スイカ」
食い意地の張った弟は、それだけを声高に叫んで、居間の方へと去っていった。
たすくが完璧に去ったのを確認すると、出島さんは肩においたままの手に力を込めると、お岩さんのような調子であたしに迫ってきた。何か、禍々しいオーラが出てますよ?
「ひどいですよ、うららさん」
「な、何が、ですか」
「僕だって、スイカ大好きなんですから! ちょっと自分がスイカ好きだからって、弟さんにあげたくないからって、僕のスイカを取引に使うなんて」
「ふたつあったうちのひとつを台無しにしたのは、どこの誰ですか!」
「うっ、それは……。あでも、それも、うららさんに尻小玉のことを証明したくてやっただけですもん! 僕が食べたわけじゃないですもん! うららさんが疑り深いから……」
「ひとのせいにしない! それから、尻小玉なんていう単語をむやみに口にしない!」
「……だって、……うららさんが……」
「ぶちぶち文句を言わない! 判りましたか!?」
「はぁい……」
顔中に不本意です、と書かれているのに気付いているのかいないのか。それでも出島さんは、あたしの言葉にこっくりと頷いてため息をついた。やっぱり幼稚園児とかなんじゃないだろうか、このひと。
「ともかく!」
強引にあたしは話を進めることにした。出島さんのようなマイペース奇人には、これくらいのごり押しで丁度良いのかもしれない。
「あたしも、お風呂に入らないといけませんから。着替えを取りに行くついでに、居間まで案内しますから、出島さんは大人しくしててください。それから、岡崎にかけたよくわからない、ええと、力? を直してください。それから、決して出島さんが河童だとか、そういうことを言わないこと! それから、兎にも角にも大人しく、にこにこしてて下さい。この際だから、ちょっと頭悪そうと思われても構いません。現に、出島さんの言動はそれに近いものがあるんですから。それから、ええと……」
注意事項をまくしたてると、出島さんは目尻に涙を溜めて、よよよ、と時代劇の町娘のように泣き伏せると、
「ひどい、うららさんてば、ひどすぎる……。僕のことを全然信用してないじゃないですか……。俊希さんのは言われなくても、解くつもりでしたもん……。うららさんの家族の皆さんには、友好的にするつもりでしたもん。言われなくても、僕はハッピーパーソンですもん……。うららさんがいない間、居間で待っている間、僕がどんなに心細い気持ちになるかも知らないで……。それでも笑顔でいようとする、僕のけなげな努力も知らないで……」
「本当〜にけなげなひとは、自分のことをけなげとか言わないですよ」
「あ! 冷たい! うららさんが冷たい! 氷のようだ! うららさんの雪女! うららさんなんて、うららさんなんて、つららさんですよ!」
「何、上手いこと言おうとしてるんですか。ほら、ついてきて下さい。居間に連れていきますから」
今度こそ出島さんのペースに 嵌はま るまいと抵抗を続けるあたしが、きびすを返して廊下に向かおうとする。すると、案の定出島さんは慌ててあたしの後を追ってきた。ふふふ。計算通り。心の中でほくそ笑むあたしの腕を、出島さんが掴む。
「なんですか」
「手」
「え?」
「手をつないでくれたら、大人しくしてます」
「何、たすくみたいなこと言ってるんですか。ほら、行きますよ」
「手! つないでくれたら、うららさんのお望み通り、にこにこしてます。河童のことも尻小玉のことも黙ってます。俊希さんも、誰にも気付かれないように元通りにします。だから……。だめですか?」
あああああああ、もう!
掴まれていた腕を振りほどいて、その反動を利用して出島さんの手を握った。お風呂上がりにちゃんとタオルで拭かれたらしいそれは、ぬめってはおらず、だからこそ余計にあたしを緊張させる。こんな、普通の男のひとみたいな手をされてたら、何だか普通のひとの手を握っているみたいじゃない。
えへへ〜と満面の笑みを浮かべる出島さんが、あたしの顔を覗き込もうとするのを意識的に気にしないようにする。そして、心の中では呪文のように、出島さんは変人、出島さんは河童、出島さんは変態、と呟き続けるあたしだった。




