1
夏。日射しが眩しいとか暑いとかってレベルじゃないくらいの熱気と湿気。
あたしの住む村は田舎だ。東西南北、どっちを向いてもそびえ立つのは山。山、山、山。細い小川のようなものならちょろちょろとそこいら中を流れていて、大きな河は一本、ずどんと村の真ん中を流れ続けている。
お隣さんは何百年も前からお隣さん。村長さんは何年も前から村長さん。たばこ屋のおばあさんは娘にたばこ屋を譲って、郵便配達のおじさんは息子に配達の仕方を教える。かくいうあたしの家も、何代も前から同じ職についている。村で唯一の神社。そこの神主と巫女を務める。それが、あたしの家系に課された仕事だ。
村の東の方、山の麓にある家が私の家。家族構成は平凡な感じ。両親、あたし、弟。あと、おばあちゃん。おばあちゃんはおじいちゃんと二人で山の中で暮らしていたんだけど、おじいちゃんが亡くなって、おばあちゃんを心配した両親が説得して、今はひとつ屋根の下。
おばあちゃんは恋愛結婚だったそう。それってこの小さな村では大層なことなのだ。
残念ながらおじいちゃんはあたしが生まれる前に他界してしまったから、会うことは叶わなかったけれど。
「そんなにいい男だったの?おじいちゃんって」
冗談のつもりで聞いたのだけど、おばあちゃんはにやりと片頬だけを歪めて笑うと、しみじみと目を閉じて何かを思い出すように言ったのだ。
「ああ。良ーい男だったねえ」
恋愛。それはあたしにとっては未知の世界。そもそも、まわりにいる男どもと言ったら三歳の時から傍にいて、鼻くそほじってて怒られたこともどうしてもトイレが我慢出来なくて洩らしてしまって大泣きしたことも、スカートめくりに必死になって階段から落ちたこともエロ本の隠し場所を大声で話していることも知ってるやつらばかり。ロマンスもへったくれもあったもんじゃない。
こう見えてもあたしは、夢見る乙女なのだ。自分で言うとちょっと気色悪いけど。
中学校にあがる前くらいかな、あたしは恋愛もの、と呼ばれるジャンルの本たちに出会った。そこに出てくる男の人っていうのは、みんながみんな、線が細くて優しくて気遣いがあって、なのに力持ちでスポーツも出来て、しかも頭が良くてお金持ちなのだ。そして何故だかいっつも瞳の中に星が光っていて、話したり笑ったりするときらきらする。たまに汗まで光ったりする。
だから、おばあちゃんの言う『良い男』だったおじいちゃんというのは、そういう感じだったのかもしれないと思うわけ。
いいなぁ。
おばあちゃんには気付かれないようにため息をついたつもりだったんだけど、うちのおばあちゃんの聴力というのは衰えるということを知らないらしい。
人が悪い、と形容しても許されるような笑みを浮かべると、おばあちゃんは、
「あんたはどんな男と恋に落ちるのかねえ。楽しみにしてるよ」
と、あたしの頭を撫でくり回しながら言った。
河川敷。水がこんなに傍にあるにもかかわらず、一向に暑さは大人しくなる気配を見せない。あたしはせめて楽しいことでも考えようと、おばあちゃん曰く、あたしが近い将来出会うであろう相手について妄想を働かせていた。そうでもしないと、あたしの今の状況はお世辞にも褒められてたものではないから。巨大なスイカを両手ひとつずつ持って、風すらない炎天下を歩く、というのは中々精神的にこたえるものがある。
河を見下ろせる位置にある道路。舗装なんてものはもちろんされてなくて、固い土で出来たこの道は延々、河沿いに続いている。村であたしを見つけると、神主であるお父さんへの贈り物だといって、村の人はいつも何かしらとあたしに託すのだ。たまに、未来の巫女さんに、なんて言われるときもある。今日はスイカだったのだ。異様な大きさに育ったスイカは、赤ちゃん二人分くらいの重さはあると思う。時々その重量に耐えかねて地面において、背中を反らしたり腕を振ったりする。そしてまたひとつずつ手にして、家へと向かってこの河沿いの道をひたすら歩く。何でいたいけな乙女にこんな重労働を強いるかな。なんて愚痴りたくもなる。
ふっと視界が暗くなった。上を見上げればあんなに自信ありげだった太陽は、灰色の雲に遮られている。雲は厚くて濃い墨色をしていて、これから降らせる大仕事にはりきっていると言った風。
やばい。
と思った瞬間、大粒の雨があたしを襲ってきた。あまりにも大量で力強いそれは、むき出しの私の肩にあたると痛みを伴う。
あたしから見て左手が河。大粒の雨を河はぐんぐんと飲み干していく。もう充分水は飲んだろうに。飽きないかな。いい加減。龍神ってのは結構食い意地がはっているのかもしれない。
走ろうとした途端に重さを増すスイカを半ば引きずるようにして、あたしは先を急ぐ。とりあえず、どっか。どっか、屋根のあるとこに。雨のせいで、何だか前がよく見えない。なんなんだ、この雨。村は、確かに雨がよく降る方ではあるけれど、こんなスコールみたいな雨。ちょっと異常?
右手には村内巡回バス停留所。ちょっとがたはきているけれど、一応屋根がある。飛び込むと、下しか見えていないうなだれた視界にちらりと誰かの靴とズボンが見えた。どうやら先客らしい。
むき出しだった脚は跳ね返った泥で、キリン柄になっている。水を滴らせて輝くスイカを地面において、あたしは目に入ってくる雫を拭う。ぷるぷると軽く頭を振って、雨に濡れた髪を傘の水滴を落とす要領で乾かそうとしてみる。まあ、のれんに腕押しな感じだけれども。濡れ鼠ってのは、こういう状態を言うんだな、とかぼんやりと考える。
バス停から見える景色は少しだけ角張っていて、そこから見えるのは降り注ぐ雨とそれを受け止める河の姿。お日様は雲の間に隠れてしまったけれど、雲の厚みが風によって薄まったりすると光だけはまだ地上に届く。う
っすらと黄金色に照らされた空気の中で、雨の雫はきらきらと輝いた。天から落ちてくるそれは、角度を変えて、大きさを変えて、まるでガラスの破片が舞っているみたい。
万華鏡に似てる。
「万華鏡に似てませんか?」
「え?」
あまりに唐突に話しかけられたものだから、しかもあたしが思っていたのと全く同じことを口にするものだから、呆けた声が出た。
隣に立っているらしい先客は、人なつこい声音で更に、
「随分降られてしまいましたね」
「ああ、そうですね。ま、放っておけば乾くんでいいんじゃないですか」
といつもの、ぶっきらぼうとか無愛想とか可愛げがないとか冷たいとか色々揶揄されることが多い口調で答えてから、私は声のした方に向き直った。
今まで生きてきて、こんなにきれいな男の人を、私は見たことがない。着ているものは地味極まりないものなのに、何故だか洗練された雰囲気を醸し出す。夏にきちんと靴を履くひとを、お役所以外であたしは見かけたことがない。目はアーモンドみたいな形。上の口唇が少し薄くて、化粧でもしているのかと疑うくらい理想的なピンク色をしている。その口唇であたしを見ると、ふと笑うのだ。
こういう人、あたしは何度も会ってきた。本の中で。あたしの想像の中で。か細くて、繊細で壊れそうで、でもれっきとした男のひと。まさか、現実世界にも存在するとは。
穏やかに微笑む彼を凝視したまま言葉をなくした私を、彼は困る風でもなく、ただ見つめ返した。やんわりと。あくまで柔らかに。
ボン!という爆発音を頭の中で聞いた気がする。急に気付いた。
あたし、いま、男のひとと、見つめ合ってる?
体中を巡っている血液がいつもの倍の速さで巡回を開始し、顔が火照ったように熱くなっていくのを感じる。恥ずかしい!
首がねじり切れるんじゃないかっていうスピードで、私は彼から目をそらすと、哀れなキリン柄になった自分の脚を見つめた。
マシンガンの勢いで鳴り響く鼓動が戦車の力強さをもってしてあたしの頭の中を爆走する。顔は相変わらずお風呂でのぼせた時みたいに熱い。落ち着け、あたし。
意を決して顔を上げると、雨を見つめる彼の横顔が目に入ってきた。瞳がほんのりと緑がかっている。外人さんなのかもしれない。
「か、観光客の方ですか?」
あたしの質問に、彼が振り返る。自分の胸のあたりを長細い人差し指でさして、ワタシデスカ?と聞いてくるので、あたしはこくこくと頷いた。他に誰がいるというのだ。
「いいえ。インターンシップです」
「いんた……? 仕事ってことですか?」
「ええ。そんなものですね」
「何でまたこんな僻地に……」
半ば本気であたしは同情する。だって、こんな僻地に仕事で飛ばされるって、明らかに左遷じゃん。あでも、インターンシップってことは見習いって感じなんだっけ。それにしたって、ここで見習うことって何があるのってね。だけど、彼はひどく真面目に、
「ここは素晴らしいところですね」
と言うのだ。これにはあたしも面食らった。
「どの辺が?」
思わず突っ込んで聞いてしまう。だって。龍神に見初められた村、とは言うものの、村には観光者を大勢呼び込むほどの工芸も景観もないはずなのだ。たまに訪れる物好きの観光者は、一様にちょっとがっかりしたみたいに河を眺めるんだもの。
「空気が澄んでいる。この豊かな自然。あの山々。そして、この河。今日び、こんなに恵まれた場所はそうそうないんですよ。僕はとても幸運です」
「はあ……」
ぶっちゃけあんまり同意は出来ないんだけど、村を褒められて悪い気もしない。曖昧に相槌を打って、あたしは更に問いかけてみる。
「何のお仕事なんですか?」
「河童です」