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雨もしたたる良い河童(旧)  作者: 卯ノ花実華子
第二章 お風呂と涙と居候
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 ままになれ! とあたしは心の中で強く叫んだ。だって、そうでもしないと、今のこの状況を切り抜けることは難しそうだったから。


 本当は目をきつく瞑ってしまいたかったんだけど、そうすると目標を見誤るかと思って、目を開けたままでいた。目のなかに出来た腫瘍を取り除くために、目を開けたまま、注射をされたというひとの体験談を思い出した。目の周りの筋肉には麻酔はかけられるけど、腫瘍は黒目の中にあって、そのひとは起きたまま、近付いてくる針を見ていなければならなかったそうだ。軽くホラーよね。自分の意志で体を動かして、当然のように出島さんへの距離が近付いていくにも関わらず、あたしはここから抜け出したい気持ちだらけだった。いっそのこと、あたしの心だけ麻酔をかけられたらいいのに。


 いやもう、まじでさ。本当に、何でこんなことになっちゃってんのか、誰か説明して欲しい。あたしが、あの時バス停で出島さんに出会ったから? あたしが、龍神様を祀る神社の巫女だったから? あたしが、出島さんに見とれちゃったから?でも、仕様がないよね? 全部、偶然の上に重なってることなんだもん。強いて言うなら、あの時降ってた雨のせいだ。あれさえなければ、あたしはあのバス停に足を寄せることもなかった。そしたら出島さんには会わなかったし、そしたらきっとあたしは昨日までと同じように、穏やかな毎日を過ごせてた筈なんだ。


 そう思うと、それが、昨日までの日々がすごく懐かしい。取り戻したい気持ちにだってなる。でも、何でだろう。それでいいのかと思う自分がいる。それでいい筈なのに。そんなこと、分かり切ったことの筈なのに。


 ぐるぐると、自分の尻尾を追いかける犬みたいにして、何の結論にも辿り着けないあたしの思考が終わらないロンドを舞っているあいだに、ついにあたしは出島さんの口唇に触れてしまった。自ら。自ら、自分の口唇を出島さんのに重ねるなんて。お風呂場で。お風呂が入るのを待っている間で。肝心の出島さんは、意識がないし。これじゃああたし、ただの痴女じゃない! ……さようなら、乙女だったあたし……。今日からあたしは、妄想癖のある痴女です……。


 加減がわからなくて、あたしは口唇を思いっきり押しつけたらしい。にょ、とお互いの口唇が動くのがわかって、恥ずかしくて情けなくて、泣きたいのを必死に堪えて、少し顔を引いてみる。最低限触れているだけだったけど、それでも効果はあったらしい。出島さんの口唇が震えた。尻小玉、少しは出島さんに渡せたってことだろうか。思わずあたしは、自分の置かれた状況も 弁わきま えずに安堵のため息をついた。もちろんそれは、出島さんの半開きになった口の中へと消えていく。


 と。


 ぐわし! とあたしは頭を鷲掴みにされたかと思うと、とんでもない力で体を強く引き寄せられる。声を上げる間もなくあたしの開いたままの目に、出島さんの顔が少し精気を取り戻すのが写り、それから出島さんの舌があたしの口唇に触れた。


 全く予想していなかった展開に、あたしは目と口とを閉じようとする。視界は無事、現実逃避出来たのだけど、口の方はそうもいかず、出島さんの舌がこじ開けていく。口を閉じた時に、息まで止めてしまったみたいで、出島さんの舌が口唇のすき間から侵入してきて、あたしの歯列をなぞるとそれがくすぐったくて、遂に息を吐き出してしまう。となると、当然口が開いてしまうわけで、となると、当然出島さんはそれに便乗してしまうわけで。


 河の中で、出島さんが助けにきてくれたときの感触を思い出した。あのときは、何だかぼんやりとしていたし、まるで夢の中の出来事のようだったけど、今回はそうはいかない。


 あたしの耳には、蛇口から流れる水の音がしっかり聞こえているし、出島さんの指があたしの髪をかき分けるようにしてあたしに触れるのも感じる。出島さんに密着している肌が、そこだけじんじんと熱い気がするのは、あたしの気のせいだろうか。


 それから、これ。目を閉じたのは、良いアイデアではなかったのかも。視界が閉ざされたせいで、他の感覚が過敏になっている。


 出島さんの舌が、あたしの口の中で暴れている。緩急をつけて頬の内側を刺激されたり、撫でるように歯をなぞられたり、急に舌を吸われたり。自然災害みたい。あたしには、抵抗する術が見つからない。


 考えられない。考えたくない。言葉にしたくない。何も思いたくない。ただ、今のこれを、このままにしておきたい。あたしは自分の感覚に戸惑う。


 一瞬だったのか、長い間だったのか、そんなことさえもわからない。気付けば出島さんの顔があたしから離れていて、といってもそれは充分に近い距離だったのだけれど。離れようと体を動かしたら、出島さんの首に自分の腕がくっついているのが見えて、ますますあたしは顔を赤くした。


 すっかり健康体に戻った風体の出島さんが、人差し指をあたしの唇につける。しー、と赤ちゃんにするみたいにあたしを静かにさせると、その指先をあたしの鼻頭にくっつけた。相も変わらず、うっとりするような笑顔を見せると、


 「うららさんは、まるで王子様のようですね。僕のピンチを救ってくれました」

と言った。


 お前がお姫様なのかよ。


 あたしは、出島さんのその呑気な顔を殴ってやりたかったのに、何だかその元気になったらしい阿呆面を見たらホッとしてしまって、盛大にため息をついてその肩に頭を預けた。それから、背中に伸ばした手でぎゅっとシャツを掴んだ。


 もう。心配させやがって。でも、心配しただなんて、口が裂けても言ってやらないんだから。

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