2
岡崎はスイカと一緒に突っ立ったまんまで、あたしは声も出せなければ、出島さんに強く捕まえられていてろくに動けもしない状態で、出島さんは相変わらずの外面の良さで、事の重大さをまったく理解していないお母さんは、そんなあたしたちを招き入れた。ようやく、あたしは自分の足で地面を踏むことになり、少し安心する。
「俊希くん、スイカ冷やしたいから、ちょっと台所の方まで持っていってくれる? うらら、あんた、出島さんにお風呂を湧かしてさしあげて。河に入ったんなら、洋服も汚れてしまったでしょうしね。出島さん、着替えを探してきますから、どうぞおくつろぎになって下さいな」
お母さんが二階に、岡崎が虚ろな目のまま台所の方に消えて行くのを見届けると、あたしは電光石火の早さで振り返って出島さんに拳骨を見舞わせてやろうとした。拳を予期していたように片手で受け止めると、出島さんは、
「お風呂場に案内してください、うららさん」
と、有無を言わせない調子で言って、やれやれと出島さんが首を振る。いちいち腹の立つ! 掴まれたままの拳を振り払うと、蹴りでも入れてやろうかと体を低くした。頭上からお母さんの声がする。
「何やってんの、あんた。お風呂。ほら、さっさと用意する! ほらほら! ごめんなさいね、出島さん、気の利かないこで。お風呂が出来るまで、お茶でもご用意しますわね」
ふん!と出島さんに睨みをきかせてやると、あたしは荒々しい足音を立ててお風呂場に向かった。背後で聞こえた、くすりという笑いが、どうにもこうにも腹が立つ!
お風呂場の引き戸を乱暴に開けると、あたしはどっかとプラスチック製のいすに座り込んだ。あの、くそ河童! そう独りごちてみようとしたのに、やっぱり声が出ない。これも絶対出島さんのせいなのに。あたしに何をしたんだ、あの変態河童。
確かに、追い払おうと色々考えていたけれど、裏拳で顔をはたいたり、悪口言ったりもしたけれど、でも、本気で出島さんを嫌いだったわけじゃない。憎かったわけじゃない。なのに、どうしてこんな仕打ちに遭わされているのか、あたしには皆目見当がつかないのだった。こんな、ひとの言葉を封じて、お母さんを丸め込んで、意地悪して、そんなに酷いこと、あたしは出島さんにしたのかな。
今までにだって、家族と口論したり、弟と取っ組み合いのケンカしたり、友達といざこざがあったりしたけどさ。それには、全部理由があって、あたしも相手もそれをわかっていて、だけど意地になったりするからケンカが長引いて、でも、だからいつかは仲直りが出来るんじゃないの?こんな理不尽なの、ケンカですらない。
優しくしてくれた出島さんと、今の最低野郎な出島さんとのあまりの落差に、あたしは何だか悲しくなってくる。怒ってもいるけれど。でも、それよりも、何でこんなことになっているのか判らなくて、頭が混乱していく。こんな、恩を仇で返すみたいな。やっぱり、悪いひとだったのかな、出島さん。あたしに、ひとを見る目がなかっただけなのかな。もう、悲しいんだか怒ってるんだか、何が何だかわからない。ただ、あたしはお風呂場でひとり、言葉も出ないまま、涙を流した。あたしを泣かすなんて、あのいじめっこ河童め。
「やっぱり泣いてる」
まるで気配のしなかった背後に、出島さんが立っていた。引き戸が開く音もしなかったというのに。驚いて振り返ったあたしには、涙を拭う暇もなくて、微笑む出島さんの目から逃れようと慌てて顔を隠した。
「泣かないで、うららさん」
誰のせいで泣いてると思っているんだ、このお気楽河童!
「ちゃんと説明しますから。ね? 強引な手段だったのは認めます。理不尽な仕打ちだとうららさんが思っていることも、承知しています。恩を仇で返したと思われましたか?自分にはひとを見る目がないと思われましたか? だとしたら、ごめんなさい」
浴槽のふちに腰掛けると、出島さんは真摯な口調でそう謝った。
「でもね」
言いながら、泥のついたスラックスに包まれた長い脚を組む。
「こうでもしないと、うららさん、僕を追い払おうと思われていたでしょう?」
ぎく。
「うららさん、まだ僕が河童だって信じてないでしょう?」
ぎくぎく。
「だったら、今、うららさんが話せないのはどうしてですか? 俊希さんの様子がおかしいとは思われませんでしたか?」
岡崎も、あんたの仕業なの!とあたしは責め立てたくて、顔を上げてしまう。声が出ないっていうのは、思っている以上にすごく不便だ。
よいしょ、と緩慢な動きで出島さんが、浴槽のふちをスライドする。あたしの目の前までやってくると、真正面からあたしの瞳を覗き込んだ。緑がかった瞳。それがあたしをじっと見つめる。涙が頬にひっついたまま、まだ乾いていないのを知りつつも、あたしは対抗意識みたいなもので、出島さんのそれを見つめ返してやった。
「あのね?」
いつものおちゃらけた声ではない、甘い声音で出島さんが口を開く。
「僕は、信じてみようと思っています。僕のことを信じてみる、と言ってくださったうららさんを。だから、僕が嘘をついているだなんて思わないでください。僕が、本当は悪い人間だなんて思わないでください。そもそも、僕は、人間ではないのですから」
そんな風にあたしを懐柔しようったってね、と、あたしは鼻に皺を寄せてやった。
「気付いてますか? うららさんが巫女さんだからではなくて、うららさんが龍神様に仕える一族だからでもなくて、僕は、僕個人の理由で、うららさんが必要なんです。だから、うららさんが僕を追い払おうと思われるんでしたら、少々無理な手だてを使ってでも、僕はうららさんの傍にいられるように尽力を尽くします。今回に関して言えば、僕はみっつ、力を使いました。ひとつはこのハンカチを人の目に見えなくすること」
は、そういえば、そうだ。あの阿呆らしいハンカチの姿が、ない。
あたしの反応を楽しむように、出島さんは頭に手をやると、何もなかったはずのそこからは、見慣れた緑色のハンカチが現れた。
「ふたつめは、うららさんの言葉を封じたこと。みっつめは、一時的に、俊希さんから先程頂いた尻小玉を使って、邪魔にならないように静かにしていてもらったこと」
淡々と話す出島さんは、まるで知らないひとのようで、あたしにはそれがすごく悲しく感じられた。信じてみる、と言ったあたしを信じようとしているのならば、その実、出島さんを煩わしく感じていたあたしには当然の報いなのかもしれない。
ただ単純に、謝りたいと思ったわけじゃない。
ただ単純に、こいつを殴り倒してやりたいと思ったわけじゃない。
ただ単純に、態度を豹変させて出島さんを信じようと思ったわけじゃない。
でも、ただ、他人のように冷たい態度の出島さんを見ていると、出島さんがくっついてきたときの腕の感触だとか、ぬるぬるしていた手の平のこととか、泣きそうになった出島さんの笑顔なんかが、たくさん脳裏に浮かんできて、あたしにはどうすることも出来なかった。
「泣かないでくださいよ、うららさん」
出島さんの言葉で、あたしは彼を睨んだまま、涙を流していることに気付く。これで、泣き顔を見られるのは二回目だ。
「うららさんに、泣かれるのが、僕は一番嫌なんですから」
泣かしたのは、どっちとも出島さんのせいなのに。
口唇を震わせて、ぽろぽろと目から雫をこぼし続けるあたしに、出島さんは愛おしげに目を細める。それから、膝の上にあったあたしの手をひっぱると、自分の方へと引き寄せた。膝立ちの体勢で、出島さんに抱え込まれる。涙が止まらなくて、泣き顔を見られるのが嫌で、あたしが手を振り払って顔を隠すと、出島さんはあたしの腰をつかんで持ち上げた。変なところでやけに男っぽい出島さんの手は力強く、そのまま彼の片方の太ももの上に座らされる。お風呂場のタイル目が、足の指に触れた。
あたしが落ちてしまわないように、片手を腰に回して、もう片方の手であたしの髪を撫でる。河の水で汚れているだろう髪を、ゆっくりと、指先で確かめるように撫でる。
言葉も出ないのに、あたしの涙はやがて肩を震わせる。
ますます、両手を顔から離せなくなって、あたしはただただこの時が過ぎ去るのを祈った。
しかし、まったく成果が現れないと、出島さんは髪を撫でる手はそのままに、顔を近付けるとあたしの強張った指先に口づけた。全ての指に、おまじないでもかけるようにして、触れたか触れていないかわからない程度の口づけを繰り返す。そして、次は指を一本一本、口に含んで軽く歯を立てた。一本一本、あたしの顔からはがしていくみたいに。
そのせいかどうか、あたしの指から力が抜けていく。行く先を失った指たちは、重力に導かれるまま、膝の上にと落下した。
出島さんの顔は、まだあたしのすぐ傍にあって、おでこに口をつけられる。徐々にそれは下がっていって、眉に、眉間に、泣きはらした瞼に、鼻に、頬にと、出島さんの口唇を感じながら、あたしはされるがままになっていた。
それは、例えていうなら水の中に漂っているような気分で、あんなにささくれだってぐちゃぐちゃになっていた心が、すうっと静まっていく。
あたしの肩の震えが治まったのを見ると、そこで初めて出島さんは顔を離して、にっこりと微笑んだ。
「泣きやんでくださいましたか?うららさん」