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さすがにあたしと岡崎、二人から同時に肉体的折檻を与えられたのが効いたのか、出島さんはそれからの道中、時たま例の河童民謡を口ずさむだけで、とても大人しくしていた。
河沿いの道を延々と歩いて、と言っても数十分ってところだが、ようやくあたしたちは目的地、つまりあたしの家に着いた。山の麓にある母屋から少し離れた隣に鳥居があって、そこから伸びる石の階段を上って行くと、神社がある。
出島さんはその何の変哲もない鳥居を感慨深げに見つめると、ワーオ、と呟いた。
「どうしますか? 出島さん、先に神社に向かいます?」
尋ねると、鳥居を見つめていた目をこちらに向けて細めると、
「うららさんは?」
「あたしは、ほら、靴も履いてないし。岡崎に送ってもらっちゃったし、スイカ運んでもらっちゃったし。色々やることがあるから」
「じゃあ僕も」
期間としては決して長くはないが、濃度の高い時間を過ごしてきたあたしには、出島さんの言葉が不安を駆り立てるものにしか聞こえない。
とりあえず出島さんを神社にやっておいて、あたしはその間に岡崎にお茶を出し、弟あたりに岡崎の相手をさせ、おばあちゃんにことの経緯を説明して、何とか出島さんに帰ってもらう算段をするつもりだったのだ。出島さんのこと、嫌いじゃないけどね。可愛いところあるし、基本的には良いひとだと思うし。でも、このひとをあたしの日常の一部にするには、あたしには、人生経験値が足りない気がする。ただ、傷付けるのはあたしの意図ではないから、なるべく穏便に帰ってもらおうと思っていたのだ。出島さんの泣き顔ほど、同情を誘うものはないからさ。そして、その方法を今までの帰り道で今いち見つけられなかったから、おばあちゃんに助力を願おうと思っていたのだよ。
そんなあたしの思惑とは、明らかに違う方向に転換しようとしている気がする。なのに、それを回避する方法がわからない。
「僕も、ですか」
故に、彼の言葉をただ繰り返すだけになってしまった。
「はい。僕もうららさんと参ります」
「えーと、どこへ、ですか?」
「うららさんのおうちにです。あそこに見えるのが、うららさんのおうちなんでしょう? 神主さんですもんね。巫女さんですもんね。龍神様のお側にいないといけません。となると、あの家は、うららさんのに違いありません」
「わ、わあ、すごい推理力ですね」
「さ、参りましょう!」
言葉と共に出島さんが、当たり前のようにあたしを自転車の荷台から持ち上げた。何故か今回はお姫様抱っこではなく、河原に連れて行かれたときのように俵持ちだ。そうして、これまた当然のように自転車を停めようとしている岡崎に向かって、
「俊希さんはスイカをお願いいたしますね」
と、言った。あたしが懇願の視線を送るが、岡崎とてどうも出来ないのだろう、素直に出島さんの言葉に従う。
「ごめんくださ~い」
主婦の口調で、出島さんが玄関の引き戸を開ける。は~い、とのんびりしたお母さんの声が聞こえて、足音が近付いてくる。
「は~い、どなた……、うらら?」
「た、ただいま……」
「あんた、散歩に行ったまんま、いつまでたっても戻って来ないから。木村さんからも、うららにスイカを渡したからって電話がかかってきたのに、どこほっつき歩いてたの。あら、俊希くん、いらっしゃい。あらあら、スイカを運んでくれたの? うららに無理矢理頼まれたんでしょう、ごめんなさいね。ほら、あんたからもちゃんとお礼言いなさいな。良かったらあがってってちょうだいな、俊希くん。おはぎをもらったのよ、良かったら食べていって?」
「あの、おかあさま? どうして、この、俵担ぎされているあたしにはノーコメントなのかな?」
あまりに長い間、お母さんが事態の異常さに気付かないもんだから、そう言わざるをえない。俵のように出島さんの肩に乗っかっているあたしは、頭が出島さんの背中側にある。つまり、今あたしはこうやってお母さんに正面を向いているということは、出島さんは後ろを向いているということだ。にしても、普通気付くでしょ。あたし、こんなに背高くないし、立ってるにしちゃあ猫背過ぎるだろうしさ。
「あら? あら、あらあらあら。何されちゃっての、あんた」
それは、されちゃっている身分の台詞です。
ぐるり、とあたしの視界が百八十度回転した。これで、お母さんには出島さんの顔が、あたしには開けっ放しの玄関とスイカを持って立ち尽くす岡崎が見えることになる。
「はじめまして、うららさんのお母様」
「ま!」
声から察するに、お母さんは早くも出島さんの文学青年風スマイルにやられたらしい。
「あの、どちら様でしょう……」
明らかに不審人物だというのに、見てくれのよさに騙されているらしいお母さんは、えらくソフトな物腰でそう尋ねた。
「お母さん!」
そう声を上げてみたが、岡崎がそれに反応するだけで、お母さんの気を引くまでには至らなかったみたいだ。それを良いことに、出島さんは流々と自己紹介を済ませてしまう。
「初めまして。僕は、本日付でNCKより派遣されました、インターン生の出島浩平と申します。うららさんは、河で溺れてしまったので、少しお疲れのようです。差し出がましい行為かとは思いましたが、このようにうら若きお嬢さんがふらふらになって歩いているのを見過ごせず……。どうやら河でスイカをひとつなくされてしまったようですが、もうひとつはうららさんのご友人の俊希さんが偶然拾ってくれたようです」
はああ? どこをどうすれば、そんなことに。しかも、スイカ弁償しない気だ! NCKって何だ! どこの機関だ!お母さんが横文字に弱いことを知ってのことなの!?
あまりにもあまりな内容に閉口してしまって、あたしはぱくぱくと口を開けたり閉じたりした。無論、そこからは実のある言葉など、ひとつも紡がれない。
「ま~そうでしたの。あんた、よく助かったわね。さっきの大雨で随分河も荒れていたでしょうに。龍神様が怒ってらっしゃったのかもよ? あんた、日頃っから巫女のお仕事さぼってばっかりだから」
余計なことをお母さんが言うと、案の定、出島さんが反応した。
「龍神様?」
「ああ、うちはね、代々この村の神社を守る家系なんです。龍神様を祀っているんですけどね。出島さん、って仰ったかしら?この家の横に鳥居があったでしょう。あれを上っていくと、神社にたどり着くんですよ。なんだったら、うららに案内させてやってくださいな」
「それはご親切に。そうか、龍神様ですか……」
出島さんが勿体ぶって、考え込む素振りをすると、お母さんはまんまと誘導されて、
「それがなにか?」
「いえね。僕をここへ派遣した方々は、龍神様に並々ならぬ研究意欲を持っていらっしゃるんですよ。かくいう僕も、龍神様にはゆかりがある者でして。うららさんが、龍神様を祀る神社の巫女さんだなんて、何だか運命みたいなものを感じてしまいますね」
「出島さんは研究者か何かですのね?」
「ええ、まだまだひよっこですが……」
「お母さん、このひと、嘘ばっかり言ってるから!」
そう叫ぼうとした矢先、脇腹に添えてあった出島さんの指が一点を押した。何をどうしたらそうなるのかさっぱりだけど、ともかくあたしは声が出せなくなった。正確には、あたしは話しているつもりなんだけど、声が出ないのだ。
この、ひとでなし! 猫かぶりやがって! この猫河童!!
「まあま、研究者さんがこんな村にねえ」
「いいえ、この村は素晴らしいところですから。僕は、いかにここに勤務出来ることになって幸せかと、そう、うららさんにもお話していたところです。そう言いましたら、うららさんが村の案内をしてくれるとおっしゃって下さって。環境も人柄も良い村なんて、まるで理想郷ですね」
言ってない! 案内するなんて、ひとことも言ってない!
「あら~うららがね。あんたも優しいところあるのね。このこ、ちょっとドライでね。別に冷血ってわけじゃないんですけど、無愛想でね」
「そんな! うららさんは、本当に優しくしてくださってますよ、僕に」
「そう言っていただけると、母親としても嬉しいですわ。出島さん、村にはどれくらい滞在されるご予定ですの?」
「一年は確実です。成果如何にによって、滞在期間が延びることはありますが。ただ……」
声を落として、淋しそうに笑う出島さん。
なに、次は何を考えているの!
「ただ?」
「急に決まったものですから、まだどこに住むかも決めていなくて……。住居先が決まらないことには、荷物も送れませんし。身一つで来てしまった僕が馬鹿なんですが、これからどこに泊まろうかな、と考えていまして……」
……まさか!
「それはお困りでしょうね。小さい村ですから、ホテルなんて気の利いたものもありませんしね。たまにやってくる観光客の方々も、近隣の街から日帰りでやって来られるだけですから」
「そうですか……」
「あの、出島さん? もし、よろしければ、のお話ですけれどね」
やめて、お母さん! その先は! その先は、言っちゃだめ!!
「うちは、代々神社に仕える一族として、一時は使用人なんかも雇っていたようなんです。まあ、見た通り、ちっとも新しくもきれいでもない家ですけれど、部屋だけは余っているんですよ。どうでしょう、出島さんさえよろしければ、うちに住まわれませんか? 男の方の一人暮らしも淋しいものでしょうし。うららを助けていただいた恩もありますし」
最悪。最、悪。最、低、最、悪!!!!
お母さんの馬鹿! 馬鹿、馬鹿、馬鹿! 河童の馬鹿! あとで覚えてろよ!!
怒りのあまりに涙が出そうになる。あたしはいまだに声の出ない口を必死に動かして、何とか岡崎だけにでも気付いてもらおうとした。岡崎なら、出島さんが本当はどういうひとなのか知っている。岡崎がお母さんに話せば、お母さんだって……。
だけど、スイカを両手にした岡崎は、虚ろに玄関の奥にある廊下を見つめるだけで、あたしに気付かないどころか、今のこの会話にも興味がないようだった。
どうしちゃったの、岡崎! 今はあんただけが頼りなのに!
「え、ええと、それは、嬉しい提案ですね……」
絶対!これを狙っていた筈なのに、出島さんはわざとらしく照れたように声を裏返らせる。無理にとは言いません、とお母さんが言うのを遮ると、あくまでも謙虚な態度を崩さずに、
「では、お言葉に甘えて……」
あたしの思いも空しく、出島さんはそう答えたのだった。