12
もう何度目だろう。出島さんが半泣きであたしに謝罪の言葉を並べるのは。
出会ってから何回もありがとうとごめんなさいを言ってきた出島さんだが、この数分間で軽くその記録を塗り替えたんではないだろうか。
というのも、あたしが般若の表情で一向に出島さんのことを許そうとしないからだ。
でもね、あたしにだって言い分があるんだって!
あの後。ひとの首筋に歯を立てて、シュークリームの匂いがするなどとほざいた後。あたしは自分が出島さんに抱えられているということも忘れて、思いっきり平手打ちを食らわせた。至近距離からの攻撃に、出島さんがを地面に落っことして、あたしは顔面着陸をした。痛む鼻をさすりつつ、自身の頬を押さえながらもあたしに手を差し伸べようとした出島さんを振り払って、あたしは傍観者を決め込んでいたらしい岡崎のもとに駆け寄った。
出島さんが変態なのは、もうわかった。リアクションがいちいち激しいのも、感情表現が単純で、すぐにひとにくっつく癖があるのもわかった。でも、シュークリームの匂いがするから美味しそう、と歯を立てられたあたしは、何だかとても惨めな気分になったのだ。おいしそう。そこには普段の出島さんとは違う、卑猥な響きが込められているようで、あたしはこの、まだ知り合ったばっかりのひとにがっかりした。どんなに変人でも、紳士なひとだと思っていたのに。それより何より、そんなケダモノな出島さんにうっかりときめいた自分に、一番がっかりした。
今、あたしは岡崎の自転車の荷台に乗っかっている。片方だけサンダルを履いたままなのもどうかと思ったから、サンダルはスイカと一緒にかごの中に放り込んだ。あたしは河に向かって横座りをしていて、同じ側に自転車を押している岡崎がいる。そして、出島さんはそんなあたしの周りをぐるぐると旋回しながら、謝り倒しているのだった。
「うららさん、うららさん。何度謝っても、犯してしまった罪が消えないのはわかります。でも、本当に悪いと思っていますから。お願いですから、無視はやめてください」
語尾にすすり泣きが重なる。ちらっと見ると、本当に泣いているみたいだった。
…………。
い、いかんいかん。ここで甘やかすから、出島さんがつけあがるんだわ。
ふう、とため息をつくと、岡崎があたしの肩を叩く。
「黄本、出島さんもこれだけ謝ってるんだからさ。全部水に流せとは言わないけど、名誉挽回の機会をあげてやっても良いんじゃない?」
「う、うう……」
あたしに負けず劣らずのおひとよしな岡崎の言葉に、あたしの、出島さんとは金輪際他人の振りをしようという決意は早くもぐらつきそうだった。
「俊希さん……」
うるうるした瞳で岡崎を見つめると、出島さんは涙に濡れた頬を太陽に反射させて、
「うららさん。本当に、本当に、ごめんなさい」
「…………」
「黄本?」
「うららさん?」
「ったく。許したわけじゃないですからね!」
「はい!」
あたしの言葉に出島さんが顔を輝かせる。
「つーかさあ」
言いながら、岡崎があたしの髪に鼻を近付ける。なに! 岡崎、あんたも出島さんに感化されて変態になっちゃったの? 杞憂に目を見開いたあたしを、くんかくんかと嗅ぎ回すと、岡崎は出島さんに向き直り、
「シュークリームの匂いなんて、しないんすけど」
と、言った。
「えーそうですか? おっかしいなあ。もう、それはそれは美味しそうな匂いがしたんですよ? 焼きたてのシュークリームの匂いが。それで、つい、僕も理性を失いかけまして」
「弁解になってない! 言い訳にすらなってない! 公衆の面前で理性は失わない! そもそも、ひとのことを美味しそうって形容するなんて、どんな神経してるんですか。シュークリームだろうがショートケーキだろうが、失礼ですよ!」
やかんが沸騰するみたいに頭から湯気を出して怒るあたしに、意外な言葉が返ってきた。
「そうかなあ? 黄本、考えようによっちゃ、すげえ褒め言葉だぞ?」
「は?どこが? 何をどうしたら、それが褒め言葉に聞こえるの?」
「いや、そりゃあ、讃岐うどんの匂いがするって言われたら、俺もちょっとどうかなって思うけどさ。焼きたてのシュークリームの匂いって、確かに良い匂いじゃんか」
「そ、そういうもんなの……?」
許容量の意外に大きい岡崎の言葉に、あたしはばつが悪い思いをする。
「それはそうと、出島さん。気になってたことがあるんすけど」
「はい、何でしょう」
「シュークリームが美味しいって思えるってことは、シュークリーム食べたことあるんすか?」
確かに。素朴だが鋭い質問だ。自称妖怪の好物がシュークリームだなんて、冗談みたいだもんね。
「はい! 僕、お菓子と言わず、食べ物は全部好きです。食べられないものがないことが、僕の自慢です」
「いや、それはどうでもいいんすけどね。だってほら、尻小玉がないと生きていけないって言ってたじゃないですか。だから、俺はてっきり河童ってのは、尻小玉のみで生きているのかと思ってたんすよね」
「ああ、ほんとだ。良い質問だね、岡崎」
「おう」
こほん、ともったいぶった空咳をすると、出島さんは手を背中の後ろで組むと、教師の口調で説明してくれる。
「尻小玉、というのは河童の生命活動を担う大事なものです。これによって僕たちは精気と呼ばれる物質を他の生きものから、自分の体へと移すことが出来るからです。僕たちの祖先は多分、尻小玉と肝だけで生きていたと思われます。これはまだ研究が進められている状況ですので、一体どれくらいの期間、尻小玉と肝で生き延びていたのかは定かではありませんが」
しかし、と右人差し指をこめかみの横に持ってくる。
「元来緑色だった皮膚が人間のものに近くなったように、僕たちは歴史の中で、人間社会に適合しようとしてきたんです。その中で、いつしか僕たちは、最低限の尻小玉の摂取のみで生きる術を覚えました。尻小玉というのは、純度が高ければ高いほど僕たちの体に取り込みやすくなるんです。ですから、野菜やフルーツといったものも、生で口をつけた方が、僕たちの体には適している。でも、それだと人間社会では通用しない。そういった過程の中で、僕たち祖先は人間とおなじ食生活を営むことを覚えたと思われます」
淀みのない出島さんのスピーチに、思わずあたしたちは聴き入ってしまう。ほう、と納得した声を出すと、出島さんは満足げに歯を見せると、
「なので、皿の乾きにさえ気を付けていれば、僕たちは人間と同じ食生活のみで尻小玉を摂取することが出来るんですよ」
「結構、複雑なんすね、河童も」
「そーですよー」
お気楽に言うと、出島さんはあたしを優しく見つめて首を傾げた。悲しいかな、あたしの心臓は懲りもせず、またばくばくと脈打ち始める。
「いつもは、人間と同じものを食べている僕ですから、加工された食べ物でも好きなものはたくさんあります。でもね、目の前に熟れた実がなっているというのに、他のものを食べろだなんて、それは拷問ですよ」
ん? 熟れた実?
「据え膳喰わぬは何とやらと、昔から言いますでしょう」
んん? 据え膳?
気付けば、いつのまにか出島さんはあたしの背後に回っていて、そっとあたしの髪に触れた。そして、あくまでもさりげなさを装ってその匂いを嗅ぐと、
「何て良い香り…。讃岐うどんの匂いがします…」
と、呟いた。
「反省の色がない!」
あたしの放った裏拳が出島さんの顔に、岡崎の手刀が頭頂部に炸裂した。