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雨もしたたる良い河童(旧)  作者: 卯ノ花実華子
第一章 大雨とバス停
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11

 皿が~乾くと困るよ、ホイ! 皿が~いっちばん大事~ハイ! 皿が~なけりゃあ河童じゃない、ああ、河童じゃない~皿、皿、皿、さ~らさら~ハイハイ!

 

 「出島さん、何ですか、そのふざけた歌は」


 意気消沈して口数の減った岡崎と、生足を出島さんにさらしているという事実に、心の均衡を崩して黙ったままのあたしを尻目に、出島さんは調子っぱずれな歌を歌い上げているのだった。音痴とかではないのだけど、かといって美声というわけでもないけれど、メロディが悪いわけでもないのだけど、歌詞が。ね。さ~らさら~ハイハイ!って大声で歌われちゃってもさ。


 「あれ? ご存知ありませんか? 河童民謡のひとつです」

 「いや、普通は河童民謡なんてものが存在するわけないんですけど」

 「え~でも、ほら、鮫にだって民謡があるじゃないですか」

 「は? 民謡? 鮫??」

 「民謡、かなあ。僕は前奏部分しか聞いてないんですけど」


 ここで出島さんは、鮫の民謡なるものの前奏部分を鼻歌で歌ってくれた。これは……。


 「ご存知ですか?」

 「ええと、知っているには知ってますけど、それ、民謡じゃないですよ」

 「ええ、そんな!」


 相変わらずリアクションが激しい出島さん。


 「それ、ジョーズって映画のサントラだと思いますけど。鮫が登場する場面で使われる」

 「え、でも、ジョーズって鮫ですよね?」

 「確かに鮫ですけど、だからって、民謡とは限らないんじゃないんですか?」

 「ううう、賢介め……嘘を教えやがりましたね……。おかしいとは思ったんです。だって、前奏部分だけで、一向に歌が入ってくる気配がないんですもん」

 「そこなんですか?」

 「だって! 民謡ですよ? 民謡といったら、うららさん、歌って踊れる大衆の心の旋律ですよ」

 「そんなに熱いものだとは知りませんでしたけど……」

 「民謡とはすなわち、昔話や神話と同じくして、歴史を世界に伝える素晴らしい手段のひとつなんですから!」

 「それは、ちょっと偏った意見な気がしないでもないんですけど……」

 「鮫にもそのような民謡があると知って、僕の心は歓喜に打ち震えたというのに。賢介のやつ」


 誰のことを言っているのかわからないけど、どうやら出島さんは騙されていたらしい。にしても、鮫の民謡なんて信じるかな。河童の民謡だって十二分におかしいっていうのに。


 虚空に向かって口唇を尖らせ始めた出島さんは、どうやら架空の賢介とやらに不満をつのらせているようだった。


 首に腕を回しているあたしには、出島さんの顔はどうにもこうにも至近距離すぎて、目が合おうものならショック死ものだから、なるべく前を向いていたのだけれど。出島さんが、やや上空を見つめているのを良いことに、あたしはここぞとばかりに彼のその秀麗な顔を見つめた。


 こうして客観的に見ると、いかにその容姿が優れているかわかるというものだ。形の良い耳も、少し締まった頬の肉も、日本人離れした高い鼻も、男臭すぎない眉も、見れば見るほどため息が出そうになる。頭に乗っけたハンカチが時たまズレ落ちそうになるのを、髪を揺らす仕草で防ぐ、そんな動作さえ演舞のようで。出島さんがキレイでハンサムで美しいってことを確認する度に、あたしは複雑な気持ちになる。だって、こんなに格好良いひとが、さ~らさら~ハイハイ!って歌うんだよ? あたしでなくても、遠い目をしたくなる筈だ。


 哲学的思考を喚起させる出島さんの容姿を眺めていたあたしの視線に気付くと、出島さんはやおらあたしを見つめ返すと、とびきりの笑顔を向けた。


 「うららさん、僕、河童民謡を龍神様に捧げようと思うんですけど、どう思いますか?」

 「え。歌うつもりなんですか、今の民謡を」

 「いえ、他の民謡もありますから、今のでなくても良いんですけど」

 「でも、歌うつもりなのは変わらないんですね?」

 「ふふふ」


 不気味ににたりと出島さんは口元を緩めると、

 「歌って踊っちゃうつもりです」

 「それは……」


 瞬時にあたしの脳裏に浮かび上がる光景。神社の境内でさ~らさら~ハイハイ!とひょっとこよろしく踊る出島さんを、不審げに見つめる参拝者たち。いやあね、あのひと、暑いとああいうひとが出てくるから、というひそひそ声をものともせずに踊り狂う出島さん。うららさ~ん!とあたしに駆け寄ってくる出島さんを見て、それみたことかと頷き合う参拝者たち。ほら、あれ、黄本さんとこのお嬢さんよ。大人しい顔してねえ、あんな変なひととお付き合いがあるなんて。


 「だめだと思います!」


 自分の妄想でダメージを受けたあたしがそう言うと、出島さんはしゅんと項垂れた。そうすると、ハンカチが落ちそうになるから、出島さんは渋々顔を上げる。首もとの髪が流れ落ちて、あたしはそれを撫でてみたい気になった。


 「なんでですかー?」


 語尾を伸ばすな、語尾を。


 「その、昼間だと、そう、昼間だと太陽が出てしまう可能性があって、そんなところで踊ったりしたら、出島さんの命に関わるから、だめですよ。だったら、村のひとたちが寝静まるのを待って、もとい、太陽が完璧に沈んでしまうのを待って、それから思う存分民謡を捧げた方が、村のひとに見つかる可能性も低くなるし、じゃないや、出島さんの健康にも良いと思います。ね。そう思いませんか?」


 何度も繰り返した失言をカバーするように、あたしはにっこりと笑ってみせた。


 出島さんも、あたしに微笑みかける。ふう。一件落着。


 「うららさん」


 大人びた声であたしの名を呼ぶと、出島さんはあたしの首もとに顔を埋めてしまう。


 はいっ?


 硬直するあたしとは裏原に、出島さんは気持ちよさそうにあたしの首周りの髪に鼻をこすりつける。猫がそうするみたいに。くすぐったくて、あたしは身を捩らせるのだけれど、出島さんは鼻であたしの髪をかき分けると、首筋の肌に自分の肌をくっつけた。口唇と思われるものがあたしの首をそっと上下する。何度も、何度も。その度に、あたしは鳥肌が立つような感触を味わう。時折、出島さんが歯を立てたりするから、いよいよあたしは息を止めるしかない。だって、そうでもしなくちゃ、声を上げてしまいそうだったから。


 「僕ね、同じ事を何度も言うってよく言われるんですよ」


 低く甘い声で出島さんが言う。


 「知ってます」


 消え入りそうな声量しか出ない自分が恨めしい。吐息が漏れるような笑いが、あたしの耳朶を刺激する。ああ、もう、いっそ気を失ってしまいたい!


 「だからね、何度も言ってしまったのは承知の上で、もう一度言います」

 「な、なにをですか」


 恥ずかしくて恥ずかしくて、それを出島さんに知られるのももっと恥ずかしくて、あたしはせいぜい平静を装った相槌を打つしかない。願わくば、声が震えているのに出島さんが気付きませんように。


 「僕は、うららさんに出逢えて幸せ者です」


 ゆでだこのように真っ赤になってしまったあたしの耳にもう一度、その口唇を触れさせると、出島さんは首に顔を埋めたままになってしまう。


 「あ、あの、出島さん、前を見て歩いてください」


 面白味の欠片もないことしか言えないあたし。


 自分の心臓の音が邪魔で、他のものが聞こえなかったあたしの耳に、妙なものが聞こえてきた。息遣い?ううん、ちょっと違う。息を吸う音がいやに大きく、しかも吸ってる時間が長い。深呼吸というには何か切羽詰まったものがあるし。


 眉根を寄せてあたしは、目だけを動かして出島さんを見る。固く閉じられた出島さんの目はあたしが見ていることなど気づきもしないのか、一心不乱にあたしの首筋の匂いを嗅いでいた。その行為には、何だかマニアックな香りがぷんぷんする。有り体に言えば、素っ裸にコート一枚羽織っただけのおじさんと同じ匂いがする。


 変態? あたしは変態にどぎまぎしていたのか?


 「出島さん?」

 「うららさんってシュークリームの匂いがしますよね……。良い匂い……。おいしそう……」


 キテレツなことを言ってのけると、出島さんはあたしの肌に噛みつかんばかりの勢いで口をつけた。


 「変態!」


 あたしの怒号と共に繰り出された平手が、恍惚とした出島さんの頬を打った。


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