10
うきうきと河原から拾い上げたハンカチを河の水でふたたび濡らすと、何の躊躇もなく出島さんはそれを自身の頭にのっけた。皿を保護するつもりらしい。江戸時代の飛脚のようなヘアスタイルの下に、ハリウッドスターのような顔が笑んでいるのは、何というか、和洋折衷? ネオ飛脚スタイルの立案者である出島さんは、気の毒そうに岡崎を見つめるあたしに悪意のない笑顔をふりまいた。
岡崎に同情を禁じ得ないのは、あたしだけではない筈だ。
半ば、というよりも明らかに強制的な手段で、同性から尻小玉を奪われてしまった、つまり、ゲイでもないのに男からキスをされてしまい茫然自失状態の岡崎に目もくれず、出島さんは颯爽と立ち上がった。例の、ハンカチを頭に乗っけた、突っ込みにくい髪型で。
「出島さん。ちょっと、質問があるんですけど」
おずおずと手を挙げるあたしを、出島さんは体操のお兄さんの爽快スマイルで迎えてくれる。
「なんなりと!」
「出島さんって、その、いわゆる、バイセクシャル、とかだったり、します?」
句読点が多い、などと言ってはいけない。この、禁句にも思える質問をするのに要したあたしの勇気を考えれば、この程度の句読点で済んだことは奇跡に近い。出島さんはこの奇跡に対して、ぱちくりと大きな眼を瞬かせると、ミントの匂いでもしそうな新鮮な笑みで、はっきりと答えた。
「違いますよ」
「じゃ、……」
岡崎、すんごい可哀想じゃないですか。ちらりと風化しそうな勢いの岡崎に目を向ける。痛々しくて見ていられない。哀れな岡崎。
そんなひとの心の機微には鈍感らしい出島さんは、またしても彼独自の思考回路でポジティブな解釈をしてみせると、
「あああああ、なるほど!」
と、手を打った。その古典的な仕草は、その古典的な髪型と相まって、何故だかあたしにひょっとこのお面を連想させた。時々、出島さんがひどく滑稽に見えるのは何故だろう。黙っていれば、王子様みたいなのに。あの出逢いを返して欲しい。あの、繊細そうに見えた文学青年風な出島さんは最早、どこにも見当たらない。
「はは~ん、さてはあれですね。うららさん、やきもちですね!」
嬉々として柳眉を上下に動かす出島さんのその顔面を、河原の泥まみれにしてしまいたい衝動を押さえて、あたしは努めて冷静に、違いますとだけ言った。出島さんはがっかりした風でもなく、
「またまた。うららさんは、あまのじゃくさんですね。でも、安心してください。僕はバイセクシャルではありません。う~ん、鋭いところを突いてきますよね、うららさんは。河童の中にはバイセクシャルなひとって結構多いんですよ。と、いうのもですね。先程も申しましたが、僕たちは誇張なしに、尻小玉がないと生命活動を行えなくなってしまうんです。ですから、緊急事態には同性異性問わない、という習慣がついていまして。そこから、バイセクシャルの方向へと行ってしまう方達もいるというわけですよ」
「本当~に尻小玉がないと死んじゃうんですか?」
「本当ですよ。証明してみせたいところですが、僕はまだ死ぬわけにはいきませんので、お見せ出来ません。でも、本当です」
「本当~にバイセクシャルじゃないんですか?」
「本当ですよ! 僕はいたって誠実で一途な河童です!」
自分で言うなよ、そんなこと。
「まあ、その話は半分ほどだけ聞いておくことにします。じゃ、神社に向かいますか?」
「半分……?」
首をひねっている出島さんを置き去りにして、あたしはそっと心ここにあらずな岡崎の肩に手を置いた。かわいそうに、余程のトラウマになってしまったのか、脅えたように体を震わせると、あたしの顔をみて心底ほっとしたように息をついた。重ね重ね、すまん、岡崎。内心、感謝と罪悪感で手を合わせるあたし。
「あ、黄本か……」
「ごめんね、岡崎。出島さん、ちょっとっていうかかなり気持ち悪いけど、悪気はないんだよ。犬に噛まれたと思って、忘れてあげて。あたしも忘れるから」
あたしにもその経験があるからさ。どういう気持ちか、わかるよ。とは言えないけど。
「犬に……噛まれた……はは、ははは……そうだな、そう思えたら楽になれるよな」
病んだ目でそう呟く岡崎が立ち上がるのを助けるあたしに、降り注ぐ妙な視線。誰か、とは問わなくてもわかる。こういう目でみるのは、今のところ出島さんだけだからだ。
「なんですか、出島さん」
「う、うら、うらら、うららさん。うららさん!」
「叫ばなくても聞こえます。何なんですか、もう」
「さささささ、サンダルが! サンダルが片方ありませんよ!」
ひいい、と悲鳴をあげてぶくぶくと口から泡を吐きそうな勢いの出島さんが気付いた通り、あたしはサンダルを片方しか履いていなかった。河に落っこちた時に履いていたサンダルが流されてしまったらしい。ちなみにもう片方は、出島さんがあたしの脚を拭こうとして脱いでいたので、そのまま河原に残してあった。
「ああ、そうですね」
「ああ、そうですね。ああ、そうですね、ですって! 由々しき事態ですよ! どこ、どこに行っちゃったんですか、あ、河ですか。河ですね。そうですよね、河ですよね。結構速い流れでしたもんね。さっき、落ちてしまわれたときになくしてしまわれたんですね。今なら、泳いで探せば見つかるかもしれません。あ、大丈夫、大丈夫ですよ。僕は河童、水の眷属ですからね。あの程度の流れの中を泳ぐのなんてちょちょいのちょいですよ。ちょっと僕、探してきますから、ここで待っててください!」
出島さんってパニくると、同じ事を繰り返す癖でもあるんだろうか。
いそいそと河に向かおうとする出島さんを、あたしは必死の体で引き留めた。
「大丈夫ですって、出島さん! それより、太陽が出て、ただでさえ皿が乾くだの力が出ないだの言ってるひとが、そんな泳いだりしちゃったらまた精気が必要になるんじゃないんですか?」
「そうですね、多分、精気が足りなくなると思います」
あたしのことを、何かおいしいものでも見るような目つきの出島さんを、敢えて無視してあたしは続ける。
「じゃあ、とりあえず、神社に向かいましょう。訳を話せば龍神様が何とかしてくれるかも知れませんよ?」
もちろんこれには何の根拠もないのだが、龍神様の名前を出せば何とかなるのではないか、というあたしの勘は見事に当たったようだった。出島さんは、そうですね、龍神様なら、とか何とか言いながら河から離れると、おもむろにあたしの目の前に立った。ちなみに、出島さんが近付いてくるのと同時に、逃げるようにして岡崎は、道に置きっぱなしになっている自転車を取りに行った。
「でも、僕の大事なうららさんを片方サンダルのまま歩かせるわけにはいきませんよ?」
誰が出島さんの、だ。そう言ってやりたかったのだが。
時として機敏な出島さんは、流れるような動きであたしの後ろに手を回すと、片方を腰に、もう片方を膝の裏につけた。そしてそのまま、ひょい、とあたしを持ち上げたのだ。あまりに急なことで反抗する間も与えられなかったあたしは、とにかく落ちないようにと手足をばたつかせ、結局他に自分の体を支えられるものを見つけられずに、出島さんの首にしがみつく羽目になった。
ただでさえ恥ずかしいこの体勢なのに、出島さんは例の黙っていれば何とやらな微笑みで、あたしに噛んで聞かせるようにゆっくりとこう言ったのだ。
「僕の大事なお姫様なんですから」
頼むから、正気ではないと言って欲しい。こんな歯の浮くようなことを言いのけるのは、小説の住人か、頭のおかしいひとか、はたまた生粋の気障なんだろうか。何にせよ、この手の言葉を耳元で囁かれるあたしの身にもなって欲しい。しかも、逃げ場がないときた。急に動悸が激しくなったあたしの鼓動が、出島さんには伝わっていませんように。憤死したら、出島さんのせいだ。心臓マヒを起こしたら、出島さんのせいなんだから!
自分自身の困惑から一刻も早く離れようと、あたしはわざと自転車を立て直している岡崎に声をかけた。
「岡崎、うちに寄っていきなよ」
「お、おう」
何されちゃってんの、お前、とあたしを見る岡崎の視線が痛い。
「あ、あとさあ。そこのスイカ、岡崎の自転車のかごに乗っけてくれないかな?あれ、お父さんになんだ」
「お、おう」
あくまでも出島さんには近付かないよう、遠回りをして岡崎は河原に戻ってくると、スイカを拾い上げて、ちらちらと出島さんを気にしつつ自転車のかごにスイカを乗せた。
あたしをお姫様抱っこしたままで、尚かつハンカチを頭に乗せたままの出島さんは、悠々と河原の斜面を登り切ると、清々しい笑顔で、
「じゃあ、参りましょう、うららさん、俊希さん。いざ、龍神様のおられる神社へ!」
と、無意味に声を張り上げた。
「お、おう」
岡崎が覇気のない相槌打つ間、あたしは自分の心臓に静まってくれと必死に懇願していた。