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季節の呼ぶ声

湖の記憶

作者: 稻葉野々

覚えているのはこの富士の麓にある湖の記憶だけで、他は、顔の造りすら頭に残っていない。


数少ない写真を何度も見ているから判るには判るが、本当にこの人が、というのは疑わしいし、別人だと云われればそのまま信じ込んでしまいそうである。そのくらい、曖昧である。

声が好きだったような気がする。臓器に響くような低い声で母親と喋っていた気がする。

気がするだけで、確証はない。

そのときの父の記憶より、その傍で泣いている母のほうが印象深かった。何故泣いているのだろうかと不思議に思っていたし、そんな姿を見るのは単純に悲しかった。

父が声を低くして話していたのは、元来の低音を保っているのではなく、私に聞かれないようにする為だったのかもしれない。


母の葬儀を済ませ、その他諸々の始末をようやく終えたので、ひと段落の区切りとして、私はこの覚えのある湖に足を運んだ。

家族も一緒である。夫と、一人娘の沙耶。

十月に入ったというのに、都心はまだまだ夏の終わりの気配を微塵も感じないが、ここには一足早く秋が訪れていた。

風が冷たい。湖の近くというのもあるだろうか。温度の低い水の空気を吸って、風は足元から身体をきんと冷やしていく。沙耶がくしゃみをした。私は持っていたストールを蓑虫みたいに巻いてやった。

「私もここに来たのは、沙耶と同じくらいの年だったのよ」

誰に云う訳でもなく、真っ直ぐ前を向いたまま、独り言よりは大きな声を出した。

夫は黙ったまま、湖に浮かぶアヒルのボートを見つめ、沙耶は振り返って、おばあちゃん達と来たの?と訊いた。

「そうよ。おばあちゃんと、おじいちゃん」

「おじいちゃんもいたんだ」

そう、おじいちゃんも居たの。

私は沙耶を見下ろした。

匂いも、雰囲気も、父の記憶という記憶はほとんど全部すっぽり抜けてしまったけれど、確かにここには来た。湖で手を繋ぎ、枯葉をざくざく踏みつけ、松ぼっくりを拾ったのだ。

「海よりも静かだね」

「湖には波がないからだよ」

そんな会話をした気もするが、私が勝手に作り出した記憶なのかもしれない。しかしその奥で母が眼を細め、私を見つめていたことだけは、たぶん捏造ではない。

沙耶はしゃがみこんで、足元に落ちていたどんぐりを拾いはじめた。

私は夫の横顔を盗み見る。最近は、疲れているというより、寂しそうな顔をしていることが多かった。目の下の隈も酷い。

「葬儀が終わったばかりで申し訳ないが」

この台詞はいつあの口から零れてくるのだろう。こちらの心の準備はとっくに出来ている。

好きな女が出来た、別れたい……。

そんな話を彼から聞いた瞬間、私の中で今までしてきた愚かな妄想は現実になり、恐ろしい速度で日常は壊れていく。そのことも覚悟はしている。

そのとき、私は泣くのだろうか。覚悟しているとはいえ、やはりいつかの母のように、父の記憶すら薄れさせるような表情をして、泣いてしまうのだろうか。


父に会いたいと言ったことは一度もない。

母は「あなたが会いたいなら、連れて行くけど」と選択権をくれたが、実際私には別に会いたくない、という答えしかなかった。

そう言うと、母は喜ぶのだ。もちろん顔には出さないけれど、幼いながらに察していた。

不安そうに尋ねてきた表情が緩み、そう、と一言呟いて、それから私を抱きしめる。私も母の首にしがみつく。

泣かないで。私は離れていかないから。

そう伝わるように、必死にしがみつく。

母に嫌われるわけにはいかなかった。本当は、父にも少し、会いたかったけれど。

声を聞きたい。顔を見たい。と、思ったこともあった。

でも、それを言ったら母はきっと悲しむ。

だから父のことは記憶から失くすしかなかったのだ。会いたいと思うことがなくなるくらい、記憶がなくなってしまえばいいと思ったのだ。


そろそろ帰ろう、と夫が上着に入った車のキーを取り出した。

日が傾き、赤い光が紅葉をさらに燃えるような色に染め上げる。古ぼけたスピーカーから五時を報せる夕焼け小焼けが鳴っている。湖の向こうの山が影絵みたいに聳えている。

まさしく、秋の気配がした。

だけど同時に、秋って掴み所がないなぁ、と思った。夏ほど暑くないし、冬ほど寒くない。ぼんやりしていて、気がついた頃にはもう、そこには居ない。去年の秋はどんなだったか、思い出そうとしても難しい。

でも、季節の掛け渡しとしてきちんと存在している。

曖昧だけど、静かだけれど、確かに、秋はある。

私が一番好きな季節だ。


「ねぇ、今度は近くの旅館に泊まりしようか」

つい口をついて出てきた言葉に、自分が一番驚いた。

沙耶は顔を上げ、大きいお風呂もある?と目を輝かせて訊いた。こうなったら、訂正するわけにはいかない。

あるわよぅ、うんと大きいの。

私が返事をすると、彼女は飛び跳ねて喜んだ。高く結んだふたつの髪の毛がウサギの耳のように跳ねと合わせて揺れる。前ポケットに入れたどんぐりが溢れ出した。

やっぱり、この子には家族の思い出を作りたい。

例えいつか壊れてしまうのだとしても。

私が残せなかった楽しい記憶はきっと、自分の家庭を作る時に役に立つだろう。

夫は振り返り、一瞬私と目を合わせると、沙耶の隣にしゃがんで頭に手を乗せた。

「そうだな、沙耶。次はお泊りだな」

力いっぱい頷く沙耶を見て、思わず胸が締め付けられた。


もし私と同じように、沙耶も父のことを忘れてしまったとしても。

そのときには、この湖の記憶だけでも残っていればいい、残してあげたい。

そう思い、すぐに終わってしまう秋の空気を惜しむよう、めいいっぱい胸に吸い込んだ。


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