忘れられない大切な味・中編 (メニュー:オムライス)
「お客様、コーヒーでも如何ですか?」
取り敢えず、普通に接客を進めなければならない。
例えそれが異形であってでも、だ。
コーヒー豆を挽き、それをフィルターに入れる。そして少しだけお湯を注ぐ。
具体的には、コーヒー粉が少し湿るぐらいで構わない。ここで三十秒ぐらい蒸らすと良い。何故蒸らすかというと、コーヒー粉とお湯が反応することで炭酸ガスのようなものが出来てしまうからだ。その炭酸ガスを抜いてからではないと味が落ちてしまうから――なんて専門知識は持ち合わせていないけれど、俺が学んだコーヒーの入れ方がこうなのだから、そこについては文句を言われても困るのが実情だ。
コーヒーの香りが漂ってきたからか、或いは不快だったのかは知らないけれど、その泥が少し蠢いているような気がした。
そして、動くたびにその泥から生臭い匂いが放たれて、鼻が曲がりそうになる。
直ぐにコーヒーの香りを嗅いで、正気を保つ。
そうでもしなければ、いつ気絶してもおかしくはない。
三十秒経過したところで、ゆっくりと何回かに分けてお湯を注いでいく。
何故何回も分ける必要があるかというと――答えは単純明快で、フィルターからお湯がこぼれてしまうからだ。
それに、フィルターを介してコーヒーになっていく液体が、ぽたぽたと落ちていく様子を眺めていくだけでも面白い。
だから俺はいつもこの時間を大切にしている。例え、これが非効率であると言われても、だ。
「……どうぞ」
漸く一杯分のコーヒーが注がれたところで、俺はそのカップをソーサーに置いて、カウンターに置いた。
すると泥の塊だったそれから、ゆっくりと腕のような細い泥の塊が伸びていった。液体は漏れていくので床が汚れていくのだけれど、少し多めにお金を貰っても文句は言えないと思う。多分。
コーヒーカップを手に取って、それをそのまま泥の塊に流し込んでいく。
……というか、そこが口だったのか。全然分からなかった。やはり水で洗い流しちゃ駄目なんですかね?
「……美味しいですか? もし必要でしたら、お代わりもありますので早めに……」
俺の言葉を聞いて少しだけ身体が沈んだような気がするけれど、気のせいだよな。きっと。
「ケイタ」
背後から声が聞こえたので、俺は振り返る。
暖簾の向こうからメリューさんが手招いている。ああ、料理が出来たから持って行け、ということだ。いつもならメリューさんがここまで持ってきてくれたような気もするけれど、あの悪臭には耐えられないのだろう。
致し方ない、俺だって逃げられるのなら逃げてやりたいぐらいだ。
ちょっと手当を増やしてくれないと、話にならない。
「……どうしました?」
「どうしました、じゃないよ。料理が出来たんだ。それを配膳するのが、ウエイターの役目だろう?」
はいはい、面倒臭い役割は全て俺に回すってことですね。
手当は付けさせて貰いますよ、これで全くの割り増しなしだったら、それは目も当てられない。
「お待たせいたしました、どうぞ」
……ところで、メニューについて全く説明していないのは、流石にどうかしていると思うので、説明することにする。
メリューさんが作ったのは、オムライスだった。
……何で?
何処からオムライスを感じ取ったのだろうか……。でもまあ、メリューさんのこのスキルは成功率百パーセントだから、別に疑義を持つ意味もないのだけれど。
「……どうぞ、召し上がれ……」
俺がカウンターにそれを置くと、泥の塊――失礼、お客さんはじっとそれを見つめているようだった。
もしかして、提供した料理が失敗した――?
メリューさん、まさかのやらかしをこんなお客さんにしないで欲しい! 言語で解決しそうにないお客さんじゃないかよ……!
――と、勝手に被害妄想を爆発させていると、お客さんの泥の塊が少しずつ動いて、皿の前に置いてあるスプーンを覆った。
きっとあれは手なのだろう。ということは、手でスプーンを掴んだだけだ。にもかかわらず、絵面だけ見るとスプーンが泥に飲み込まれた、というだけにしか見えない。
「……、」
固唾を飲んで見守っていたが――しかし匂いがきつい。悪臭というのはこのことを言うのだろう。正直、急いで逃げて帰りたいぐらいだ。というか、今見たらずっとティアがそこに立っているのが末恐ろしい。お前、鼻ないのか。或いは嗅覚が存在しないのか――。
「――美味しい」
ぽつり、声が聞こえた。
え? 何処かにお客さんが居たか? そして、お客さんにいつの間に料理を提供していたんだ――などと意味のない考えを巡らせていたが、普通に考えてこのお店に居るのは、目の前のお客さんだけだ。
と、いうことは。
目の前のお客さん――平たく言えば、その泥の塊とやら――が、発したというのか?
「何だか……懐かしい味だよ」
ぽつり、ぽつり、と。
お客さんは思い出したかのように言葉を発していった。まるで、今まで自分が言葉を発することが出来たのを忘れていて、それを何らかのちょっとした切欠で思い出したかのような――そんな感じだった。
とはいえ、いきなりフルスロットルで話しかけられても、こちらはついていけないし、それは流石になかった。ぽつりぽつりと、堰を切ったようにゆっくりと言葉を紡いでいった。
しかし――言葉が通じるのか。
だとしたら、今まで匂いのことについて、直接言動に出さなくて良かった。もし言動に出していたら、俺もその泥の塊に飲み込まれてそのまま意味の分からない世界へ閉じ込められていたことだろう。




