言葉を忘れるぐらい美味しいもの・後編 (メニュー:茹でガニ)
そうして、ぽたぽたと垂れた一つの雫が、やがて一杯のコーヒーへと姿を変える。
コーヒーカップを手に取ってソーサーの上に乗せて、あとは……ミルクの容器も一緒に置けばコーヒーの出来上がり、といったところだ。
「食前のコーヒーというのもここで初めて知ったけれど、なかなか悪いものでもないのよね……。今まではそんなことしていなかったけれど、今じゃお城でもメイドに食前のコーヒーをお願いしているぐらいだし」
「アルシスさんが、やっているんですか?」
「アルシスの入れるコーヒーが美味しいのよ。……そう言えば前に一度私の部屋までお粥を運んでくれたことがあったわよね、その時は女性しか入れないからってあなたも女装をして――」
忘れてくださいよ、そんなこと。
こっちはさっさと忘れたいことなんですから。
「……まあ、良いわ。ともあれ、コーヒーを頂きましょうか。ミルクを入れて……と」
ミルクを結構たっぷり入れるので、ミルシアのコーヒーは少し少なめにしてある。その方が溢れないから良いのだ。
「……あれ? もしかして、このやり方ってケイタ的には良くないのかな? だとしたらもうやらないけれど……」
「いや、別に? 提供されたものをどう飲食しようがそれはお客様の勝手だからな。そこで文句を言う筋合いはないよ」
流石に一口も飲まれなかったらちょっとはやる気をなくすけれどさ――ミルシアはそんなことしないからな。
はてさて。
ミルシアがコーヒーを飲んでいるうちに、さっさとメインディッシュが出て来てほしいものだけれど、それはなかなか難しい課題だったようで、メリューさんの居る厨房をチラリと見ていたが、未だ悪戦苦闘している様子だった。
「……ところでサクラは?」
「サクラなら今日は休みだよ、何でもクラスの用事があってな」
正確には文化祭の準備――といったところか。俺達の通う学校には文化祭があるのだけれど、サクラはその準備をする担当に任命されていた。俺はそこら辺協調性こそ大事にはするものの、あまり自主的に動こうとはしない。それはどうなんだ、って話ではあるのだけれど――。
まあ、俺は役目がないので仕方なくいつも通りボルケイノにやって来ている訳だ。
「……ああ、そういえば二人は学生なんだっけ? 学校に通いながら仕事をするというのはかなり大変だろうに、良くやっているよね。私の国ではそれは出来なくて、どちらかに偏ってしまう人間だらけだと言うのに」
「それはどの国だって共通だと思いますけれどね? 俺の国だってどちらかを選択して後悔する傾向にありますからね……ただまあ、学業を優先出来るようにする制度も多々用意されていますけれど」
奨学金のことをここでダラダラと説明したところで、きっとミルシアは理解してくれないだろうし。
それはミルシアが怠慢な訳ではなく、その制度自体を理解してくれないだろうという諦観もある。
「……ふうん。前々から思っていたけれど、ケイタ、あなたの住んでいる国って私の国からしたらかなり進歩している国だと思うのよね……。だって、子供がこのように学業と仕事を両立出来るのでしょう? 私の国じゃ、それをしようものならかなりの障壁があるし、その障壁を乗り越えたところで実際には認可されない可能性だってある――そこについては、正直に言わせてもらうと致し方ない面もあるといえばその通りなのだけれど」
「ケイタ」
そこで声を掛けてきたのはティアさんだった。
ティアさんはいつも空気を読まない。だからこのように話が盛り上がっていたとしても平気で声を掛けることが出来る――俺としては凄く有難いし、メリューさんの機嫌を損ねなくて良いから有難いことではあるのだけれど。
「はい、どうしました?」
「……メリューが呼んでいる」
承知。
はてさて一体どんな料理が出来たのやら――そんなことを考えながら、俺は厨房へと足を運ぶのだった。
◇◇◇
カウンターに置かれたそれを見て、ミルシアは目を丸くしながらそれを眺めていた。
眺めるというよりは観察、或いは推察に近かったかもしれない。皿の上に載せられたそれを舐め回すように見つめている。よっぽどそれを見たことがなくて、それに興味があるのだろう。
皿の上に載せられているのは、甲殻類の生き物だ。足が何本も生えていて、ハサミが先端にあって、赤色に茹で上がっている……。
「……ケイタ、これは?」
「カニという生物を茹でたものですね」
茹でガニ、とでも言えば良いかな。
カニという食べ物をどう食べるか――そう考えた時に一番最初に思いつくスタンダードな食べ方。
因みにカニ酢も添えられているので、食べる時はそれをつけて食べると良いことも伝えると、
「いや、ケイタ。……先ず、これはどうやって食べるんだ? 食べ方に見当が付かない以上、食べることが出来ないのだけれど」
「殻に覆われているでしょう? その中には身がぎっしりと詰まっています。それをカニ酢と呼ばれる液体につけて食べてください。……割り方は、まあ、見れば分かると思いますが」
一応殻には切り込みが入っているので、そこから手で割れば良いのだ。
「まあ、物は試しね!」
そう言って、ミルシアは両手で思い切り殻を開いた。
あっという間に開かれたそれの中から、白い綿のようなふわふわとした身が姿を現す。
「……これを?」
こくり。俺は頷いた。
恐る恐るカニ酢につけたそれを、ミルシアは口に運ぶ。
咀嚼していくうちに、ミルシアの疑心暗鬼だった表情はみるみるうちに笑顔へと変わっていった。
「……お、美味しい! 美味しいわ、これ! 何だか良く分からないけれど、ふわふわで柔らかくて……」
そしてそれからは――カニを食べたことのある人間ならば大抵想像の付くことだったろうけれど、ミルシアは言葉を発することなくただひたすらにカニの殻を剥いて食べ続けた。
殻を割る音だけが定期的にボルケイノに響き渡る。
食べ終えたミルシアは少しだけ物足りなさそうな表情を浮かべていた。
「とても美味しかったわ。……でも、これが言葉を忘れる程美味しい食べ物、その回答ということね。いつも思うけれど、流石はメリューだわ」
口元を拭きながら、ミルシアは言った。
そして財布からいつものように金貨を何枚か置いていくと、ミルシアはボルケイノの外へと出ていくのであった。
まあ、カニって出汁に使うのも最適なんだけれどな――多分メリューさんは今頃賄いのためにカニの出汁を使った料理でも作っているのだろう。
しかし、それについてはミルシアには伝えないでおくことにした。
……何故かって?
楽しみは、取っておいた方が良いからね。
そうして、扉は閉められた。




