ヤマアラシのジレンマ・後編
メリューさんが食事を持ってきたのはそれから十分後のことだった。因みにその間少年は一言も発さず店の中を散策するでもなく俺に料理が来ない旨文句を言うでもなくただじっと待っていた。時折水を飲んでいたので定期的に水を注いでいたくらいで、俺も何もしていない。実に手間のかからない客――と言うと非常に言い過ぎかもしれないが、まさにそうだった。
メリューさんが持ってきた料理はカレーライスだった。十分で充分おいしいカレーライスを作ることが出来るのだから、メリューさんはやはりすごい。というか、あの厨房の場所だけ時間軸が違うんだと思う。そうじゃないと説明がつかないくらい、メリューさんは調理が早い。異常に早い。
メリューさんは少年の前にカレーライスを置いた。
「あの」
少年は言った。
それを見て、メリューさんはニコリ、と笑みを浮かべる。
「どうぞ、それがきっと、あなたの食べたかったものだと思うから」
そう言われて何も言えなくなった少年。
ぱくり、と少年はカレーライスを一口頬張った。
最初は無表情だった少年だが、そのまま二口、三口と食べ進めていく。
そして徐々に少年の顔に笑みが生まれてくる。
そのまま少年は最後まで食べ終えると、笑顔を浮かべて、メリューさんの方を向いた。
「あの……とても美味しかったです」
「そうでしょう? なにせ何十年も煮込んでいるからね」
それって鰻屋のタレか?
少なくともカレーに使う表現じゃないと思うのだが……。
「ああ、そうだ。おせっかいかもしれないけれど、一言言わせてもらうわね」
メリューさんが少年の食べ終わった皿を回収して、言った。
「何でしょう」
少年はご満悦、といった様子だった。このまま帰ってしまえばもう満足だろう。
「今、あなたはヤマアラシのジレンマになっているのよ。自分と他人、どちらを取ればいいのか困っているのだと思う。けれど、自分の道を進めばいいの。自分の信じた道を進みなさい。そしてその先に答えがあるわ」
「……ありがとうございます」
どうやらそれだけで状況を理解したらしく――少年は小さく頭を下げた。
「また何かあったらここにいらっしゃい。なんどでも美味しいものを作ってあげる」
「ええ、また来ます」
そして少年は笑顔で店を後にした。
◇◇◇
「それにしてもよくあの子がヤマアラシのジレンマを抱えている、って解りましたね?」
「細かい仕草を見ていれば、何となく解るものよ。それに、あの子、きっと他人を理解したくなかったのだと思う」
他人の理解を拒否した?
「自己の境界を定めることを優先して、自己の境界を保護することを優先して、他人の理解を拒否したのよ。あの結果がそれ。きっとうまくいって無かったのだと思う。だから私が一言言ってあげた。美味しいごはんを食べれば、そういう付き合いもうまくいく、ってこと」
「魔法でも込めたんですか」
「強ち間違っちゃいないかもね」
そう言ってメリューさんは厨房の奥に消えた。
残された俺はカレーを作るために使われた調理器具を見て、少しだけげんなりするのだった。




