二日目 一目散に逃げた先 (3)
――二日目。
陽が昇り始めるころ、僕は大地を強く蹴り、樹々の隙間を駆けぬける。それらの隙間から、覗く光は眩しいが、僕を導いてくれる様でもあった。
あまり勢いよく駆けるものだから、僕の目の前に現れた鹿・馬・猪・兎なんどが、一斉に明後日の方角へ逃げていく。それは、愉快な気持ちになったものである。
僕と手形を結ぶ白糸は、胸から出でて樹々の奥深く、ずっと真っ直ぐ伸びていた。
現し世で、僕の器を果たす義躯は、魂と馴染みはじめており、すでにその成果を挙げていた。
自然に鼻歌もでてくるというものである。気分はすこぶる良かったが、それは長くは続かない。
突如のこと、殺気・怒気、それら含む多くの負を孕んだ念が僕を撫でた。
咄嗟に宙返りをして、藪の中に潜み、辺りの気配を伺うと、そいつは目と鼻の先に立つ。
かたかたと身体が震えた。
一刻も早く逃げ出したかったが、情けないことに、身体が動かぬ。
僕は冷や汗を垂らしながら、藪の隙間から、そいつをみた。
そいつは、頭は狼、角は鹿、胴体は獅子という容貌である。
眼が合うと、そいつの眼は弧を描き、口元は歪んだ。
――笑った。
笑っていたのだ。
そいつは喋る。
「コノ地カラ去レ。小サキ者ヨ。消エロ」
昨日とは比べ物にならない程の速さ、全力疾走でその場を去ることに成功した。火事場のなんとやらであろうか、我ながら感心する所である。
兎に角あいつは不味いなと、心と身体が警報を鳴らしていたのだろう。
義躯の内なる所にある核が、激しく脈打っているのが感じ取れ、気が付けば、遥か下方に河が流れる。当方不覚にも、崖から飛び降りてしまったという訳だ。
飛ぶことも、忘れて河に落ちてしまう。それから意識を失った。
――どれくらい意識を失い過ごしただろうか。
身体が重い。水を吸ってしまった所為であろうか。
そんな事を考えながら、瞼を開けると、天上の梁が視得た。
ふぅと深いため息がでた。
視界に女の顔が入ってくる。初めて見る顔だ。
容貌優れたる人に相違ない。
「起きましたでしょうかや」
女は話しかけてくる。
――方言かな?
独特の喋り方だなと、思ったけれど、その通り。
あとで知ったが、この人特有の喋り方であるらしい。
「はぁ」
力が入らなく、自力では起き上がれない。踏ん張った挙句、女に背を押され、漸く起き上がることができた。
「あの。此処は」
「川淵に倒れておいでの時は驚きましょうや。御名前は?」
女は笑みを讃えながら、僕の名前を問うてきた。
「岩人。霜月岩人」
「そうでしょうかや。私は、室町紬。紬でよろしいでしょうや」
「はぁ……」
気の抜けた返事を、ただただ返すばかりなり。
「岩人殿。恐ろしい夢を見たのでしょうねぇ。うなされてましていたや」
「はぁ……。あの、紬殿。此処は」
「外に出てみましょうかや」
女は此方に掌を伸ばす。何だか悔しかったため、何とか自力で立ち上がる。女が戸を引けみれば、遥か向こうに鮮やかな、緑の山が佇んでいた。
我ながら、足取りで頼りなく、外にでた。
そこは、大小様々な形の建物が立ち並ぶ、集落であった。
――こんな山奥に?
辺りの山々と建物を見比べながらそう思った。この集落は、山に囲まれて存在した。
山奥には不釣合いな程、立派な石造りの建物が建ち並ぶ。
黄泉にある、都の街の一角を、一部切り取り山の中、持ってこさえたその街は、異質さを覚えるに値した。
規模はそれなりで、辺りは人で賑わっている。
屋台を含めた様々な商店が営業しており、そこらを子供達も駆けている。
僕が呆然としながら佇んでいると、「紬」が話しかけてくる。
「少し……、歩きましょうかや」
「ええ。そうしましょう」
遠くから子供が此方に向かって駆けて来て、我々の前で立ち止まる。
「お、押忍! こ、こんにちはです! 先生!」
内気そうな様子の少年が、元気よく言う。
黒い髪の毛は、ぼさぼさで、眼にかかる程に髪があり、表情は見えづらい。
口元は笑みを浮かべている。
「こ、これから稽古つけて貰って来ます。し、試験まであと少しなので! 押忍!」
「頑張りなさいや」
紬は走り去る少年に笑顔で手を振り見送った。
「ここは、神薙の檻。不動の里でしょうや。岩人殿は、黄泉の御国から来なさったのでしょうや。お疲れ様なことです」
紬は、全てを見透かす様に、こちらを視る。
咄嗟に身体を、尾の先まで確認してしまう。
「解りますとも。貴方のそれは、現し世のものではないでしょうや」
――この女、何者か。出来る奴に違いない。
そう感じたが言葉でず。
――出来る奴なら、立会いたい。
「一つ、立会いましょうかや」
彼女は、またもや僕の心を見透かの如く。
「良いでしょう。望むところです。手加減は――」
「無用でしょうや」
彼女は、途切れた言葉を補完する。
「それです」
僕からすれば願ってもない御話であった。
現し世の者がどの程度のものか知りたいところ。彼女は、見た所強そうでもないが、先生と云われる程の、剛の者に違いない。
それなりに腕は立つ黄泉の住人として、負けられない。
興奮してた所為で、口元の白髭が、ひくひくと動いた。
三月三日改稿