一日目 落ちた手形を探す羽目 (2)
突如身体を薙いだ強風で、体制を崩した僕の懐から、黄泉の手形が飛び出した。
紐で結わいて首に括っていたのだが、結び目が甘く紐は解け、樹々の隙間に落ちていった。
僕は、空を駆けることをやめ、理に従って大地に落下する。
手形を落とした時、大いに焦った。それは、黄泉の手形と呼ばれる代物で、現世と黄泉の世界を安心に、往来するためつくられたものだ。壬母が旅立つ僕の為、念を込めて造り出した唯一無二のものなのだ。
本来黄泉の住人は、現世からみれば「魂」と呼ばれるかたちで生きている。
現世での生きるという姿は、「魂」の器である肉体があってこそだ。
肉体を持たない我々黄泉の住人は、現世の人々からみれば等しく物の怪の類と見なされるのであろう。我々は、何かに憑依しなければ、現世では生きてはいけないからた。
僕たちが、現世・中津国で活動するためには、肉体の代わりとなる器が必要だ。
義躯と呼ばれるその身体が、現世での肉体の代用となる。それは伽藍の工房で、職人が生み出すとても高価な代物で、黄泉から旅立つ我々は、授かった義躯に憑依して、晴れて現世での活動を許されるのだ。
僕は猫又という類の者で、二本足で歩く二尾の猫の姿である。義躯もそれらを形作るのである。
現し世、黄泉の者共も、細かい違いはあるものの、食うもの喰って、出すもの出すところは皆一様である。
僕は只今この辺り、落とした筈の黄泉手形、必死の思いで探していた。顔を地面に擦る様に探す。それだけではなく、周囲にも神経をすり減らし気を配る。
そこいらに潜む、悪獣や物の怪共の餌になる可能性だって、十分有り得る訳なのだから。
細く白い切れない糸が、僕の胸から飛び出して、樹々の向こうへ続いてる。それは手形とこの僕を、結びつける物なので、絶対手形は見付かるのである。
今は、僕らは離れつつある。
僕は糸が伸びる方向へ駆けた。
駆けども僕らの距離は少しずつ遠ざかる。
これ以上は速度が出ないのは、まだ義躯が馴染まない所為である。
「疲れた」
僕は、徐徐に速度を落とし、ついには歩みを止めたのだ。
時間はあるのでゆっくりと、大地を散策することに決めた。
獣と寒さと物の怪を、避けるように火を焚をいて、背負う荷から少しばかりの食糧を摂る。牛皮に満たされた馬乳酒を適量湯飲みに注いで、暖をとりながら一杯飲む。
「ぷはぁ」
干し肉も一切れかじった。万が一に備えての、保存食の持参は間違っていなかった。僕は自分の用意の良さを感心した。その後、よく眠った。
夢の中、出立前の壬母を思い出す。
「遅いぞ! 小童!」
時間通りに玉座の前に来た僕に、壬母は大声で叱咤する。
いまだ半人前の僕には、名前で呼ばれず、小童がいいところだ。
「はぁ。朝っぱらから何の様だよ壬母」
云うなり拳骨は上司から、かわす暇無く飛んできた。
「痛たっ。……壬母様」
頭をさする僕を視て、壬母はしばらく笑っていたが、次にはもう真面目な気色になっており、僕の眼を視てこう云った。
「小童。中津国の者共が、九尾狐の奴めを退治したという話は、もはや聞いて居るだろうな」
「へぇ。あの九尾狐ですか」
「そうじゃ。他には居るまい。その九尾狐だ」
「存じておりますが、随分昔の話では――」
「うむ。何人も遣いをやったが、一向に戻って参らぬ。それで、お主という訳だ。狐めの尾を一、二本譲り受けてくるのだぞ」
「はぁ……」
「何だ何だその気の抜けた返事は。解ったのか」
「承知しました。もう話は決まっている様で」
「無論だ、少し待っておれ」
そう言うと壬母は立ち上がり、玉座の奥へ消えた。
とり残されたものだから、待つ間、昔話を思い出す。
九本の尾を持つ真白な狐の物の怪は、太古から現し世に、棲みつき人を喰らっていたとされた。
まだ黄泉が、現世との交流を盛んに行っていた頃、九尾狐は現れた。狐が化けたその女、余り容貌優れたために、黄泉中で、彼女が話題になることが多かった。
男女問わず、黄泉の大勢を虜にしたと伝わり聞いている。
当時の国王、遊び人の月読月神も虜にされた一人である。月読月神は、遊び人・好色でもあるからか、その成り行きは当然ともされたのだ。彼は、九尾狐が化けたその女を、側室に迎えた。
新たな地位を手に、九尾狐は更なる力を得んとした。次々と家臣らを、手にかけ闇に葬った。その本性を暴くのは、真写しの鏡である。
鏡によって、人皮を剥がされ、本性を現した九尾狐は、都を戦に巻き込んだ。迎え撃つは月神以下数千騎。彼らはこの大戦に勝利した。だけど、鏡は狐に奪われた。犠牲者は数え切れないほどである。
ご愁傷様である。
――戻ってきた壬母は、木片を此方に放りよこす。
「小童! それを持っていけ」
木片をまじまじと眺めてみると、そこには「黄泉関所」と刻まれていた。その隣には、赤く「月読壬母」とある。裏を返せば、「期限。無期限」の刻印。紐が備わり、首から下げられる様になっておる。
この木片が、旅先で、僕が黄泉の住人であることの証明となるものであった。
「ほれ、小童。疾く疾くと、それに念をこめるのだ」
云われるがまま木片に念ずると、新たな文字が刻まれた。
「――霜月岩人」
僕の名前である。
「どれ」
壬母は僕の手中の形を覗き確認すると、機嫌な様子で僕の背を力強く叩く。
「よおし! 行って来い! 見て来い! 楽しんで来い!」
あまりに強く背中を叩かれたのでで驚いて、僕はただ頷くばかりである。
それから、皆に見送られ関所を潜り、現世・中津国に舞い降りた。
そして、今はというと手形を見失ってしまう様である。
「――黄泉の手形は、黄泉に出入りするだけの物に非ず。現世でも己の身の証明となる。肌身離さず持っておれよ」
壬母の言葉であるが、早速教えを護れていない。なんでも、お偉いさんに見せる必要があるという話であった。
そんな大事な持ち物を、落として無くすは、我ながら全く情けない。
三月七日改稿