舎脂
「いかなきゃいけない場所があるんだ」
「あの建物か」
「ううん。君と私の輝かしい未来のためにどうしても必要な、気ままな一人旅だよ」
毛皮も大きな体も、夜気から身を守るものは今はない。シャチのつくったものたちとシャチだけが全てだ。
「子どもでも作ってさ、待っててよ。貞操とかいいから。私と君どっちかが死んでたりしたら、またひとりぼっちになっちゃうから。せいぜい、私が寂しい思いをしないように村なり町なり、瓜のすず生りにこさえておいて」
《ぱしゅ》
胸を撫でていた手のひらから音がした。再び水の幻につつまれる。
「彼女のなかでは以前から決めていたことです。私はちょうどよく現れた哺乳瓶。もしくはおしゃぶりですね」
じゃあママのおっぱいはどこに消えたのかな
「彼女は自分が地獄におちたと思っていました」
シャチは天道だろう。いい感じに、解脱出来ない煩悩具合だし。
「解釈なんてそれぞれですよ。猫の目のように。見る時によって変わるもの。少なくとも、彼女は今この時、地獄道だと思っている」
なら地獄で必要な旅ってなんだろうか。
「贖罪でしょうね。せいぜい、綺麗になって帰ってきた彼女を愛してあげましょうよ」
しばらくは犬の姿でいいかな。あれこれ悩まなくてすむ。
「そうですね。それがいいです。私もこれから産休とりますから、犬のままなら好都合です。出発しましょう。どこか遠くへ」
彼女の旅とは、どこへ向かうものだろうか。僕にはどうしても、この世ならざる場所への招待を受けた気がしていた。神の前で裁かれるシャチを幻視する。
あっさりと、眠っている間に消えてしまった。現実感がない。どこかふわふわしている。
僕にとって、やっぱりシャチは天女さまだった。羽衣だけ残して、消えてしまった。




