1、狂う歯車
1
「―――皐氣。……皐氣!起きろ、皐氣!」
痺れを切らした教師が、机に突っ伏して熟睡している茶色い頭に向かって、握っていたタッチペンを投げた。それはきちんと授業を受けている生徒達に掠りもせずに、綺麗に茶色の的に命中した。なのに何事もなかったかのように、皐氣は眠り続けていた。まったく微動だにしない皐氣を無視して、教師は平静を保つために再び授業を進め始めた。
薄く、生徒全体によく見えるように作られた液晶の画面に、新しいペンを持ち書き込み始める。どんなに下手な字を書こうとも、その画面が綺麗に直し、色分けもしてくれる。それは、発達した黒板だった。その黒板に浮かぶ文字を、生徒達は机に備え付けられたパネルに書き込んでいく。これも黒板と同じような機能が付いている為、統一された字体が並んでいた。その字体を早くも全部書き終えた、皐氣の隣の男子生徒が彼を揺する。
「起きろよ、翠。授業、遅れても知らねぇぞ」
「んだよ、うっさいなぁ。あとでコピー、させてもらうからかまわねぇよ」
「誰のメモリー?」
「もち、お前の」
「は、やだよ。いつもコピーさせてばっかじゃん!」
急に黙ってしまった皐氣は、言葉通り死んだように動かない。困ったようにため息をついた彼は栄井 陽向、皐氣の親友である。栄井はずり落ちてきた銀縁の眼鏡を掛け直しながらパネルの付いた机の右端を見て、さらに深いため息をついた。そこには小さな、本当に小さな挿入口があった。その上に擦れた字で『メモリー』と書かれていた。メモリーとは、この学校の生徒全員が持っている電子チップの事だ。そこに全ての情報、つまり今まで習ってきたものが入っている。学年が上がるごとに新しい電子チップは貰えるが、失くしたり、壊したりしても新しい電子チップは貰えない。だからとても大切なものなのだ。
「なあ、皐氣?聞いてる?」
「聞いてない」
「聞いてんじゃん。無視するなよ」
「無視なんてしてねぇよ。聞きたくない言葉を聞かなかった振りしただけだ」
「それを無視って言うんだよ。……ああ、もう寝るなってば!」
「コピーさせてくれんなら、仕方なく起きててやるよ」
「最後までこの授業起きてたら、コピーしてやるよ」
「それ、やっぱ無理。だから無条件でコピーよろしく」
「だから、やだってば!!」
「うるさいぞ、皐氣に栄井」
思わず大きくなってしまった栄井の声に反応して教師が怒鳴る。その顔は、誰から見ても怒っている事がよく分かるものだった。
「す、すみません」
慌てて謝る栄井に対し、皐氣は狸寝入りをしながらクスクスと笑っていた。それも、栄井の癪にさわるような笑い方で。その憎たらしい友に言ってやった、
「今後一切コピーなんかさせないからな」
「卑怯だぞ、人の揚げ足取りやがって」
自業自得だ、と言った栄井気持ちは少し晴れた。電子チップのコピーは面倒臭いのだ。それを毎回毎回、当たり前のように皐氣は頼んでくるのだ。頼られているとも取れるので、少し嬉しいのだが……。そう考えると、なんだか照れくさくなって、こげ茶の髪をもてあそんだ。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。最後まで眠り通した皐氣は教師に呼ばれて怒られているようだ。そのお怒りが止むまで待っていると、皐氣が悪戯っぽい黒い瞳と、栄井の蔑んだ錆色の瞳がぶつかる。
「先公が言ってたぜ、誰かにメモリーの内容をコピーさせて貰えって」
言葉を失う栄井に、とびきりの笑顔で悪魔のような言葉を吐いた。
「つー訳で、コピーよろしく、陽向!」
結局栄井は皐氣の為に、今日もコピーしてやるはめになったのだった。
*
漸く全ての授業が終わり、皆帰途に着く頃。まだ教室に皐氣と栄井は残っていた。それは、今日皐氣が寝ていた授業のメモリーをコピーするためだった。六時限中四時限も寝ていた彼は、それでもまだ眠いらしい。う〜んと伸びる彼の後ろに、綺麗な長い黒髪を持った背の低い女子の姿があった。
「また栄井にコピらせて貰ってんの?いい加減ちゃんと授業受けなさいよ、翠」
「うわっ、出たよじゃじゃ馬娘!」
「うわって何よ、うわって。それでも幼馴染?」
「かんけーねぇだろ、ウザいから消えろや」
「ハァ?それがレディに言う言葉?はっきり言ってあんたの髪の毛のほうがウザいわよ!」
ボサボサに伸びた皐氣の髪を引っ張りからかっているのは緋搗 美津紀。本当に皐氣の幼馴染で、一時彼女らが付き合っているとの噂が流れるほど仲良く見られるが、彼女らはそれが不服らしく、仲がいいと言われると怒っていた。
「あ゛〜!もうやめろ、鬱陶しい!」
「鬱陶しいのはあんたの存在よ!ねぇ栄井」
「えっ!……そ、そうかな?」
コピーに夢中になっていた栄井は、急に話しかけられ戸惑いながら答えた。すると緋搗は栄井の前の机に腕を組んで座った。
「そうよ!栄井は人が良いからそういう風に言えるの。翠はただ寝てるだけで、勉強なんかしてないじゃない」
「寝てるだけじゃねぇぞ。ちゃんと起きてる授業もある」
「体育と美術だけじゃない!何?将来バスケしながら絵でも書く訳?」
そう、ただ唯一皐氣が得意とする科目はそれだけで、他はいまいちだった。中でも体育は飛び抜けて良く、一番好きなのがバスケであり、彼の長所でもあるのだ。背の高い彼は、頑張ればダンクシュートもできるので、体育のチーム分けでは、彼がいるかいないかで勝敗が決まるほどである。その飛び抜けた運動能力の代わりに削られたのは知能だったのだ。
「そんなこと頼まれたってやらねぇよ!お前は牧場にでも行くか?」
「ありえないわよ!何で牧場に行かないといけない訳?」
「暴れ馬が放し飼いにされてんだ、当たり前だろ」
「暴れ馬ぁ?そんなのどこにもいないじゃない」
「いるよ、俺の目の前に一頭」
意地悪く言う皐氣の前にいるのは、明らかに緋搗だった。それを確認した彼女は、皐氣に飛びかかっていきそうな雰囲気で言い返す。
「だぁれが暴れ馬よ、この運動馬鹿!」
「誰が運動馬鹿だよ、闘牛が!」
「闘牛って……馬じゃなくなってるじゃない!牛よ、牛。ホントありえないんだけどっ!」
「じゃあ、馬ならいいのかよ?」
「いい訳ないでしょ!第一―――」
「でっきたぁ!!」
二人の終わりそうになかった口喧嘩を止めたのは、栄井だった。二人の仲の悪さに飽きれつつも、黙々とやっていたコピーは全て終わった。解放感が彼を包む。うーんと伸びをすると、縮んでいた背中が重かったのがなくなった。そして帰り支度をしてあったブルーのバックを掴むと、皐氣達の間に割って入り、本日最高の笑みで、
「さあ、帰ろう!」
と二人を急かして教室を後にした。
「ま、待てよ陽向!」
皐氣達も慌てて栄井の後に釣られて教室を出た。まださほど遠くない場所で、栄井はダンスでもし出しそうなノリで長い白い廊下を歩いて行くのが見えた。そして、振り返ると早く早くと手招きをする。もう暮れつつある夕日が、彼の右半分を紅く染めていた。
「待ってよ、栄井!こんな奴と一緒なんてやだわ!」
緋搗が栄井のひょろりと高い背に向かって走り出し、その首に抱きつくと、栄井は前のめりに倒れそうになりながら、楽しそうに笑っていた。緋搗も笑いながら、皐氣を急かす。仕方なく彼らの隣へ行くと、栄井が言った。
「翠、アステレイア様に呼ばれてるみたいだよ?」
「あ、ホントだ。あんたまたなんかしでかしたの?」
「……ゲッ、ホントに光ってやがる」
悪態をつく皐氣の目には、左手首に付けられた銀色の腕輪が映っていた。それは誰もが持っているもので、名を『ジュスチセ』と言う。何故そんな名前が付けられたのか、説明をされた事があるが、皐氣は忘れていた。そのジュスチセは、小さい頃から付けられていて、付けている本人に何かあったりすると光る仕組みがあった。もっと事細かく、教師は言っていたのだが、良く聞いていなかったのでいまいち良くわからない物体だ。
そしてアステレイアとは、この世界の善悪を裁く電脳機械である。たかが電脳知能だと思ってはいけない。そんな事を思ったら、反逆者として捕らえられるだろう。それくらい大切で、かけがえのないものなのだ。
「これで何回目?前も呼ばれてたじゃん」
眉根をひそめて、栄井が問う。それに対してサラリと皐氣は、面倒臭そうに言った。
「別にかまわねぇだろ?どうせは機械だ、生身の人間じゃあない。だったら、逆らっても怖かねぇだろ?」
その言葉を聞いて、思わず二人は笑顔を引きつらせてしまった。アステレイアの事を悪く言う事はこの世界には許されない事だ。人の基礎を作るとも言われるアステレイアは神に等しい存在なのだから。その神を皐氣は愚弄したのだ。二人が固まってしまうのも、無理はない。
「何固まってんだよ。機械なんざ、気にしなくても良いだろ?」
「気にしないほうがおかしいよ!アステレイア様とゼウス様は僕らが道を踏み外さないように創られた、最高のプログラムなんだよ!?」
「あってもなくても、どうせ変わらねぇよ。こんなんで縛られてるから、誤った道を進んじまうんだ」
焦りを隠せない栄井と、何かに脅えたように周りを見回す緋搗。その二人をあざけ笑うように皐氣は続ける。
「大体、こんなもんなくても俺らは生きて行けんだよ。なのに昔に創られた機械信じて生きるって事より惨めなこたぁねぇよ。アステレイアもゼウスもいらねぇんだよ」
世界の要である、ゼウスまで愚弄する皐氣を栄井達は、信じられない事態に驚きながらも、深呼吸をして息を整える。ゼウスもアステレイアと同じようなものだが、比べ物にならないほどの情報を管理できるゼウスは、なくなってしまったら全世界は機能しなくなるだろう。それらがなくなっても本当に生きていけるのか、疑問に思う。
それを見た皐氣は、仕方なくジュスチセに爪先で触れた。
「何してるの?まさかアステレイア様の呼びかけに応えない気なの?」
「黙ってろ、見てりゃ分かるからよ」
皐氣が不安げにしている緋搗を黙らせて、じっとしていた。何が起きるのか、全く見当もつかない緋搗達は、ただ黙って待つことにした。
そんなに待たずに変化は起こった。皐氣のジュスチセから細い光が上に伸びてきたかと思うと、その光は人の形を創り、少女漫画に出てきそうな髪の長い美女の姿が揺らめいていた。
「登録ナンバー1383、皐氣 翠。また貴方は、私に背くような真似をしましたね」
口の動きに合わせて音声がジュスチセから流れる。そのせいで、本当にその光がしゃべっているように聞こえた。光の人は無表情で、さらに言う。
「この前も注意したはずですよ、翠。貴方は何故私に逆らうのです?一人はぐれた子供は、家に帰れなくなり、泣くだけですよ」
「はぐれたってかまわねぇさ。自分でまた新しい道を見つけりゃいいんだからな」
「それではいけないのです。皆が皆、自分の道を歩き始めてしまったら必ず道を誤ります」
「それも自分の人生さ、誰にも邪魔させねぇ」
「貴方の考えが間違っている事が分からないのですか?翠、良く聞きなさい。貴方の考えはとても危険な考えです。私の言っている事全てが正しく、それが貴方達の歩むべき道なのです」
雑音と共に揺らめき、消えかかったが、それでも光は消えなかった。
「考え直すのです、翠。自分の間違え直し私の元へ帰ってきなさいな」
「誰が聞くか。俺は、この機械で仕切られた世界で生きていく気はない」
「ですが、貴方達には私が絶対に必要です。いつかそれが分かる日が必ず来ます。その日を楽しみに待つとしましょう」
そう言い残し、光は消えた。口をへの字に曲げた皐氣は、複雑な顔をしていた。それにいち早く気付いたのは、栄井だった。
「どうしたんだよ、翠。顔色悪いぜ。……それに、『この機械で仕切られた世界で生きていく気はない』ってどういう―――」
「ごめ、ちょい野暮用思い出したから先帰るわ」
さりげなくちょっと微笑して、目の前で手を合わせて謝ると、皐氣は背を向けてそそくさと帰って行ってしまった。そのとき、心配そうな緋搗の藍色の瞳と暗くなった皐氣の瞳が合った。その目がいやに印象深く残った。いつも明るく、無邪気な光を宿していた彼の瞳があんなに悲しげに見えたのは、初めてだったから。
「待ってよ、翠!ねぇ、翠!!」
走り去っていく皐氣の背中に、空しく響く緋搗の声。狂ってしまった運命の歯車の音を隠すように、いつまでも耳に残った。廊下の曲がり角で、皐氣が止まる。そして、
「じゃあな。……また、明日」
それは遺言のように聞こえた。事実、遺言と言っても過言はなかっただろう。なぜなら彼らがまた会う時は、ずっとずっと先のことになるのだから。
やっと動き出したと思ったら、終わってしまってなんかごめんなさい……。
さあ、次回皐氣がどうなるか……まだ考え中です(汗




