第一章②
駅前の恐竜。それはトリケラトプスだ。十年前、錦景市出身の考古学者の提案によって作られた巨大なオブジェだ。恐竜の化石も出土していないのにトリケラトプスを駅前に設置するのはどうか、という反対勢力もあったが今ではすっかり駅前のシンボルとなっている。
午後一時五分前、黒須ウタコはトリケラトプス巨大な顔の前で、その特徴的なフリルを触りながら朱澄エイコが現れるのを待っていた。周囲は待ち合わせをする老若男女。駅前は二人で腕を組んで歩く人たちが多い。あの中に紛れれば周囲から立派なデートだと認知されるだろう。大事なことだ。周りの雰囲気が未来に影響を与えることをウタコは感覚的に理解している。そう、ムードが大事なのだ。
三分前。
まだエイコは現れない。意外と時間にルーズなのだろうかと思う。戦略かもしれない。
ウタコをドキドキさせる戦略かもしれない。
エイコの澄まし顔を思い出す。
何か企んでいても、可笑しくはない。
ウタコはかなりドキドキしていた。昨日の夜はまるで乙女だった。眠れなかったのだ。エイコのことを考えると気持ちがピンク色になってブランケットを抱きしめずにはいられなかった。こんな気持ちになるのは一年生の春、先代の生徒会長に初めてあったとき以来だ。頭の中でエイコの挑発的な表情がグルグルと回転し続けている。目が回りそう。トリケラトプスに体重を支えてもらおう。
ああ、トリケラトプス。
どうか、どうか、エイコと仲良くなれますように。
いや。
そんな乙女みたいな弱気な思考回路でどうする。
平常心、平常心。
野心は常に、壮大に。
ウタコはもう一度トリケラトプスに祈る。
ああ、トリケラトプス。
ああ、どうか。
エイコの手を触れますように。
「いやいや、」ウタコは自分の乙女な思考回路に盛大に突っ込みを入れる。平常心で脳ミソを回転させる。「……いやいやいや」
「おはようございます、生徒会長」
「きゃあ!!」驚いたウタコはトリケラトプス巨大な頭に飛び乗っていた。「……ってもう、脅かさないでよっ」
「あ、おはようござうるす、でしたか?」エイコは小さく敬礼して首を傾げる。「恐竜の前だから」
「はあ? 全く、何、訳の分からないことを、」ウタコはぶつぶつ言いながらトリケラトプスの頭から降りて眼鏡のエイコを観察した。エイコの伊達眼鏡は縁が太くて朱色を基調にした斑模様の非常にオシャレ判定の難しいデザインだった。顔の大きさと比較して随分大きい。とにかく、錦女の古風なセーラ服にミスマッチだ。「……っていうか、なんで制服なんか着て来てるの?」
「え、だって、」エイコは眼鏡のズレを直しながら首を傾げる。「テストですよね?」
「そうだけど、でも、今日は土曜日だよ、土曜日の駅前だよ、普通、制服は着てこないでしょ、全く、もぉ」
ウタコは腕を組み、不機嫌を演じた。事実気持ちは不機嫌に近い。エイコの私服が見たかったのだ。セーラ服なんて、いつでも見られるだろうから。
「そんな、だったら、そう言ってくださいよ、そう言ってくれたら、私はちゃんとドレスを着てきたのにっ」
エイコは不服そうだった。エイコはウタコを睨んでいた。少し予想外な反応。少し、いや、かなりドキドキした。不味いことになりそうだと焦る。焦りながらも口調は挑発的になってしまう。「そう言うのは自分で判断するものでしょ、エイコちゃんは生徒会の秘書になるんだから、私が何も言わずとも察してよ、察しなさいよ、そういうものなのよ、分かるぅ?」
皆まで言って、ウタコは気付く。
エイコは涙目で、下唇を噛んでいる。
頭の中が白くなって。
優しい言葉が思いつかない。
沈黙が発生。
沈黙に苦悩しながらウタコは、今のエイコの表情を写真に納めたいと思っていた。
いや、そんな場合じゃないのは分かっているんだけど。
「……分かりました、」エイコはウタコを睨みながらかすかな声を出す。「生徒会長がおっしゃる通りです、私の不手際ですね」
「え、ああ、うん、分かれば、よろしい、うん、よろ、しいよ」
「……減点ですか?」エイコはまだ涙目だ。
「……は?」ウタコはエイコが何を言いたいのかがとっさに理解できなかった。脳ミソの回転数はゼロ。いや、逆回り。もしくは空回り。「……原典、あっ、聖書の話?」
「今、バイブルの話なんてしてないっ!」
エイコはがなった。
ウタコはトリケラトプスの角を抱きしめる。とっさに武器にしようと営為空回り中の脳ミソが判断したのかもしれない。とにかく、驚いて、心臓がドキドキして、……泣きそう。ウタコは絶賛乙女中だ。もじもじしてしまう。弱々しい声で聞く。「……えっと、何のことかな?」
「テストのことよ! 制服を着てきたことで減点されるかって聞いてるの!」エイコは早口で言った。「どうなのよ!」
……………………ああ、そういうことか。
遅れてウタコの脳ミソは状況を理解した。ウタコは軽く咳払いをして、エイコの顔の斜め上くらいに視線をやって、自慢の黒髪を払って大人びた声で言う。動揺は、もちろんしている。「あ、安心しなさい、その、テストは減点制じゃなくて加点制だから、べ、別に制服だからって、テストには影響しないわ」
「それを早くいいなさいよね、全く」
エイコは腕を組んでそして、微笑む。
ウタコは向こうを向いておもいっきり息を吸って吐いた。ああ、よかった。魅力的な彼女の機嫌が直ってよかった。血圧も正常に回帰。脳ミソもいつも通りメリーゴーランド位の速度で回り出した。些細なことに気がつく女子になる。「……エイコちゃん、敬語はどうしたの?」
聞くとエイコは真っ赤な舌を出した。「敬語はテストに関係あるの?」