第一章①
錦景女子高校の土曜日の朝。ソフトボール部やテニス部の激しい声が遠くに聞こえる理科準備室で一人、二年の水園シイカは真剣な表情で実験装置に向かっていた。
香水を作っている。
彼女の日常は香水売り。錦景女子に香水を売ってお小遣いを稼ぐのがシイカの日常。
試験管の中で緑色に発光する液体に、同じく試験管の中で水色に発光する液体を注ぐ。液体同士が混ざり合って、何の脈絡もなく、小さな炸裂音。二秒後、液体は金色に発光する。
強烈な匂いが理科室に充満する。シイカはハンカチで口と鼻を押さえ、実験装置の注水口に金色の液体を注ぎ入れる。実験装置によって液体は蒸留され、香水になる。わずかに完成したものが清潔なビーカに落ちる。最後の一滴が落ちるのを辛抱強く待って、シイカは錦景ロフトで購入した紫色の瓶に入れる。匂いに間違いがないのを確かめ、蓋をして完成。シイカは笑顔になる。お金のことを考えるとウキウキする。
さぁて、誰が高く買ってくれるだろう。
シイカは香水をケースに入れて鞄の中に仕舞い、実験装置を片づけ、白衣を脱いでパソコンルームに向かう。パソコンルームには土曜日にも関わらず女子が沢山いた。調べ物をしながらレポートを書いていたり、動画を見ていたり、音楽を聴いていたり様々だ。入り口に近い席が空いていたのでそこに座り、自分のIDとパスワードを入力。簡単なダイレクトメールを五分くらいで作成し、お客である女子生徒に向かって送り付ける。今回の香水は出来がいい。シイカは今回の香水にはいつもよりも少し高めの値段を付けた。きっとこの香水は嗅いだものを激しく惑わせ、身に纏った少女のことをほとんど別人のように魅力的に見せることだろう。ダイレクトメールを送って数秒後、パソコンルームの数人の女子がシイカの方をチラリと見た。早くもダイレクトメールを拝見なさったのだろう。物欲しそうな顔をしてシイカのことを見ている。シイカは素敵な香水売りとして学内で割に有名だった。シイカはそういう女の子たちに微笑みを見せてから席を立ちパソコンルームを出る。廊下をゆっくりと歩きながら、突き当りで後ろを振り返る。誰も追ってこない。買い手がすぐにつかないのは少々残念だが、まあ、気長に待とう。香水は腐ることはないのだ。
さて、シイカは階段を降り、一階へ。そして昇降口から外へ出る。振り返って校舎の高い位置にある時計を見ると午前十一時。まだお昼という時間じゃない。寮に戻っても同室の古町コウはいないから実のならない話も出来ない。彼女は今頃体育館でスパイクを決めて恐竜みたいに「がおぉ」と叫んでいることだろう。
シイカは北に進路を変える。
錦女の裏は深緑色の森が茂っている。校舎の裏の職員出入り口に近いところにある初代学長の粗末なお墓の横を通り過ぎて、鍵が壊れてしまって久しい赤茶色の鉄柵を押すと森に入ることが出来る。かろうじて肌色の地面が見える道はある。少し進むと傾斜がきつくなって、足に力を入れる必要が出てくる。道はうねりながら頂上に向かっている。錦女は背の低い山の麓にあるのだ。
ゆっくりと十分くらい道なりに歩いて頂上に出る。頂上は小さな公園のようになっていて、十年以上前の卒業制作の木製のシーソがある。その隣には百葉箱。市が設置したベンチが周囲に並んでいる。管理が行き届いていないせいで草木は自由に育っている。ここまで登る女子も今ではシイカくらいだろう。人の気配は全くない。森閑としている。ベンチの上で立ち、北側を見ると背の高い錦景山がよく見える。
シイカは額を触る。少し汗がにじんでいた。風が来て、気持ちがいい。
さて、ここから進路を北東に変え、道のない茂みの中をシイカは下山していく。
シイカは自分で樹木に刻んだコバルト色の星印を頼りに進む。植物の棘がニーソックスに引っかかる。素足ならきっと血だらけになると思う。だからシイカはニーソックスを履いているのだ。古町が喜ぶからニーソックスを履いている訳じゃないのだ。シイカは古町が喜ぶ顔を見て顔がゆるむ。そのゆるんだ顔のまま、シイカの秘密の場所に出る。
一面、白い色の付いた場所だ。
名前の知らない白い花が咲き乱れていて。
LEDライトより鮮やかに光っている。
その白さは科学的だ。
周囲は背の高い緑色に包まれていて、空からもこの白さは見えない。
偶然見つけた場所。
シイカの秘密の花畑。
白い花で作る香水は、いい匂い。
シイカの超絶技法で作られる白い花の香水は。
高く売れる匂い。
不思議なことに、ここではいつでも白い花が咲いている。咲き乱れている。
ここには妖精がいるに違いない。
なんて。
シイカは、そんな馬鹿なことを考えたりもしてしまう。
そんな不思議な場所なのだ。
さて。
シイカは白い花を吟味しながら、白い空間を奥へ進んでいく。
最近は白い花の見方が分かってきた。
どんな白が、素敵な匂いを発するのか。
シイカは白い花を摘んでいく。
時間を忘れて。
夢中になって。
蝶が飛んでいるのも気付かず。
しかし。
さすがに。
気付いた。
「わあ!!」
シイカは奇声をあげて白い花畑の中で尻餅をついた。
摘んだ花が空中に舞い、雪のようにシイカの前を落ちる。
シイカは目を大きくして見つめていた。
白い花畑の真ん中で。
妖精が眠っている。
いや。
違う。
眠っているのは。
女子。
女子が眠っている。
シイカは夢を見ているに違いないと思って、ニーソックスとスカートの間のいわゆる絶対領域をつねった。
……痛い。
痛い。
つまり。
女子が眠っているのは。
現実だ。