プレリュード
舞台はここ。
錦景女子高校。
他校の生徒からは何の捻りもなく錦景女子という風に呼ばれている。
ここに通う女子たちも自分たちのことを錦景女子とか言ったりする。
略して錦女。
キンジョ。
発声の仕方は金魚。ここ大事。
さて、錦景女子は夕方の六時。金曜日の放課後だ。
長い金曜日の夜の始まりはどことなく風雅で愉快な雰囲気に包まれている。
錦景。
辞書には載ってない字の並び。
とある女流作家は錦景についてこう書いている。「錦景には溢れている、それが何かは分からないけれどここには溢れているんだわ、そうまるで宇宙空間にエーテルの存在を確かめようとした天文学者が見た夢を私はここに見ているんだわ、ええ、強く想起していつか言葉尽きるまで語りたいわね、あなたとこの街で暮らしながら、それっていつまでもってことよ、分かるよね?」
とにかく女流作家でも上手く言葉で表現出来ない、あるいはしきれない素晴しい景色がここには確かにあるんだ。
錦景は確かにある。錦景という風な呼び名にうってつけの景色は確かに見える。
曖昧で抽象的にしか言えないけれどそれは純真だって信じれるの。
とにかく。
錦景。
そういうものが錦景女子を覆っている。
カレンダは四月。
ヴェネツィアの都市。光る水面。白い軌跡の先を進む船。インディゴ・ブルーの空。このカレンダは四月をそんな風に表現していた。
さてこの金曜日は入学式の次の日だった。
入学式の次の日だったから何やら一日中学校中が何やら慌ただしいなと思えた。そんな一日に色を付けてくれていた太陽が沈みかけている、錦景女子の夕方である。最後まで太陽は眩しく冴えていて、錦景はゴールド・オレンジという感じに煌めいていたんだ。
錦景女子北校舎四階の生徒会室の中もそんな錦景色に染まっている。生徒会室ではともにこの春、三年生になった二人が談笑していた。
生徒会長の黒須ウタコと生徒会長代理の雪車ヶ野ヨシノの二人だ。生徒会の業務は一時間前にとっくに終わっている。それなのにずっとしゃべり続けていたのは特別な話をしていたから、というわけではもちろんない。理由なんてない。分かるよね?
とにかくオレンジ色に染められた二人は特別でない日常の中にいたのだが。
コンコンコンと生徒会室の扉を誰かがノックした。
「はーい、」ウタコは機敏に反応して扉の方に向かって高い声を出した。「どうぞぉ、どなたぁ?」
「入ってもいいわよ」ヨシノも扉に向かってどことなく優雅に声を投げた。
するとノブが動き扉が外側にゆっくりと開いた。その隙間から女子が顔を覗かせる。
「……失礼します」
彼女は生徒会室の中をぐるりと見回しながら中へ体を入れ後ろ手で扉を閉めた。
ウタコは目を光らせすかさず彼女の観察を開始した。
セーラ服の胸元のリボンは赤。新入生だった。
「ええっと、」ウタコは南に背を向ける窓際の所定の席を立ち折り畳み式の長机とホワイトボードの隙間を通って扉付近に立つ彼女に接近した。早足になっていたと思う。ウタコは近づいて新入生の彼女のことをよく見た。プライドが高そうな吊り目。髪の長さはセミロング。髪の色に黒が薄い。あるいは赤毛。でも艶がある。表情からは感情が、どういうわけか読み取れなかった。少し不思議、という第一印象。「何かな、一年生?」
「えっと、はい、一年生です、」彼女は小さく頷いた。そして両手で前に持っていた真新しい艶のある鞄の外ポケットから綺麗に折り畳まれたビラを取り出してウタコに見せた。ウタコには見覚えがあるビラだ。ウタコが作ったビラなので知らないわけだない。「それで、その、私、このビラを見て、その、生徒会の秘書に……、その、えっと」
「なりたいの?」
「はい、」彼女はセーラカラーを直して言う。別に乱れてはいなかったのだけれど。「はい、私、生徒会の秘書になりたいんです」
「……マジなの?」ウタコは真剣な眼差しで彼女の瞳を見る。
「えっと、はい、マジで、なりたいんです、」彼女は一瞬その瞳に力を入れて頷いた。それから少し表情が変わる。「……あ、えっと、もう、秘書は決まっちゃったんですか?」
「まだだよ、君が一番」ウタコは首を振って人差し指を立てた。
「……一番って、一番ってことは、その、」彼女も人差し指を立てた。「アドバンテージ、みたいなものってありますか?」
「アドバンテージっていうか、心配しないで、きっと君以外にもう、誰も来ないと思うから、秘書になりたいって子、来ないと思うから」
「そうなんですか?」
「うん、そういうものなのだよ、生徒会なんてそんなものだよ」
「そうですか、」彼女は頷いて自分の足元を見て小さく言う。「やった」
彼女が控えめに、おそらく喜んでいる姿を見ながらウタコの表情は自然と笑顔になった。こんなに早く秘書志望者が来てくれるなんて、まるで考えなかったから。ヨシノとは一年かけて後を任せることの出来る女子を選び生徒会のメンバに加えていこうと話し合っていたくらいなのだ。生徒会に自ら入りたいっていう女の子って錦景女子にはちょーレアなのだ。
「とにかくここに座って、ここに、」ウタコは言って扉に一番近い椅子を引く。「ここに座って、女の子っ」
「ええっと、は、はい、座ります」
彼女は周囲を観察しながら姿勢よく座った。緊張の色は見えない。最初からだ。凄く落ち着いていて女子大生と言われれば信じてしまうだろう。中々、珍しい女の子だなぁとウタコは思う。錦景女子って基本的に騒がしい。まあ、まだ彼女の本性は分からないけれど。
「質問をいくつかさせて頂戴なっ、」ウタコは窓際の所定の位置に戻って机の上に転がっていたペンを持つ。別に何かを記述する必要もないのだけれど、ウタコは少し、少しだけ浮足立っているのだった。ペンを持ったのは安定感を求めるため、というのが大きな理由だ。前を見る。対面には彼女がいる。彼女は相変わらず感情の読めない表情をしている。もしかしたら凄く緊張していてそんな風に落ち着いているように見えるのかもしれない。ウタコと同じように浮足立ってくれていたら、嬉しいって思う。「ヨシノ、コーラをこの子に」
「え?」ヨシノは壁際の冷蔵庫の上のポットの前でどことなく優雅に紅茶のティーパックを触っていた。「コーラ? え、コーラ? 紅茶でいいでしょ? 紅茶にするよ、ねぇ」
ヨシノはどことなく優雅に、彼女に同意を求める。
「あ、はい、」彼女はヨシノに向かって微笑む。「紅茶がいいです、炭酸苦手なので、コーラも飲んだことなくて」
なんて魅力的な微笑。
彼女はすぐに微笑みを消去。
よく見れなかった。
だからウタコはもう一度、微笑みを見たい。
すぐに見たい。
どうやって笑わせよう。難しい問題だ。
「え、コーラが飲めないなんてあなた、それはさぞかしつまらない人生を送っているのでしょうね」
ウタコの口調はとてもねちっこかった。なぜかねちっこくなってしまった。自然と挑発的な感じになってしまった。反省。動揺しているのだ。ナチュラルに自分がいかに素敵な生徒会長であるかをアピールする必要があるのに、動揺しているからコントロールが乱れてしまう。彼女がウタコ好みの美少女であるからどうしたって動揺してしまうんだ。
ウタコは今、凄く揺れている。
彼女との出会い。
遭遇はまさに。
ああ、美の発見だ。
彼女を見てウタコは発見したのだ。
好きな女の子のタイプを新たに発見してしまった!
なんて感動的な発見!
興奮しないわけがないじゃない!
「はい、えっと、私、とてもつまらない人生を送っているんです、」彼女は挑発的な眼をして言った。「だから私、生徒会に入って、生徒会の秘書になって、自分を変えようと思ったんです」
「とても分かりやすくて単純で感情的な動機ね、あまり利口な子が考えそうなことじゃないわね、」ウタコは自然と早口になってしまう。「でも私はそういうの、嫌いじゃないわよ、シンプルって素敵なことだと思う、凄く素敵」
「幸い、この学校では生徒会の選挙みたいなものがないようなので、なんていうか、その、」言って、彼女は真っ赤な舌を見せて微笑んだ。「滅茶苦茶、ラッキィでした」
ウタコは一瞬言葉を見失った。
なんて可愛い顔をするの!?
可愛い!
可愛い!
可愛い!
彼女はすぐに感情の読めない表情に戻ったけれど、ウタコはずっと彼女の無表情を見ていた。数秒前のあの、チャーミングな表情を見逃さないために見続けていた。体は熱くなっている。ピンク色の溜息が勝手に漏れる。「…………はあぁ」
「どうしたのよ?」ヨシノがどことなく優雅にカップをウタコの前に置きながら聞く。「口が半開きよ?」
ウタコはヨシノのことを無視した、というより、反応出来なかった。無意識でカップに手を伸ばした。視線は彼女。彼女から目が離せない。彼女の表情の変化を見逃したくないから。そしてカップに口を付けて「あっちぃ!」と火傷しそうになる。「ちょ、ちょっと、ヨシノ、紅茶じゃないのっ! コーラじゃないじゃんかっ!」
「ええっ?」ヨシノはウタコと彼女の丁度中間地点の椅子を引いて座って足を組んでどことなく優雅に困った顔をする。「だって、ねぇ、コーラって、カップにコーラは入れないよ、いいから黙って紅茶飲みなよ、私が淹れたんだから飲みなって」
「ああ、もうっ、ああ、もうっ、だよっ、」ウタコは熱を持った舌を気遣いながら冷蔵庫まで歩いて常備してあるコーラを飲んだ。「ああ、もぉ、予期せぬ出来事だよっ! 舌が真っ赤だよっ!」
「可愛い色じゃないの、ウタコのカーディガンの色と一緒、」ヨシノはどことなく優雅に髪を払って微笑む。「綺麗なピンク色じゃないの、んふふふ」
「もぉっ!」ウタコは冷蔵庫に黒くて太いペットボトルを仕舞って、その上にあった黒いタンバリンをパンパンと鳴らす。この黒いタンバリンは恋の似非占い師の忘れもので、しかしそのやかましい音色は理性を取り戻すのに丁度いい。パンパンと鳴らしていたら、どういうわけか心が落ち着くんだ。そしてまた呑み込めない溜息が出る。「……はぁ、もぉ」
「あはは」
可愛らしい笑い声にウタコは咄嗟に反応して振り返る。しかしすでに彼女は相変わらずの感情の読めない表情でつんという感じで澄ましていた。壁際の本棚に並んでいる錦景女子生徒会議事録の方に視線を向けている。ウタコはどこか、ペテンにかけられたような気分。
「あ、私、朱澄エイコ、です」
「……え、ああ、え?」ウタコは急に言われ、すぐに反応出来なかった。「……えっと、もう一度」
「朱澄です」
「ああ、アケミちゃん、アケミちゃんかぁ、いい名前だねぇ」ウタコは言いながら席に戻る。
「朱澄エイコです」
「ああ、エイコちゃん、エイコちゃん、いい名前だねぇ」
「えっと、からかっているんですか?」エイコはつんと言う。
「……違うよぉ」ウタコの表情はビシッとしていたが、声はヘラヘラと浮ついていた。
とにかくウタコは幸せというものを感じていた。どれくらい幸せかというと、今夜眠れそうにないくらい。エイコとデートがしたいと思った。手を繋いで歩きたいと思った。一緒にキネマが見たいと思った。キスがしたいと思った。ウタコは頬杖付いて対面の彼女をぼうっと眺めている。話がしたいな。誰にも邪魔されずに二人きりで。
「ん、んっ!」ヨシノの咳払いが聞こえた。「ウタコ、さっきからどうしたのよ、心、ここにあらずという感じじゃない?」
ウタコは生徒会室のヨシノの存在が邪魔だと思った。「いや、特に、なんでも、別に」
「それで、どうするの?」ヨシノはどことなく優雅で厳しい視線をウタコに向ける。「エイコを秘書にするの? しないの?」
ウタコはヨシノから目を逸らす。そして立ち上がり窓を開け、仄かに冷たい春風を浴びた。校庭で汗を流す健康的な女子たちの声が聞こえてくる。そして思いつくまま声に出した。「エイコちゃん、明日、テストをするわ、明日、エイコちゃんが生徒会の秘書に相応しいか、相応しくないのか、決めるわ、錦景市駅のトリケラトプスの前に午後一時よ、午後一時、いい? 分かった? もう一度言おうか?」
エイコは首を傾げた。「テスト、ですか?」
「テスト?」ヨシノが怪訝そうに反応する。ヨシノはどことなく優雅でそれでいて勘が鋭く、さっぱりした性格のようでいて女子ゆえの嫉妬深さも兼ね備えていて、たまに魔女みたいに恐ろしい。「なぁに、ウタコ、テストって何? そんな回りくどいことしなくったっていいと思うな、どうせ他に誰も来ないんだから、いいじゃないの、エイコを生徒会の秘書にしてあげましょうよ、ねぇ」
「はい、それに、明日は土曜日」
「何か用事でも?」ウタコは聞く。
「いいえ、」エイコは首を横に振る。「……別に、一時だったら」
「それじゃあ、トリケラトプス前に一時ね、決定、決定」ウタコは早口で言う。喉が渇いていた。ヨシノがどことなく優雅にウタコのことを睨んでいたからだ。ウタコは女子に手を出しがちである。ヨシノはウタコが女子に手を出すことにあまり寛容じゃない。別にヨシノがウタコの彼女、というわけでもないんだけれど、おそらく生徒会長代理として、節度をウタコに要求しているのだ。
「まさかデートですか?」エイコは突然、真顔で聞いた。
「そ、そ、そそ、そんなわけないでしょっ!」ウタコは怒鳴った。そして首を大きく振って、深呼吸を短く繰り返して冷静になる努力をした。動揺は続いている。「そんなわけない、あるはずがないっ!」
「冗談です、」エイコは自分の肩に掛かる髪に触り、どことなく悪戯に微笑んでいる。「なんちゃって」
その表情も魅力的で可愛くって。
ウタコはドキドキしてしょうがなかった。
ヨシノの存在が非常に鬱陶しく思われた。本当に邪魔。ヨシノがパイプ椅子を畳んで生徒会室を出て行ってくれれば、生徒会室で本来の目的からはずれた行為に及ぶことが出来るというのに。いや、そんな勇気はウタコにはないのだけれど、とにかく邪魔。
「目が赤いよ」
気付くとヨシノが近かった。ウタコの口からは「ぎゃあ」と変な声が出た。そして静かにヨシノから身を離し少しずつ息を吐いて呼吸を整えていった。「もぉ、もぉ、もぉ」
「なんなの、なんなのよ、その反応?」ヨシノは頬を膨らましてからどことなく優雅に吹き出した。「なんか失礼じゃないかしら、ねぇ、生徒会長?」
「……何のシャンプ?」ウタコはヨシノから目を逸らしながら聞く。「凄くいい匂い」
「分かった?」ヨシノはどことなく優雅に機嫌がいいという目の形を作る。「サンセンチメンタルっていうメーカのね、群鶴っていうシャンプ」
「持ち物はなんですか?」エイコが大きな声を出して聞く。
「え?」
「明日の持ち物です、筆記用具は?」
「ああ、えっと、うん、筆記用具とそれから、」ウタコは思いつく。「眼鏡、とか」
「眼鏡って、視力検査でもするんですか?」
「まあ、そんなところかな、遠くのものを見てもらうわ、」ウタコは眼鏡を掛けて遠くを見る女子の横顔が好きなのだ。「べ、別にやましいことなんてないんだからねっ、それとも、眼鏡持ってないの?」
「いいえ、伊達眼鏡なら、何個も」
「よろしい」
「本当にテストですか?」
「何? 疑っているの?」
「いえ、別に」
「生徒会に入りたいんでしょ?」
「はい、それは、もちろん」
「だったら」
「トリケラトプスの前に一時ですね、分かりました」
「うん、よろしい」ウタコはニッコリと微笑む。
「しょうがないな、一時ね、」ヨシノはどことなく優雅に腕を組んで頷いている。「一時ね、了解、了解しましたよぉ」
「あ、ヨシノは来なくていい」ウタコは真顔でヨシノに言う。
「どうしてよ?」ヨシノもどことなく優雅な真顔で見返してくる。
少し恐い。
でも。
明日は二人がいい。
それだけは譲れない。
二秒。
睨み合った。あまりない経験だ。「絶対に来ないでよね!」
「どうしてよ?」
「どうしても!」
「理由を言いなさい」ヨシノはどことなく優雅にウタコの頬を抓ってくる。
「言いませんっ!」
「でも土曜日なんですよねぇ」
エイコの声に二人は睨み合いを中断。
エイコは頬杖を付き壁に掛けられたカレンダのヴェネツィアの風景をぼうっと見ていた。