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12億円当たったら、小説を書くつもりだった

作者: 春凪とおる
掲載日:2026/07/31

十二億円当たったら、まず会社を辞める。


駅前のタワーマンションに住む。

好きな場所へ好きなときに旅をして、北海道で雲丹を食べ、パリで服を買う。


両親には家を建て、妹の奨学金を返す。

世話になった人には気前よく奢り、嫌いな人間には、何も言わず成功した姿を見せつける。

そういう欲望を、私は毎年、黄色い箱に詰め込んでいた。


箱といっても、机のいちばん下の引き出しである。

駅前で買ったサマージャンボプレミアムをそこへしまう。


売り場の看板も封筒も黄色く、宝くじという言葉そのものが、私の頭では黄色に光っていた。


今年で十年目。私は三十四歳になっていた。

都内の小さな食品会社で受注管理をしている。


注文を確かめ、在庫を問い合わせ、納期を調整し、電話で謝る。

誰かの入力ミスを直し、誰かの機嫌を読む。


毎日は、同じ形のクッキーのようだった。

不味くはないが、喜んで手を伸ばすほどでもない。気づけば一袋なくなっている。


宝くじを買うと、抽せん日までの数週間だけ違う人生を生きられた。

昼休みにマンションを眺め、帰りの電車で旅行の費用を調べる。

理不尽なことを言われても、あと少しで別世界へ行くのだと思えば耐えられた。


当たったのは三百円が何度かと、三千円が一度。

それでも、買わなければ当たらない、という呪文を唱えてきた。


外れた直後だけは、来年こそ買うのをやめようと思う。

けれど一年が過ぎ、黄色い看板が駅前に立つと、前年の失望は薄くなった。


くじを買う前の私は、まだ何にでもなれる。

封筒を引き出しへ入れた瞬間から、そこには会社を辞め、海の見える部屋で暮らす私がいた。

結果を見るまでの私は、当たった私を失わずに済んだ。




七月の終わり、会社帰りの宝くじ売り場には十人ほどが並んでいた。

私の番が来ると、窓口の女性が明るく尋ねた。


「連番ですか、バラですか?」

「連番三十枚、バラ三十枚」


合計一万八千円。例年より多い。

今月の残高が一瞬頭に浮かんだが、紙幣を差し出した。


「大きく当たりますように」


黄色い封筒は、十二億円の可能性が入っているにしてはあまりに軽かった。


私は駅ビルの地下で、三割引の唐揚げと安い缶チューハイを買った。

贅沢な暮らしを夢見ながら、割引シールを探す自分がおかしかった。


帰宅すると、机に六十枚を広げた。

一枚ずつ指でなぞり、欲しいものを割り当てていく。


「会社を辞める」

「マンション」

「旅行」

「親の家」

「妹の奨学金」


それからブランドのバッグ、美容、家事代行と続き、最後には島まで出てきた。


「島って、何するのよ」

笑いながら、なぜか涙が出た。疲れているだけだと思った。


机の引き出しを開けると、過去九年分の外れくじが輪ゴムで束ねてある。

新しい六十枚をその上に置いたとき、束の隙間から罫線入りの紙が落ちた。


私の字で、「宝くじが当たったらやりたいこと」と書かれていた。

 一、会社を辞める

 二、親に家を買う

 三、妹の奨学金を返す

 四、好きなだけ旅行する

 五、小説を書く


最後の一行を、しばらく見つめた。


大学生の頃、私は物語を書いていた。

文芸サークルで年に二度、小さな冊子を作った。


印刷したばかりの紙の匂い。

誰かが自分の文章を読んでいるときの、恥ずかしくて胸が熱くなる感じ。

それが好きだった。


当時の文章は、今思えば背伸びばかりしていた。

雨を降らせ、登場人物に難しいことを言わせ、最後には誰かを泣かせた。

それでも締切の前には夢中になった。


講義の合間にノートへ書き、終電まで部室で原稿を直した。

上手くはなくても、書いている間だけは、自分が自分の時間を使っていると思えた。


卒業後も書くつもりだった。

けれど最初は仕事を覚えるのに精いっぱいで、やがて残業が増えた。


失恋もした。父が入院した年もあった。

六年目には書かないことに慣れ、その後は理由すら必要なくなった。


いつの間にか私は、小説を書くことを、十二億円が当たらなければできないことにしていた。

時間ができたら。生活に余裕ができたら。


――心配事がなくなったら。


当たれば始める。

当たらなければ、始めなくていい。




その夜、私は巨大な黄色い箱の中にいる夢を見た。

足元には札束や宝石や航空券が散らばっている。

両手で抱えようとするほど物が増え、腕からこぼれた。


全部欲しい。一つも手放したくない。

そう思うほど体は沈み、やがて口元まで埋まって息ができなくなった。


目を覚ますと、午前四時十三分だった。

机には、宝くじと古い紙が並んでいる。


五、小説を書く


私はパソコンを開いた。白い画面でカーソルが点滅していた。

十年以上まともに書いていない。何を書けばよいのか分からない。

それでも、一行だけ打った。


 女は、欲望を黄色い箱に詰め込んだ。


胸の奥で、錆びついた歯車がわずかに動いた。

気づけば、私は続きを打っていた。




翌日は寝不足で、仕事でも間違えた。

上司に注意されて頭を下げながら、私は朝方に書いた女のことを考えていた。


黄色い箱の底には何があるのだろう。

 

退勤後、寄り道せずに帰った。

一時間だけと決めて、続きを書いた。


 女は箱の中に、欲しい家、服、才能、名声を集めた町を作る。

 理想の自分をそこへ住まわせ、現実の女は箱の外から眺め続ける。


書き終えると肩が凝り、目が乾いていた。

それなのに、その日は昨日とは違う形をしているように思えた。




それから私は、仕事を続けながら少しずつ書いた。

帰りの電車で一文だけスマートフォンに残した。

コンビニのパンをかじりながら続きを書く夜もあった。


前日に気に入った一段落が、翌朝にはひどく気取って見えた。

消してばかりで文字数が減ると、何のために書いているのだろうと思った。


宝くじなら、買った時点で夢を見る権利をくれる。

小説は、時間を使っても何も返してくれないかもしれない。


それでも、女が町から出られないままなのが気になり、私はまたパソコンを開いた。


物語の中の町は、初めこそ美しかった。

住人は女を褒め、店の品はすべて無料で、空はいつも晴れていた。


やがて女は息苦しくなる。住人は望んだ言葉しか話さない。

天気は変わらず、料理は好物ばかりで驚きがない。

思いどおりになるものしかない町には、女の知らないものが何もなかった。

 

 女は外へ出ようとするが、扉が見つからない。


そこで私の手も止まった。




昼休み、屋上の古いベンチでおにぎりを食べながら、

スマートフォンに出たサマージャンボプレミアムの広告を見た。


最高額、一等・前後賞合わせて十二億円。


会社を辞め、マンションを買い、旅行をする。

いつもの想像が始まった。

だが、その中の私は高級な部屋に座り、窓の外を見ているだけだった。


 それで、何をするの。




夜、私は物語の女にも同じことを尋ねた。

 

 箱を出て、何をしたいの。


女は初めて、自分の意思で答えた。

 何かを作りたい。


 女は町の豪邸を壊し、その木材で小さな船を作った。

 飾り棚の金具を外し、豪華なカーテンを裂いて帆にした。

 

 女が何かを作るたび、欲望の町は少しずつ崩れた。


私は夢中で書いた。


町を壊す女は、欲しかったものを嫌いになったわけではない。

女が惜しみながらも手放す姿を書いているうちに、私も自分の欲しいものを考え直していた。


誰かに羨ましがられたい気持ちもあった。

けれど旅行は本当にしたい。

両親を楽にしたい気持ちも、妹の奨学金を返したい気持ちも消えなかった。


欲望には、借り物と本物が混ざっていた。

見栄も、不安も、悔しさもある。

全部が悪いとは思わなかった。


欲望があったから耐えられた日も、未来を想像できた夜もあった。

ただ、箱の中へ入れたままでは、何も始まらない。




抽せん日の前日、私は物語を書き上げた。

題名は『黄色い町の船』。


女は自分で作った船に乗り、崩れる町から外へ漕ぎ出す。

外では雨が降り、風が吹き、海は荒れている。

女は怖がりながら、初めて思いどおりにならない世界の匂いを吸い込み、笑う。


末尾に「了」と打った。

誰に頼まれたものでもなく、認められたわけでもなく、お金にもならない。

それでも、一つの物語がそこにあった。


読み返せば、直したいところはいくらでもあった。

町の仕組みには無理があり、女の決心は少し早すぎるかもしれない。


大学時代の私なら、もっと上手く見せようとして結末を飾っただろう。

けれど、その夜は閉じなかった。


未完成だからではなく、いったん完成したものとして保存した。

完璧になる日を待っていたら、この物語もまた黄色い箱へ戻ってしまう気がした。


私は引き出しから古い外れくじを取り出した。


仕事に慣れず、辞めたかった頃。

失恋や家族の病気に振り回された頃。

友人や同期と自分を比べ、年齢ばかり気にしていた頃。


九年分の紙には、その年ごとの私が張りついていた。

一枚ずつ破ると、長い間まとっていた重い衣装を脱ぐような気がした。


ただし、今年の六十枚は残した。

まだ当たっていてほしかった。


一等ならなおいい。金も欲しいし、楽もしたい。

会社だって、辞められるなら辞めたい。


私は欲望を捨てた聖人ではない。

やめたいのは、当たらなければ始めない、という生き方だけだった。




翌日、抽せん結果を確認するため、定時で帰ろうとすると上司に呼び止められた。


「この資料、今日中に見てもらえる?」


いつもなら反射的に引き受けていた。


「明日の朝では間に合いませんか?」

「得意先に出すのは明日の午後だけど」

「では、明日の午前中に確認します。今日は予定があるので失礼します」


言い終えた途端、心臓が強く鳴った。

上司は眉を動かしたが、「分かった」と言った。

それだけだった。


世界は壊れなかった。




駅前のカフェで公式サイトを開き、黄色い封筒から宝くじを出した。

連番三十枚は、三百円が三枚。


次にバラを一枚ずつ見る。

十九枚目で、画面に表示された十万円の当せん番号と、券面の番号が一致した。


賞金、十万円。


十二億円ではない。会社を辞めるにも、望んだ暮らしを手に入れるにも足りない。

それでも私には、簡単に無視できない金額だった。

笑いが漏れそうになり、両手で口を覆った。

 

電卓で、十万円から今年の購入額を引いてみた。

八万二千円。過去十年の購入額まで考えれば、たぶん赤字である。

それでも画面に並んだ数字は消えなかった。


奇跡と呼ぶには小さく、普段の出費として扱うには大きい。

今の私に何か一つを選ばせるには、ちょうどよい額なのかもしれなかった。




帰宅後、使い道を考えた。欲望の一覧にあるものには、どれも足りない。

机の上には『黄色い町の船』の原稿と、大学時代の古い文芸誌があった。


少部数の印刷を調べると、当せん金の一部を使えば三十冊ほど作れると分かった。

商業出版ではない。賞を取ったわけでもない。それでも、本は本だ。


私は原稿を読み直し、誤字を直し、表紙を考えた。

淡い黄色の表紙に濃い青の題字。本文には目に優しいクリーム色の紙を選んだ。


入稿では何度か失敗した。

でもデータを直して送り直すたびに、不安よりも「完成へ近づいている」と感じられるようになった。




九月の初め、三十冊の本が届いた。

段ボールを開けると、紙とインクの匂いがした。

一冊を両手で持ち上げる。


『黄色い町の船』


表紙に私の名前がある。

画面の中にあった文章は紙の上に固定され、簡単には消えないものになっていた。


最後のページでは、女が船の上で笑っている。

その下に、小さく「了」と印刷されていた。


私はしばらく、その重さを確かめるように本を持っていた。

画面の中にしかなかった文章が、両手の中にあった。


最初の一冊は両親へ、二冊目は妹へ、三冊目は大学時代の友人へ送った。

残りはどうすればよいか迷い、近所の小さな書店へ持っていった。

店主は驚いた顔をしたが、一冊を預かってくれた。


数日後、五冊だけなら委託で置けると連絡が来た。




一週間後、一冊売れたと連絡が来た。

見知らぬ誰かが、お金を払い、私の物語を持ち帰った。

そのことは、一等の当せん番号より現実味がなかった。


五冊のうちの一冊。残り四冊はまだ棚にあり、家にも渡す当てのない本が積まれている。

それでも、見知らぬ誰かの部屋に生まれた一冊分の空白を、私は何度も想像した。




さらに数日後、店主から小さな便箋を渡された。

買った人が感想を預けていったという。

青いペンで、短い文章が書かれていた。


「箱の外に出るのが怖かったけれど、私も船を作ってみようと思いました」


私は何度も読んだ。

私の中にしかなかったものが言葉になり、知らない誰かの中へ渡っていった。


大学時代の私が欲しかったのは、たぶんこれだった。

便箋を本の間に挟んだ。




その冬、私はパソコンに新しいフォルダを作り、次の物語の題名をつけた。

本文はまだ一行もなかったが、それでよかった。


会社が急に好きになったわけではない。

忙しい日は相変わらずあり、断れずに引き受けてから後悔することもあった。

帰宅して何も書かずに眠る夜もあった。


ただ、書けなかった夜の翌日に、もう終わりだとは思わなくなった。

止まったところから再開すればよい。船は、一晩で作るものではなかった。




翌年の夏、駅前にはまたサマージャンボの売り場が出ていた。

私は通り過ぎかけ、足を止めた。


去年は十万円。今年は、もっと当たるかもしれない。


欲しい。やはり欲しい。

列の最後尾に並んだ。


「連番ですか、バラですか?」

「バラで十枚ください」


六十枚ではなく、十枚。宝くじを否定したからではない。

当たれば嬉しいし、外れれば残念だ。

ただ、もう薄い紙に人生のすべてを背負わせてはいなかった。


帰宅すると宝くじを机の引き出しに入れた。

そこには古い外れくじの束の代わりに、青い文字の便箋、私の本が一冊入っている。


私は引き出しを閉め、パソコンを開いた。

欲望は今もたくさんある。本をもっと作りたい。旅行もしたい。


広い部屋にも住みたい。親を安心させ、妹に美味しいものを奢りたい。

もう少し無理をせずに働きたい。宝くじだって当たってほしい。


私はそれらを捨てなかった。

ただ、黄色い箱に詰めたまま眠らせるのをやめた。


窓の外で夏の夕立が始まった。

雨粒がベランダの手すりを叩き、遠くで雷が鳴る。

作中作の町なら、きっと晴れのままだった。


私は少し笑い、濡れた窓の向こうを見た。

思いどおりにならない天気は、悪くなかった。


画面の中で、主人公が最初の一歩を踏み出した。

私はその背中を追うように、新しい物語の一文目を打った。


 女の机の引き出しには、十枚のサマージャンボ宝くじが眠っている。


当せん発表は、まだ先だ。

けれど私の人生は、もう抽せん日を待ってはいなかった。



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